第69話亡霊の魔手

 ◆


 鼻腔をくすぐる臭いは、嗅ぎ慣れた消毒液の臭いか。窓の外から差し込む陽の暖かさが、瞼を撫でる。


「ッ……!」

 

 健康優良を体現するヴィクトリアにとって、起床とはすなわち身体の起動である。中途半端な睡魔などなく、まるでスイッチのオンとオフを切り替えるように目覚める——そのはずだった。


 激痛。指を一つ、動かすだけで身体の全身に雷が走り抜けるような痛みに、さすがのヴィクトリアも呻き声が漏れた。


 目覚めにしては、人生の中でも五本指に入るほど最悪なものだ。しかし、全身を苛む激痛など——覚醒したヴィクトリアにとっては些事であった。


「あ、良かった! 目が覚めたんだね、ヴィクトリア」


 身を起こそうと、上半身に力を入れたところで、枕元の横からヴィクトリアのよく知った声が嬉しげに響いてきた。

 

 リナだ。リナ・サンドリヨン——シャロンとモニカ、そしてカルラの同室に住む学生勇士であり、ヴィクトリアの(リナ本人からすれば傍迷惑な認定ではあるが)好敵手である。


 いつもであれば、貴族らしく優雅な挨拶を一つ挟んで、貴族と平民の格をリナに教えていたところだが——今のヴィクトリアに、そんな余裕はなかった。


「シャロン……ッ! シャロンは無事ですの!?」


 己の身体の痛みなど、どうでもいい。痛みならば、歯を食いしばって耐えられる。だが、シャロンは全身全霊を賭して守らねばならない子どもであったのだ——もしも彼女の命が魔族に奪われたのであれば。それは己の身を引き裂かれること以上の、最悪のであった。


「ちょっ、落ち着いて! あなたの身体は外傷こそ無いけど、内側は結構酷いことになっているんだから。少なくとも、回復魔法を使える上級生か養護の先生が来るまでは安静にしていて。ね?」


「落ち着いていられるものですか! また私だけ助かって、あの子になにかあったら……! つぅッ……!?」


「ああ、ほら! 言わんこっちゃない。どんな無理をしたんだか……。とにかく、横になって。少し落ち着いて話しましょう?」

 

 どんな無理をしたら? 文字通り、死力を尽くしたのだ。


 死力を尽くしてなお、あの死地を乗り越えることはできなかった。できたことと言えば、朦朧とする意識の中で1匹の魔族に一矢報いることだけ。

 

「……ごめんなさい、リナ。私がもっとしっかりしていれば、シャロンだけでも助けられましたのに……! どうしてまた、私だけ……!」


 領民を守るため、彼らの盾となり矛となって死んでいった、最愛の父と兄。ガレリオ魔法学園に入学してから、——否、それ以前から、立派な貴族となるべく研鑽を積んだつもりであったが。


 それでもなお、魔装を持った精鋭の魔族相手では歯が立たなかった。限界を、人体と己の限界を一歩踏み越えて、ようやく1匹。それも意図した形で表出した力ではない。


 女神ヴァシオンが微笑んだおかげだろう、ヴィクトリアはそうとしか考えられなかった。


(ならば、どうしてシャロンではなく私に微笑んだのですか……!)


 意識を失う、最後の一瞬。確かにシャロンの声をヴィクトリアは聞いていた。しかし、あの朦朧とした意識の中で聞いた「たすけて」という声は果たして本当にシャロンのものだったのか。


 アヴリフを仕留めたことさえ、夢か現か。断たれた両腕は元通りで、神聖兵装《金色の精神》が魂に宿っている——それだけが、あの場での出来事を証明している。だというのに、当の本人であるヴィクトリアでさえ、己の身になにが起こったのか、何一つ分からないままでいた。


 少なくとも、あの場にいたアヴリフを除く大量の魔族を己は倒していない。ならば、シャロンの無事はどこにも約束されていない——それが、ヴィクトリアが早合点した理由であった。


「……だから、落ち着いて。大丈夫、ヴィクトリア。あなたはちゃんとシャロンを守ったよ」

 

 無理をして、今にも身体を起こそうとするヴィクトリアの肩に手を置きながら、リナは穏やかな表情で語りかける。


「ほら、シャロンならここにいるから。この子もヴィクトリアが目を覚ますまでは起きている、って言っていたんだけどね」


 リナの視線の先には、確かにシャロンがいた。柔らかくもない、ヴィクトリアのベッドに上半身を預けるようにして、すうすうと寝息を立てている。その寝顔は健康そのものであり、小さな身体には傷一つ見当たらない。


