食べ物の旅

増田朋美

食べ物の旅

その日は天気が急に変わるということで、みんな外へ出ず、部屋の中にいた。その日の午後は、確かに風が吹いたりもしていたが、甲子園での野球中継が行われているし、思っているほどひどい天気にはならないらしい。ちょっとホッとする。そんな天気の日であった。

その日、ブッチャーこと、須藤聰が、注文された着物を発送する作業をし終えて自宅へ戻ってきたところ、いつもなら食事の支度が完了しているはずなのに、その日は全く支度ができていなかった。姉の有希はどこかへ遊びに行ったのだろうかとも考えたが、天候に過敏な姉が、簡単に外へ出かけることは無いと考え直した。ブッチャーは急いで姉の部屋へ向かった。

「姉ちゃんどうしたんだよ。また何かあったのか?」

ブッチャーは姉の部屋のドアを叩いた。

「ごめんね聰。ちょっと感情がコントロールできなくて。」

姉の有希はとてもつらそうな顔をしていった。

「そんなものより、ご飯をどうするか教えてもらえないだろうかな?」

ブッチャーがそう言うと、

「コンビニでなにか買って食べて。今日は作れそうに無いわ。」

と、有希は言うのであった。

「もう、そんなこと言わないでさ、何があったのか、俺に話してみてくれよ。自分では姉ちゃん、どうにもならないだろう?」

ブッチャーは、机の上に伏せて泣いている有希に向かっていった。有希を早く立ち直らせて、いつもの調子を取り戻すためには、人手が必要であるのは、ブッチャーはよく知っていた。鉄は熱いうちにたたけという。それもそのとおりだと思う。早く有希を解決させなければ、家の中が落ち着かないまま時間だけが過ぎてしまい、家の用事が円滑に回らなくなってしまう可能性もある。

「姉ちゃんそう落ち込むな。そんなに落ち込んで、姉ちゃん自身が辛いだけじゃないか。それより明るくなって、気持ちを楽にしようとか、そういうことは思わないのかい?」

ブッチャーが聞いても、有希は応えようとしなかった。まあそれができれば苦労はしないかとブッチャーは考え直した。それよりも、姉が求めているのは、その辛さに彼女が耐えることができず、自分自身で処理できないため、代わりに処理する人だとブッチャーは知っていた。

「ほら、薬のみな。少なくとも今よりは、気持ちが落ち着くぜ。つらい思いをしたときの薬は、もらってないのかい?」

ブッチャーはまず初めに言った。姉に対して落ち込んでいる理由を聞くより、薬を飲んだほうが早く良くなるのは、ブッチャーも学んでいる。とりあえず、有希はブッチャーの指示に従ってくれて、机の上においてあった薬を飲んだ。これができるだけでも良い方である。中には自分のほうが正常と言って、薬を飲むのも嫌がる人もいるのだから。逆に大量に薬を飲んでしまって、大事件を起こす人もいる。本当に薬の使い方は難しいなとブッチャーは思うのであった。

「どうだ姉ちゃん。ちょっと楽になったか?」

ブッチャーが聞くと、有希はええと答えた。

「じゃあ、何があったのか、俺に話してみてくれるか?」

初めてブッチャーは、姉に要件を話した。

「ええ、クラウドソーシングで仕事しようと思ったら、高額なアプリを買わされそうになって、お金が払いきれなかったのよ。取引は、とりあえずキャンセルできたんですけど。」

「やっと真相が判明したか。」

ブッチャーは、そんな簡単なことで泣いているのかといいたい気持ちを、抑えながら言った。批判することは絶対行けないが、そういう事を言いたくなってしまうものだ。

「そうか、それで、とりあえず取引は、キャンセルできたんだね。そういうところだから後で連絡をよこしてくることは多分無いでしょう。それでいいじゃないか。」

「そうよ、だからそうしたじゃないの。」

ということはそれはできたらしい。

「なら、もう気にしなくていいんだよ。終わったことなんだから。」

ブッチャーはそういうのであるが、姉の有希の感想は違っていた。

「どうやったら、気にしないでいられるの?ずっと気になってしまって、すごく辛いのよ。それをどうやったら気にしないでいられるのか教えてよ。」

有希は直ぐそういった。そうやって直ぐに教えてと言うが、本当に理解しているかどうかは不詳であった。

「みんなどうやったら、気にしないでいられるのかしら?気にしないなんて私はとても出来ないし、いつも考えてしまって、やっぱり私はそんな簡単なこともできないし、やっぱりダメな人間なのね。」

