第68話《恋人の盟約》

 ——今すぐ、口を閉じろ。肉体に促す警告は、しかしシャロンによって拒まれる。


 カルラの首に掛かる、シャロンの細い指先。そこから加えられる、想像もできないほどの握力が、容赦なくカルラの気道を絞めあげていく。


 人間を遥かに凌駕した頑丈さを持つ魔族の身体であっても、急所は人体のそれと大差ない。


「苦しいかァ? 苦しいよなァ! 魔核が無事だったら死なねえとは言っても、そりゃ死なねえだけだろ? お前らの耐久力はお前ら以上によぉく知ってるからよ、ゆっくり臨死体験を楽しんでくれや」


 死にはしない。死にはしないが、死ぬほど苦しいのだ。


「あ、が……ッ! かひゅッ……!」


 声を音にする余裕さえない。ことここに至って、シャロン・ベルナという幼女が己より格上の怪物と悟ったカルラは、最後の悪足掻きを見せた。


 己の首を絞めるためにガラ空きとなったシャロンの横腹に膝蹴りを見舞い、続けて顔面に潰れた腕をぶつける。


 だが、それさえもシャロンは冷ややかな嘲笑で一蹴する。


「くっくっく、気分いいぜ。こうやって調子に乗った魔族を甚振れる瞬間はよォ。つくづくテメエらみてえな外道に生まれなかったのは幸運だったと思うぜ。——おいおい、そんな顔するなよ。テメエには死ぬほど苦しんでもらうが、殺すわけじゃねえんだ。そう怯える必要はねえんだぜ?」


 顔面に、胴体に。カルラの抵抗を受けながら、顔色一つ変えることなくシャロンは言葉を続ける。


「そうだなァ。まずはあの無能な紅魔臣にちょっかいでもかけてみるか。おっと、バニスはテメエの初恋の相手だったかァ? 人を殺すことになんの罪悪感も覚えねえクソカス共に、恋心なんて高尚なもんがあるとはちっとも思えねえが!——フフ、なんてね。安心してください、カルラ先輩。悪いようにはしませんので!」


 この一か月。ずっと、近くで監視していたというのに。目と鼻の先にあるシャロンの相貌は、カルラが初めて見るものであった。


 そして、その口から漏れた「バニス」という名前。自分が魔族であると断定していることだけでも心胆を寒からしめる事実だというのに。


(アレク先生がバニス様であることをなぜ……!? 最重要機密が漏れていることもそうだけど、そのうえで……!)


 そのうえで、なぜ。この幼女は、自分の恋心まで気付いているのか。


 なにがどこまで漏洩しているのか。怪しく光る金色の瞳から推し量ることはできない。


 ただひとつ、はっきりしていることがある。それは——シャロンの思惑通りにさせてはならないこと。それだけであった。


「ああ、そうそう。カルラ先輩が捨てた人形のことはお気になさらず。新しい玩具の目処が立ったので。ね?」


「〜〜〜〜〜〜ッ!」


 くぐもった悲鳴とも、最後の雄叫びとも判別のつかない音を喉から絞り出し、カルラは折れた指で《無垢なる暴虐》を掴む。


 シャロンの打撃で粉砕された指先は、文字通り原型を留めていない。力など到底入るはずもなく。——悪足掻きだと分かっていても。シャロンの口から覗く、悍ましい恐怖から逃れるための術は、もはやこれしか残されていなかった。

 

 神聖兵装《恋人の盟約》。ムカデのような形をしたその神聖兵装は、対象と3つの契約を強制的に結ぶ効果を持つ、自立型の非攻撃的な武器である。


 1つめは魔力の共有。


 2つめは神聖兵装の共有と掠取。


 そして——3つめは精神の支配である。


 無論、これらは《恋人の盟約》に使用した魔力量によって、その契約の強度は変わる。


 より正確に言えば。


 のだ。


「さあ、自分が何匹目で消えちまうのかよぉく数えとけよ? ヒントはどこかの間抜けが楽しげに幼女を蹴飛ばした数だぜ」

 

 そして、ついに。シャロンの柔らかな唇が、己の唇に触れるのを、朦朧とする意識の中でカルラは感じた。


 しかし、カルラがその意識を手放すことは許されなかった。口内にねじ込まれた小さな舌から伝う、無数のが己の舌を突き刺したのだ。


 それが喉を通り、己の魔核目掛けて下っていく。無数の《恋人の盟約》が肉を掻き分けて蹂躙していく——その悍ましい不快感と恐怖は、筆舌に尽くし難く。


 一匹、一匹と喉から《恋人の盟約》が侵入してくるほど、カルラは自分のなにかが削られ、犯されていった。


(ごめんなさい……ごめんなさい……! バニス様……!)