「私は、守れたんですの……?」


「うん。話はシャロンから全部聞いたよ。よく頑張ったね、ヴィクトリア」


「そう……そうでしたのね! いえ、頑張るなど当然のこと。私は貴族でしてよ!」


 シャロンが無事であることは、歓喜すべき朗報である。が、その過程で自分がどれほどの強敵と対峙したかなど、ヴィクトリアにとっては喧伝することでもないのだ。


 なぜなら、ヴィクトリア・ドルトーナは、領地を魔族に奪われても貴族の誇りまでは失っていない。貴族として、勇士として。当たり前のことを、死力を尽くして解決したに過ぎないのだ。


 しかし、今、この時ばかりは。嬉しさにこみ上げるヴィクトリアの涙を、誰が咎めようか。


「……リナさん。先程、シャロンに全てを聞いた、と仰いましたね」


 感涙は、ただの一滴で十分。ヴィクトリアは目頭を拭い、いつになく真剣な面持ちで横に座るリナを見つめた。


「うん。ヴィクトリアが聞きたいことはなんとなく察しがつくよ。勇者の亡霊について、じゃないかな?」


 ことの発端は、すべて今回の任務にある。神聖兵装を不法所持している謎の人物——巷では勇者の亡霊、と。そう呼ばれる不審人物との接触、可能なら学園まで同行、あるいは捕縛が目的であった。


 ヴィクトリアにその記憶はないが、シャロンが接触しているのであれば任務達成は一応、果たしたことになる。


 だが、本当にそれで終わりだろうか。まるでヴィクトリアとシャロンが二人きりになるのを見計らって現れた、魔族の集団。


(私たちと同じように勇者の亡霊を追って鉢合わせた……と。そう考えることもできますけど)


 自分の力では、交戦距離まで侵入されても気付くのに遅れた。それだけの隠密スキルを持った集団だったのだ。


 それが、どのような手段を用いられたのか。アヴリフを除く、50を超えていたであろう魔族の集団が鎧袖一触とは。


「勇者の亡霊――どれほどの御仁なのでしょうか」


「……嘘ってことはないだろうけど。シャロンから聞いた話だと、ヴィクトリアの斬られた両腕を簡単に治せるほど強力な回復魔法が使える、とか。あっさり魔族の集団を殺してみせた、とか。ねえ、ヴィクトリア。両腕を斬られたって話、本当なの?」


 リナに言われ、ようやくアヴリフによって両断された両の腕が寸分違わずくっついているのをヴィクトリアは確認した。


「たし、かに。ええ、確かに。私の両腕は肩口から断たれましたわ。ですが、これは……」


「うん。高位の回復魔法を使える人間、ってことになるよね。敵、ってことはないと信じたいけれど。……まず間違いなく、神聖兵装もほぼ無制限に使えると見ていいかな」


 神聖兵装の無制限使用――なるほど、ならば魔族を蹂躙できたことにも合点がいく。


 ぞわり、と。ヴィクトリアの背中に冷たいものが走る。身体の痛みから来る悪寒ではない。きっと、なにか。得体の知れない化け物の息遣いを聞いてしまったような、埒外の暴力を認識してしまったような、そんな悪寒だ。


 今回は、たまたま味方だった。いや、。その理由は分からないが、当初は捕縛さえ視野に入れていた己の蛮勇さにさしものヴィクトリアも冷や汗をかいてしまう。


(アプローチを間違えていたら、両腕どころでは済んでいませんわね……!)


 本当に、たまたまだ。なにもかもが、たまたまヴィクトリアとシャロンに運が味方した。勇者の亡霊の人格次第では、魔族諸共、という結末さえあったはずだ。


「私は、勇者の亡霊を信じたい。シャロンは二度、私は村とお姉ちゃんと、友だちを……人類を助けてくれているから」


「……そうですわね」


 だが、これは同時に希望である。勇者の復活、あるいはそれと同等の価値を持つ情報である。


 だからこそ、ヴィクトリアは慎重に言葉を口にした。

 

「ですが、このまま学園側に報告するべきなのでしょうか」


「……ヴィクトリア。その言葉の意味は分かっているんだよね?」


「当然ですわ。今回の一件、偶発的と呼ぶにはあまりにも奇妙でしてよ。私、他者を疑うことは信条に反するのですが……シャロンや他の方を巻き込んでまで通すべきものでもないでしょう。学園内部に魔族がいるとみて行動したほうがいいと思いますわ」



