第63話逃げろ
神聖兵装、《至るための旅路》。その性能は消費魔力量に応じた
ただし、まったくの制約がないというわけではない。移動距離による魔力消費量の増加もそうだが、なによりの制約は『使用者が一度訪れた場所でないと移動先に指定できない』ということ。
これは、どれほど魔力を込めようと覆せない制約である。《隠者の角灯》による負荷をシャロンは圧倒的なステータスで無視しているが、負荷自体を無くすことはできないように、いくら埒外のステータスを持つシャロンであっても縛られる制約であった。
では——シャロンは、ノードスの魔核をどこに飛ばすつもりなのか。
嫌な予感。それも、ゾッとするほどの恐怖を伴った、過去最大の予感に——この一か月で嫌というほどシャロンの邪悪な一面を見てきたせいだ——モニカは、血相を変えてノードスの魔核に手を伸ばした。
「うわああああああああああああッ!?」
だが、悲しいかな。ヘッドスライディングで飛び込んだモニカの手のわずか先を、ノードスの魔核はするりと落ちていく。
そして、飲み込まれるように《至るための旅路》の中へ。慌てて《至るための旅路》へモニカは手を伸ばそうとするが、シャロンはそれを見越していたかのように、すぐさま閉じてしまった。
「んー、残念だったね、モニカお姉ちゃん。あともうちょっと運動神経が良ければキャッチできてたかもね!」
地面に飛び込むような形で、目の前で倒れたモニカを見下ろしながらシャロンはにやにやと笑う。
「シャロンッ! あんた、なにをするつもりなの!?」
この笑みを浮かべているとき、それは大抵よくないことが起こる。なによりも、魔族を甚振ることに執心しているシャロンが、タダで魔族の利となるようなことはしないはずなのだ。
「言ったでしょ? この魔族の願いを叶えてあげるって。ふふ、叶うかなあ。くっくっく、叶うといいなァ? だが魔族って奴はどいつもこいつも間抜けばかりでな。俺がわざわさ塩を送ってやっても受け取っちゃくれねぇんだ。賭けてもいいぜ、あのノードスは俺の存在を紅魔臣どもには伝えられねえよ!」
「だから俺がなにをしたか、なんてどうでもいい問題じゃねえか」とシャロンは続け、少し屈んで無様に転がるモニカに顔を近づける。
「そんなことよりもっと楽しいことを考えようぜ? たとえば奴の最期の台詞を当てるとかな。そうだなァ……『逃げろ』ってのはどうだ?」
「なにを……言って……!?」
「なぁに、ちょっとした遊びだよ」
そう言って。
シャロンは、一つの神聖兵装を取り出した。
◆
ガレリオ魔法学園、聖堂地下。人が崇める女神ヴァシオンの足元は、暗く、そして魔族の根城と化している。人間は誰一人として、この空間を知る由もないだろう。
この巨大な部屋が作戦指揮のために使用されるのは、何年ぶりのことか。紅魔臣同士の交流や、会議に使用されることはあっても、生徒に扮している下級の魔族が忙しなく働く様など滅多に見られるものではない。
「監視用に放っていた魔獣との視界接続が切断されてから、もう三時間は経っているわ。状況の確認はまだできないのかしら」
その部屋の中央。他の下級魔族が座る急拵えの簡素な椅子とは違い、座り心地のよさそうな、背の高い椅子に腰を下ろしたエルシャは平静を装った声音に不機嫌な色を滲ませていた。
「エルシャ様! どう考えても異常事態です! ヴィクトリアとシャロンを監視していた猛禽型魔獣五匹の反応が同時に消失したんですよ!? やはり勇者の亡霊が出現したのでは……!?」
「なら処理部隊から連絡がないのはなぜ? こちらには魔装《至るための旅路》があるのよ?」
「それは……」
ありえないのだ。どれほど勇者の亡霊が強かろうと、コレンの《至るための旅路》がある限り、情報の奪還は可能である。
(それがない、ということは状況事態は順調とみるべきかしら)
そもそも、戦力面で見てもノードスの《塔の雷撃槍》がある限り、勇者の亡霊に神聖兵装による優位性は存在しない。
数の優位があり、武器の優位もある。そのうえ、シャロン・ベルナという人質さえ握っている。紅魔臣一人と比べれば見劣りする戦力ではあるが、しかし一方的にやられることはないだろう――エルシャもバニスも、先の勇者の能力を知っているからこそ、この作戦を決行したのだ。
