第57話鏖装
その人型の怪物が、かつて22人の勇士であったと言われ信じる者がいるだろうか。見てくれは人間の女だろうが、レギオンを最も象徴する巨躯と剛腕は人智の外にあるものだ。
空気が
「シィッ――アアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッ!!」
びりびりと骨身まで震わせるほどの、レギオンの絶叫。これは、渾身の一撃を放つための咆哮ではない。まさしく、絶叫なのだ。己の身と心を傷付けられ、一つの器の中で混沌と化した22人の悲痛な叫びである。
禍々しい双眸から溢れ出る、涙。赤黒いそれが溢れ出る意味を知るのは、この場においてモニカのみ。
「……ッ!? カルラ!」
なにか、来る。どうしてモニカがその一撃を予見できたのか、カルラは知る由もないが。しかし、強者としての矜持よりも弱者としての本能がこの場は勝った。
迎撃よりも、回避を。
そして、その選択は正しかった。
剣とも槍ともいえない、長い刃渡りの得物による横なぎ。それは、ちょうどカルラの魔核を捕らえる位置を斬り裂いた。
モニカには知識があった。カルラには《静かなる嗜虐心》による機動力があった。
しかし、そのアドバンテージがあっても間一髪の紙一重。遭遇して瞬時に回避の予備動作を取っていなければ、モニカはこの一撃に巻き込まれていただろうし、彼女の警告が無ければカルラは即死していただろう。
立ち込める異臭。血と、肉と脂の臭いだ。生理的な嫌悪感を掻き立てるその臭いは、レギオンの武器から漂うものだ。
「《
レギオンの右腕に握られた得物を見て、苦虫を噛み潰したような表情でモニカは呟く。
魔装でも聖装でもなく。それは、読んで字のごとく
かつての神聖兵装は、所有者の怨嗟に飲まれその姿を血と肉へ変貌させた。刃は骨で、その周りを血肉が蠢きながら固定している。――神聖兵装という枠にカテゴライズするには、あまりにも禍々しい姿だ。それゆえに、鏖装。その姿こそが、犠牲となった22人の骨肉で鍛え上げられた、血の通った武器なのである。
肉食獣が強靭な爪と牙を持つように。レギオンの爪と牙こそが、この鏖装であった。
カルラの頬を冷たい汗が伝う。モニカの警告抜きであれば、即死はなくとも致命的な傷を負っていたかもしれなかった、という恐怖もあるが。それ以上に、ただの劣等生と侮っていたモニカが、自分の知らない情報を握っているのかもしれない、という危機感だ。
「モニカ、あなた……! 今の一撃の警告といい、何を知っているの!?」
「色々だよ、色々! たとえばそうね、コイツの正体はバリーとナンナの人体実験の産物つったら満足!?」
「なっ――!?」
寝耳に水、という話ではない。カルラは二人が人間に対し合成剤を用いる実験をする、という話は聞いていた。だが、二人の死と勇者の亡霊騒ぎでうやむやになっていたせいで、その実験の産物については――実験者が死亡しているので当然といえば当然なのだが――誰も報告を受けていなかったのだ。
学園に潜む魔族ですら、その存在を認知していないのに、どうしてモニカが知っている? ……殺すべきか? 殺すべきだ。
「……今にも私を殺したそうな面をしているところ悪いけど。そんな余裕、アンタにも私にもないわけ。それくらい、分かるわよね」
「ずいぶんと余裕ね……。あなた、私がこの窮地を脱したとしたら殺されるって想定はしないのかしら」
「まさか。こんな状況に一分の余裕だってないわよ。それに、アンタがこの窮地を仮に脱したとしたら私は殺されるでしょうしね。でも、それができないからこうやってしたくもないガールズトークをしているの」
モニカの表情に余裕はない。しかし、その原因はレギオンという化け物に恐れているからであり、カルラを毛ほども脅威とは見なしていなかった。
それが、カルラには許容し難い事実であった。
「魔族を恐れていない、とでも言いたいのかしら」
「それこそまさかだっつの。羽虫を殺す感覚で人間を殺せるアンタらが怖くないわけないでしょ」