「なにを……しているんだ、カルラァッ!」


 怒号が、聖堂地下の巨大な一室に響く。


「……バニス様が判断に苦しんでいるようなので。問題を整理しようかと」


 止める間もなかった。そんなことをするはずがない、というバニスの思考を一歩上回った暴挙を、カルラは己の判断で――否、――素早く決行した。


 カルラの足元。正確には、《静かなる嗜虐心》の鋭利な踵が余命幾許もない学生魔族の魔核を一突き。踏み抜くように、砕いていた。


「誰が、仲間を殺せと言った! 今、お前は……ッ! 俺に殺されるだけの理由を作ったんだぞ!?」


 回復魔法を重傷で倒れる学生魔族に掛け続けながら、バニスは己の魔装《葬送の十三》を抜き、その銃口をカルラに向ける。


「……? 理解できませんね。なぜ、わざわざそのようなことを仰るのですか? 意に反するというのなら、警告などせずにこの魔核を撃ち抜いてください」


 対し、カルラはおどけるふうでもなく、胸元を開いてそこにある魔核をバニスに見せつける。「ここを撃て」と。


「俺を挑発しているつもりか? 殺されたくなければ、今すぐに魔装を解除しろ!」


「そうですね。状況の把握に相違があったのであれば、訂正してください。一つ、この状況は亡霊が鹵獲した《至るための旅路》によって遠距離から攻撃を受けた。二つ、彼らは光属性による根治不可能の傷を負っている。三つ、バニス様は重傷者を生かすか殺すか、判断に迷っている。違いますか?」


「……一つ、違うな。俺はどんなことがあっても、最初から生かすと決めている。いいか、もう一度は言わん。今すぐ、魔装を解除しろ!」


「はあ。バニス様、どうか紅魔臣としての領分をお忘れなく。私が言うまでもないことでしょうが、最悪の事態はあなたの部下が死ぬことではなく、魔装が恐るべき亡霊の手に渡ることでしょう? でしたら、終わりの見えない綱渡りなどしないことです。ご自分の手を汚すのが怖いのであれば、どうか私に一言ご命令を。――仲間を殺せ、と」


 カルラの言い分は正しい。だが、それは大切な仲間の命を勘定に入れなければの話である。到底、バニスに受け入れられるものではなかった。


「恐るべき亡霊なら、なおのこと! 一人でも多くの戦力が必要だろうが!」


 出任せの言い分であることは、バニスも重々承知であった。しかし、今は暴走している部下を言いくるめるための方便であれば、なんでも良かったのだ。


「お言葉ですが、バニス様。戦力、というのは五体満足に動ける者を指します。回復魔法が途切れたらいつ死ぬか分からない瀕死の重傷者を戦力に数えるのは賢明ではありません。それとも、バニス様は彼らを守りながら勇者の亡霊に勝てるのですか?」


「……俺が正面から戦う必要はない。エルシャが――」


「エルシャ様は小回りが利かないからこそ、バニス様に助力を乞うたのでは? そもそも、エルシャ様が直接戦うことはすなわち学園の放棄を意味していますよね。あまり私を失望させないでください、バニス様。今、お言葉にしようとしているその台詞が――本当に、バニス様の答えなのですか?」


 ぐうの音も出ない正論である。普段のカルラは、その自尊心の高さから多少の暴走を見せることはあっても、ここまで暴走することなどなかったというのに。


「カルラ……ッ!」


「状況は最悪と言っていいでしょう。作戦補佐のために、ここにいた彼らの魔装は非戦闘系ではありますが、使です。どうか、早急にを」


 カルラの言葉は、暗にこの場で動けなくなった者たちの持つ魔装の危険性を強調していた。《太陽の剣》や《月の盾》といった、戦闘系の神聖兵装にはない非戦闘系の効果は、疫病のように気付かぬうちに広がり魔族を蝕むだろう。


「バニス様。カルラの言う通りです……! 私たちの回復に徹していては、亡霊に対応できなくなります……!」


「だから、どうか、私たちに紅魔臣の足手まといという汚名ではなくッ!」

 

「名誉をください……ッ!」


 それは、己の魔装として所持する者たちが一番理解していた。バニスが躊躇えば、躊躇うほど――魔族全体を苦しめる亡霊の一助になってしまう、と。


「…………すまない、お前ら。必ず、仇は取る」


 言葉を尽くせば、虚飾になる。この事態を未然に防ぐだけの力を持ちながら、いいようにしてやられたのは、勇者の亡霊を侮った自分にこそ原因がある。


 自分にできることと言えば――せめて苦しまぬよう、痛覚を和らげる補助魔法に切り替えてやることだけだろう。


 力なく、カルラに目配せをすれば、カルラはその意味を十全に理解して恭しく頭を下げた。


「承知しました、バニス様」


 この部屋の誰もは、己の運命を覚悟し、瞳を閉じている。だからこそ、その一瞬。カルラの顔が微笑んだのを見た者はいなかっただろう。


 もしも、その一瞬を誰か一人でも見逃さなかったのであれば、運命は少し違ったかもしれないだろう。なぜなら、その笑顔は――この場の全員を嘲笑うかのような、冷酷な微笑であったからだ。

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