 一か月、ずっと近くで監視していた自分が、この化け物の存在に気付かなければならなかったのに。


 しかし、そんな謝罪さえ口にすることも許されぬまま、カルラだったものは暗い闇の底へと閉じ込められていく。


「ふふ。きっちり200匹、数え切れましたか? ま、どっちでも構わねえがなァ」


 白目を剥いて痙攣するカルラの身体を、まるで興味が失せた玩具を捨てるように、シャロンは捨てて——その顔面に唾を吐き捨てた。


 ◆


 これが、ガレリオ魔法学園を任された紅魔臣として誤った判断であることは、バニス自身がよく理解していた。


 しかし、先代の勇者によって多くの部下を失った彼にとって、自らの手で部下や仲間を手に掛ける判断など——たとえ、それが正解だとしても——下すことなどできはしなかった。


 聖堂地下は凄惨な様相を呈していた。銀の光に焼かれて無事な者は少ない。ある者は顔面を焼かれ、ある者は半身を焼かれ……普段の怪我であれば、魔法による治療で回復が可能だというのに。あの忌々しい光によって負ってしまった傷の前では、回復魔法などただの延命処置にしかならなかった。


 だが、それでも。ただの延命処置だとしても、優柔不断の言い訳だとしても。


「ぐぅ、ううッ……」


「バニス様……! どうか、殺してください……」


「馬鹿を言うな! お前たちなら光の克服は必ずできる。いいか、必ずだ! それまで俺が助けてやるから、絶対に諦めるなよ……!」


 地獄のような時間であった。癒せない傷がこれ以上命を削らないよう、バニスは焼石に水と知りながら学生魔族に回復魔法を掛けていく。


 「助けるつもりなら、一応方法がないか探ってみるわ。期待はしないことね」とエルシャが聖堂地下を出て、どれほど経ったか。


 バニスとて期待はしていない。それはけっして、エルシャの実力を侮っているのではない。——勇者の光を一朝一夕で克服できるならば、ロゼアンがあれほど苦しむ必要などなかったはずなのだ。……愛するロゼアンのため、全力以上の力で問題解決にあたっていたエルシャでさえ、解決できなかった難題である。


 長く魔族を苦しめてきた、銀の光。この場にいる誰もが——バニスでさえ——諦念を抱いていたのは、言うまでもない。


「ただいま帰還しました、バニス様。おや、これは……なにかあったのですか?」


 エルシャの帰還を待つバニスの耳に、聞き馴染んだ声が響いた。もっとも、それは彼が期待した声ではなかったが。


「カルラ!? どういうことだ、まだ帰還予定には早いはずだぞ!?」

 

「ええ。ですが、緊急のご報告に、と。先ほど他3名とともに、勇者の亡霊と思しき人物によって聖都に転送させられたので……独断で作戦は失敗したと判断しました。この様子から察するに、こちらもしてやられたようですね」


「……なんだと。なら、亡霊の姿を見たのか!?」


「はい。と言いましても、鹵獲された防具型の魔装で素性を隠していたので。シャロンから聞いた人物像の確認程度しかできませんでしたが」


「いや……それだけで十分だ」


 十分。その評価は、苦渋の中からバニスが絞り出したものであった。


 十分なものか。たったそれだけの情報のために、かつての部下が爆発物へと変えられ、あろうことか学生魔族を苦しめるための道具として用いられたのだ。


 本来であれば、たかだか学生勇士を一人、殺すだけだったはずだ。それどころか、作戦自体も失敗し、手に入れたものは既知の情報を補強する目撃情報だけ。


 惨憺たる結果であった。それは、誰でもなくバニスがよく理解している。


 心身ともに疲弊が続く。心、だけで言えば

バニスのそれはすでに限界を超えていた。


 だからこそ、気付くのが遅れてしまったのだ。


 


 カルラが聖堂地下に入り、自分の目の前に現れたその瞬間まで——《静かなる嗜虐心》を抜いていたことに。

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