「……だったら、さっきなんで私の名前を呼んだのよ! あの一言が無ければ、私をあの化け物に殺させることくらいできたでしょう!?」
そこで、初めてモニカはカルラの瞳を見つめた。大きな眼鏡の奥から覗く垂れ目が、この窮地では場違いなほど――どこか、物悲しさを湛えていた。
「人間の傍に立てるアンタを知っているから。だから、助けた」
「……は? なにを――」
なにを言っているんだ。カルラの疑問はもっともであった。それは、カルラでは知る由もない――『聖剣を抱きし者たちへ』と呼ばれる、原作の知識。その中で、カルラには魔族を裏切るルートがあったという、この状況ではまったくもって関係のない事実だ。
もちろん、今のカルラに魔族を裏切るような予定は微塵も存在しない。リナの姉が死に、リナが勇者の亡霊として活躍する筋書きを歩んでこそ、辿り着く一つの出来事なのだ。
モニカとて説得できるとは思っていない。しかし、「それでも」という彼女の我がままが、たった一度の情けを見せた。
しかし、一度だけだ。それ以上の余裕も猶予も、モニカは持てるほど贅沢な身分ではなかったのだ。
「シィイイイッ! ネエエエエエエエエッ!!」
「くそったれが……!」
もはや、人間の姿でセーブし続けることは不可能である。カルラは人の姿を解き、魔装として《静かなる嗜虐心》を抜剣する。
相手をするべきなのはどちらだ。最良はこの場でモニカを殺し、バリーとナンナの負の遺産であるレギオンを始末することだ。しかし、カルラはこの最良の案を即座に排除する。一挙両得を狙える紅魔臣ほど、己の身は傲慢に振る舞えないことをカルラ自身はよく理解していたからだ。
ならば、対応すべきは――!
「覚えていなさいよ、モニカ……! 私が学園に帰ったときがあなたの最期よ! どんな手を使ってでも、あなたには情報を吐いてもらうわ!」
先に対処すべきはレギオンだ。モニカなど、木っ端にもならない劣等生の相手などいつでもできる。それこそ、学園に戻ればいくらでも時間も手段も豊富に用意されているのだ。
レギオンの一撃を、《静かなる嗜虐心》でいなす。力任せのレギオンに対し、速さと技のみがカルラのアドバンテージである。
否、アドバンテージと呼ぶには烏滸がましいものだ。事実、選択肢は回避一択。正面から防御をすれば、カルラの細い足など小枝を折るようにへし折られる。掠っただけで《静かなる嗜虐心》の装甲が剝がされた瞬間、カルラは防御という選択肢を捨てたのだ。
「そうならないから教えてあげたんだっつの。アンタこそ、ここを生き伸びたら学園に戻るのだけはやめなさいよ。死にたくなかったらね」
挑発なのか、あるいは心からの警告なのか。抑揚の少ない声音でモニカはカルラに告げた。
「神聖兵装も扱えない劣等生が……! 粋がるなァ!」
モニカという劣等生の謎、レギオンの注視がモニカに向かないこと、想像以上のレギオンの猛攻、魔族としての矜持――それらの感情に整理を付けぬまま、カルラは咆哮とともにレギオンへと斬りかかる。
僅かな間隙を縫うようにして放った、ようやくの一撃だ。比率にすれば、レギオンが50は斬りつけてようやく見つけたようやくの1。しかし、その一撃さえ、レギオンの強靭な肌と筋肉によって阻まれ、骨に到達することはない。
「……神聖兵装も扱えない劣等生、ね。悪いけどカルラ、レギオンの対応は勝てないなら逃げることだけが正解だからさ。私は一抜けね」
「はあ!?」
この状況に一分の余裕もない。それは、前提としてカルラとレギオンが同居するこの状況に対する余裕だ。
カルラを犠牲にレギオンから逃げることなど――モニカからすれば。否、彼女の所有する神聖兵装をもってすれば、朝飯前なのだ。
「聖装抜剣、《
ずっと、ずっと。逃げるためだけに魔族の目を欺き続けたモニカの神聖兵装が今、彼女の手によって解き放たれた。
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