こればかりは本当に難しい問題であった。ブッチャー自身もどう教えたらいいのかよくわからないものである。

「まあなあ、姉ちゃんは、そこが車椅子に乗っているのと同じようなものだよな。それなら、誰かの手を借りても仕方ないよな。」

ブッチャーは大きなため息をついた。

「俺が教えることはできない。そこら辺は、病院の先生とかそういう人に相談すると良いよ。」

ブッチャーは大きなため息をついた。

「俺は、そういうことはできないからさ、俺だって悩んでいることもあるから、そういうことを専門的に扱っている人を見つけてさ、それで教えてくれる人を見つけるといいさ。」

それしか答えはなかった。抽象的な考えが多い、精神障害者には、できないと素直に言うことも大事である。

「さあ姉ちゃん、早くご飯を作ってくれよ。俺、腹が減って仕方ないんだ。いつも姉ちゃんが、食事を作ってくれるの、楽しみにしているんだよ。」

ブッチャーはわざと明るく言った。姉に、姉のことが必要であると訴えることも精神障害者と付き合うための大事な技術だった。

「ごめんなさい聰、私もいつまでもくよくよしては行けないわよね。これから気をつけるわ。」

有希はそう言って、机から立ち上がった。ということは薬が効いてきたのだろう。そういうことなら良かったとブッチャーは思った。精神障害というのは、見かけで見えるものではないので、なかなか理解しにくいと言われる。そういうときにはできることと、できないことを、はっきりさせておくことが肝要である。

「簡単なものでよければ、今でも作れるわ。」

有希はそう言って台所へ立った。急いで冷蔵庫を開けて、野菜を取り出し、野菜を切り始めた。何だできるじゃないかとブッチャーは言おうとしたが、それはやめておいたほうが良いと思った。本当に泣いたカラスがもう笑ったという表現がぴったりで、有希は、いつも通り野菜を炒め始めた。だけど、その言葉を使ってしまうと、彼女はひどく傷ついてしまうと思う。それが、子どもとは大きな違いだった。やがて、ご飯の匂いがして、ようやく食事ができあがった。姉の手作りとはいえ、朝昼晩と、一日三色食べられることは、幸せなのかもしれなかった。

その次の日、製鉄所にはまた新しい利用者が来訪していた。いつも利用者は、学校に行けなかったとか、そういう訳アリの女性ばかりが目立つのであるが、今回の女性はそうではなかった。ちなみに製鉄所という名前だが、鉄を作る施設ではなく、理由のある女性たちに勉強や仕事をする部屋を貸し出している福祉施設である。

「えーとまず、お名前をどうぞ。」

製鉄所の管理人をしているジョチさんこと、曾我正輝さんは、その女性に言った。

「佐野江里と申します。学歴は一応、常葉学園大学を出て、現在富士紙業という工場で事務員として働いています。」

と、彼女は言った。それでは、学校にもいっていて、居場所でもある職場はちゃんとあるので、居場所には不自由しないのではないかと思われたが、彼女は続けるのであった。

「大学を卒業して、現在の職場に入ったのですが、どうしても今の仕事に充実感が持てなくて、それでこちらを利用しようと思い至ったわけです。」

そういう佐野さんに、ジョチさんは変な顔をした。

「はあ、ふしぎなものですな。仕事もあり、学歴もあり、他の利用者に比べたら、すごいことを成し遂げていると思うのですがね。それなのに何でわざわざ、ここへ来られたのでしょうか?」

本当に不思議なものであった。

「ええ、ここへ来ては行けないかもしれませんが、でもどうしても仕事以外に、通う場所が欲しかったんですよ。」

と、佐野さんは言うのであった。

「そうなんですか。でもすでに仕事を持っているあなたが、ここへ来て、何をするつもりなんですかね?」

ジョチさんがまた聞くと、

「はい、何をするかはわからないですけど、私は自分にできることなら、一生懸命やりますし、できる限り頑張ります。どうかこちらへ通わせてください、お願いします。」

佐野さんは頭を下げた。

「そうですねえ。ですが、本当に、あなたがすることは果たしてあるのでしょうかね。だってあなたは、教育機関を受験する理由でも無いですし、仕事も完結させる場所をちゃんと持っているわけですから、なにか不足のようなものは無いと思うんですよ。それでは、どれくらい、こちらに通う予定ですか?」