(亡霊の捕縛ができれば上々、手加減できずに殺してしまっても……死体なら使い道があるわ。そのどちらもが不可能とコレンが判断した際、《至るための旅路》での帰還を厳命しているわ)
数多くいる部下のうちの一人ではあるが。エルシャはアヴリフとコレンという、実力に信を置く猛者を部隊に組み込んでいる。技術も忠誠心も、ヴィクトリアの抹殺だけでは役不足な面子である。
そこにノードスだ。
「バニス、もう一度だけ確認するわ。あなたの推薦したノードスという男の実力、信じてもいいのよね?」
「……紅魔臣への忠誠心ははっきり言って欠けているが、仕事への自尊心と経験は君の配下二人よりもある。元部下という色眼鏡抜きで見ても、彼なら部隊をうまく指揮するはずだ」
尋ねられ、バニスはその所感を淡々と語る。ノードスは先の勇者討伐における、数少ないバニスの部下の生き残りであった。
部下の大量死によって再起不能になりかけたバニスを慮り、積み上げた肩書きを捨てバニスの元から離れた優秀な男である。
「俺が再起するまで部隊の席を空けておくように言い残して出ていく奴だ。早々に下手を打つとは思えないな」
しかし、現実は残酷である。
卓上付近より、《至るための旅路》が開かれる。「ああ、ようやく状況が把握できる」と大部屋にいる何人もの魔族たちは安堵の息を吐いた。
しかし、それが悲鳴に変わるまで。ものの五秒とかからない。
からん、という軽く、硬い音が響く。エルシャとバニスの眼前にある、テーブルの上にそれが転がった。
「……………………あ?」
真っ赤な、真っ赤な、血のように紅い石。魔族であれば、誰もが知る――己の身に備わる、最重要器官。
魔核だ。
「ノー、ドス?」
寸前までバニスの脳内にあったノードスの面影が、小さな赤い石ころに上書きされる。
「……亡霊の返り討ちにあった、と。そう見るべきかしら」
この場で、最も冷静であったのはエルシャであった。己の想定を上回る実力を、勇者の亡霊が持つことを受け止め、すぐさま思考を再開する。
アヴリフとコレンの死。想定の甘さが招いた重すぎる代償ではあるが、ロゼアンの死と比べれば必要経費である。
思考すべきは――なぜ、ノードスの魔核だけがこの場に送られたか、ということ。
(《至るための旅路》は一度、転移先を訪れている必要があるわ。勇者の亡霊はやはりこの聖堂地下を訪れていることになる。そして、ノードスの魔核だけ生きたまま送り付ける意味はなにかしら。余裕の表れ? それとも警告のつもりかしら? いいえ、ロゼを殺害した方法に比べれば甘い――)
そう、甘いのだ。ロゼアンを殺害し、ナンナを昆虫と融合させた、亡霊の鬼畜染みた所業と比較すれば。
「……ッ! ノードスッ! 生きているなら返事をしてくれ! 一体なにがあったんだ!?」
魔核から発せられる、声なき声――魔力を波のように揺らし、他の魔核に伝える音叉のような会話方法である――は何一つ聞こえない。しかし、傷だらけの魔核にはわずかに光が宿っており、ノードスの命がまだ尽きていないことを示していた。
誰の目から見ても、回復は急を要していた。それもただの治療ではなく、回復を目的とした魔法の行使である。
魔族にとっての不幸は、誰もがノードスの救護を必要と考えてしまったことだろうか。それとも、ノードスが言葉を振り絞ることができなかったことだろうか。
否、勇者の亡霊を甘く見ていたこと。ただただ、それに尽きる。
「待ちなさいッ! 回復魔法をかけては――!」
寸前、その違和感に気付いたのはエルシャであった。
しかし、もう遅い。
その部屋の誰もが、ノードスの最期の叫びを聞いた。
「逃げろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
◆
「なあ、モニカ。《太陽の剣》に光属性を付与したらどうなると思うよ?」
◆
《太陽の剣》はノードスの魔核に流れた回復魔法に反応し。
その炎は《無垢なる暴虐》によって光属性が付与され。
そして、無慈悲に爆発する。
シャロンの思い描いたように、それは実現した。紅い石の内側から破裂するような光が溢れ――逃げ場のない部屋をくまなく突き刺したのだ。
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