ジョチさんがそうきくと、

「ええ、仕事は、15時で終わってしまいますから、それ以降、こちらへ来て、なにかお手伝いすることでも良いです。」

と、彼女は言うのだった。

「そうですか。大体の利用者は、17時で帰っていきますので、そうだなあ、どうしましょうかね。」

ジョチさんがそう言うと、佐野さんはやっぱりダメかという落胆の表情を見せた。それと同時に、車椅子の音がして、杉ちゃんが入ってきたことがわかった。

「あ、お取り込み中ごめんね。あの、寿司の出前をしたいんだがね、番号を教えてもらえないだろうかなあ?」

そういう杉ちゃんに、ジョチさんは、少しお待ちくださいといった。

「じゃあここで待たせてもらう。あ、お前さんは新しい利用者さんだね。どういう敬意でここに来ているかわかんないが、なにかご縁があってここに来てるんだろうし、ぜひ、よろしくお願いしますね。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、

「ああ、ああ、こちらこそよろしくお願いします。あたしは、佐野江里と申します。」

江里さんは不慣れな感じで自己紹介をした。

「僕は影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。職業は和裁屋、得意なことは、お料理すること食べること。」

杉ちゃんが自己紹介すると、

「和裁屋ってなんですか?」

と、江里さんは聞いた。

「そんなことも知らないのかい。着物を縫って仕立てるのが仕事だよ。着物のサイズ直しや、縫製が弱くなった着物の作り直しもやるよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「それで、この製鉄所には、何の目的で来たんだい?勉強する場所が無いから、ここで勉強させてもらうとでも考えたのか?それとも懸賞に応募する原稿でも書くのか?」

杉ちゃんがそう言うと、江里さんは、どちらでも無いんですと言った。

「じゃあ何で、ここを利用しようと思ったの?隠さずに話してみな?僕、答えが出るまで何度も質問し続けるたちだから、ちゃんと答えを話してみてくれ。」

「そうなんですね。大学を出て、就職もしたのに、なぜか、仕事をしても、何も楽しくなくて。しまいにはなんでこの仕事を選んだのか、わからなくなってしまったんです。それで、こういう施設にこさせてもらったら、ちょっとなにか学べるのではないかと思いまして。」

江里さんの発言に、杉ちゃんもはあという顔をした。

「そうか。この製鉄所では、仕事を得ることがゴールみたいな考えをしている利用者が多いんだが、それだけでは無いってことだね。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですねえ。就職できたからと言って、幸せになれるとは限らないということでしょうか。しかし、ここで何をしてもらいましょうか。誰かの世話をしてもらうとか、そういうことですかね。」

ジョチさんがそう言うと、

「簡単じゃないか、僕と一緒に、水穂さんの世話をしてもらう。仕事は簡単。ご飯を食べさせたり、お料理作ったり、着物を脱ぎ着するのを手伝ったり。僕も車椅子でできないことがいっぱいあるから、歩けるこいつに手伝わせよう。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですが、無理ですよ。私、介護のしごとなんて全然やったこと無いし、そう言うのを養成する専門学校とか、そういうところに行ったことも無いし。」

そういう江里さんに、

「いや、大丈夫だよ。どうせお前さんだって親御さんでも介護するかもしれないし、その予習だと思ってやってみたら?初めは、みんな素人だし、水穂さんも優しい人だから、ちっとやそっとの失敗でも許してくれると思う。だから、やってみようぜ。よろしく頼むわ。」

杉ちゃんが彼女の肩を叩くと、佐野江里さんはわかりましたといった。

「何も経験ないですけど、それでも良ければしてみます。」

「よし、それなら早速お前さんにしてもらいたい事がある。水穂さんに、ご飯を食べさせてくれ。もう作ってあるから。これ何だけど、こい。」

杉ちゃんは直ぐ製鉄所の台所に行った。江里さんも一緒に行った。台所には、片手鍋がおいてあって、中には美味しそうなおかゆが入っていた。白粥であるが、とてもうまそうなものである。これは誰が作ったのかと、杉ちゃんに聞くと、杉ちゃんは僕が作ったとぶっきらぼうに言った。なんだか男性が料理するのは珍しいと江里さんは言ったが、杉ちゃんは平気な顔をしていた。江里さんはとりあえず、おかゆを深めの皿に盛り付けた。そしてお盆に乗せて近くの食器棚から、お匙を一つ出して、それも乗せて、水穂さんのいる四畳半へ向かった。

「あたし、今日からここでお手伝いをさせていただくことになりました、佐野江里と申します。水穂さん、お食事ができましたので食べてください。」

江里さんは、お皿をサイドテーブルに置いた。水穂さんは、それを聞いてよいしょと布団の上に起きて、

「どうもありがとうございます。」

とだけ言った。その容姿に江里さんは思わず衝撃を受けてしまう。なんだかどこかの外国の俳優さんみたいに、端正な顔立ちであった。

「じゃあ、食べてください。食べている間、ここにいるようにと言われているので、私もここにいさせていただきます。」

江里さんがそう言うと、水穂さんは、お匙を受け取って、おかゆを食べ始めた。でも、おかゆを口にした途端、えらく咳き込んでしまった。江里さんは、何をするんですかといったが、何度おかゆを口に運ぼうとしても、咳き込んでしまって、食べることができないのであった。

「どうして?それほど痩せているということは、もしかしたらダイエットのしすぎとかそういうことですか?」

江里さんが、そう聞いても、水穂さんは咳き込んだままだった。やがて口元に朱肉のような色をした内容物が漏れてきて、江里さんはぎょっとする。どうしようと考えていると、

「こんにちは。近くを通りかかったのですが、水穂さんのことが心配でこさせていただきました。」

と玄関先で声がした。応答したのは杉ちゃんだった。誰にでも関係なく、平気で応答できるのは杉ちゃんしかいない。

「ああ、有希さん、良いところへ来てくれたね。ちょうど新人利用者が水穂さんにご飯を食わせられなくて、困っているところなんだ。ちょっと手伝ってやってくれよ。」

と、杉ちゃんの声が聞こえてきた。有希は、わかりましたと言って何も偏見もない顔で、四畳半にやってきた。

「水穂さんこんにちは。今日も御飯食べるの大変なのね。咳き込んでしまうのは仕方ないかもしれないけれど、頑張って食べて栄養つけようね。」

有希は、そう言って、水穂さんの隣に座った。そして、お匙におかゆをとり、水穂さんの口元へ持っていき、

「つらい気持ちはよく分かるわ。だってあたしだって、弟に食べさせてもらっている身よ。それで、社会に出てなんとかしようとしても、できないもの。仕事もやっと見つけられたと思ったら、直ぐに悪事に引っかかったり、高額なアプリを買わされたりで、仕事も全然できてないの。そんな人間が、生きていても良いのかわからなくなっちゃうわよね。」

と、水穂さんに言った。不思議なもので有希の発言はなにか力があるらしい。江里さんにしてみればなんという屁理屈だとしか見えないけれど、なにか、不思議なものがあった。

「だけど、あたしは、仕方なく生きてる。弟がね、生きていてほしいってそう言ってるの。本当は、いつでも死にたいとかそういう気持ちも思うんだけどね。それにこれと言った目標もないし、まあ、今の世の中、なにか得られても、すぐに取られてしまうんだろうなっていう事件ばっかりだし。それでも生きてるわ。そういうわけで、あたしは、何も目的がなく生きてきた中で、こんな事を学んだのよ。すべてのものは得られないって。どうせ、いろんな事を学んでももらっても、幸せは長続きしないでみんな消えちゃうものなのよね。ほんと、何かの足しにもなれないで、何にもなれずに消えていくっていう表現がぴったりよ。」

有希さんは何を言っているのだろうと、隣りにいた、江里さんは、バカにしたような顔つきで彼女を見ていたが、次の発言で、江里さんは有希に対する気持ちが変わったような気がした。

「そんな中でね、あたしたちは、食べるということができるのよね。食べ物を食べて、また善業するための、力を得ることができるのよ。食べ物は無駄にならなかったね。だから、それができるあたしたちは、幸せだと思わなくちゃ。すべてのものは得られないって言うのが、もう世の中の大原則みたいになってるけどね、食べ物を食べて、動く力や、考える力を得られるってことは、あたしは素晴らしいことだと思うけどな。そういうわけだから、水穂さんも、ご飯、食べられるよね。」

そうか、食べ物を食べて、動く力や考える力を得られるのか。そうなれば、本当にすごい旅をしているんだね。江里さんは、そう考え込んでしまった。なんだか事務の砂を噛むような仕事をしているより、食べ物にまつわる仕事に変えたほうが、私はもっと幸せな人生を送れるのではないか。もちろん、楽しいことばかりではないと思うけど。えりさんはそんな事を考えた。

春というのは、不思議なものである。なんだか、寒いのから開放されるとか、それだけのことでは無い気がする。


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食べ物の旅 増田朋美 @masubuchi4996

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