第45話とある噂
行方不明となったバリーと、ナンナの死が学園に報じられてから一か月。ガレリオ魔法学園の雰囲気は、異様なものが漂っていた。
訓練を終え、這う這うの体で湯を浴びる女子生徒でごった返す大浴場でもその空気を感じることはできるだろう。
確かにあの奇妙な魔獣の襲撃は不可解な点が多かった。正規勇士の死力を尽くした健闘のおかげで、学生の人的被害は想定よりも少なかった。……裏を返せば、正規勇士の死者は数えられるだけでも百を超えている。
再び、あの襲撃があったら――リナは嫌な予想を払拭するように、己の二の腕をさする。魔獣はどこからでも現れるが、人の生活圏に出現するものはどれも野犬ほどの脅威しかないはずだった。
(……モニカには悪いけれど。本当に運が良かったね……)
実力を考えればバリーとナンナが死ぬよりも、犠牲者となりそうなのはモニカの方だろう。モニカのチームに被害が出た、という報告を聞いたときはリナも覚悟したほどだ。蓋を開ければ、それはまったくの逆であったわけだが。彼女曰く「戦闘が始まった頃には二人ともどこかへ行ってしまった」らしい。その独断行動が明暗を分けたのだろうか。
不可解な点といえば、もう一つ。
(あの昆虫みたいな魔獣……あれにだけ、魔核があったよね)
カルラに指示されるまで、リナはこれっぽっちも気付かなかったが。本来、魔獣に魔核は存在しない。ゆえに魔獣は殺しても死体は残り、魔族は塵となる。
(それが、あの魔核を壊しただけじゃあの魔獣は塵にならなかった)
だから、もう一撃が必要だった。二人がかりの
そして、リナの不可解な点はあの魔獣の角に魔核があったことだけではない。
(あれを破壊したときに、ナンナの神聖兵装の所有権が私に移った……よね)
神聖兵装は魂に結びつく。そのため、神聖兵装を奪うのならば所有者を殺害するのが一般的だ。ごく稀に、勇者の持っていた聖剣のように血族であったり親しい友人であったり、殺しても奪えないような神聖兵装も存在するが……。愚者の
例外があるとすれば、それは魔族が人間から神聖兵装を奪ったとき。魔族の魔力に汚染されたそれは聖剣ではなく魔装と呼ばれ、魂ではなく魔核に結びつく。
否――結びつく、というよりは、まるで衣服を着替えるように着脱が可能であった。もちろん、魔装持ちの魔族を人間が殺すことさえできれば、その魔装は神聖兵装として人の手に渡る。
恐ろしいのは神聖兵装が一匹の魔族の手に渡れば、より強い魔族の手に渡る可能性があることだ。たとえば、紅魔臣と呼ばれる魔族の中でも別格の強さを誇るような存在へ渡るようなことがあれば。……勇者なき今、人類にとって絶望的な状況に拍車がかかることは間違いない。
(魔核を破壊したときに愚者の曲刀が私の手に渡った……。普通に考えれば、ナンナがあの魔獣に殺されたってことなんだろうけど)
そう考えたほうが、平和であることはリナも分かっている。なにもおかしな話はない。矛盾だってないだろう。だが、それなら。
(あの魔獣に殺されると奪われた神聖兵装は魔核の方に格納されるの? それとも……)
それとも、なんだ。ずっと愚者の曲刀を手にしてから考えている、違和感の正体を洗い流すように、リナは頭から湯を浴びる。それでも拭いきれない、不気味な予想。
それもこれも、あの八体の魔獣を斬り殺したことが発端だった。リナだけが知る、違和感の正体。
(あの八匹の魔獣は、なにかが混ざっていた。正義の
正義の両断剣を扱うリナでも言語化し辛い、あの斬り心地。肉を斬り、骨を断つ。その斬り心地は、どんな魔獣を斬っても変わらないだろう――正義の両断剣を扱えぬ者であれば、誰しもがそう思う。
しかし、確かに違いがあるのだ。例えるなら、罪人を斬るときと、親しい間柄の人間を斬るとき。どちらも、人間を斬ることに変わりはないのに。しかし、確かに斬ったときの感触に違いがある――それを正義の両断剣は、リナの心に訴えるのだ。
「お前は殺さねばならぬものを殺し、斬ってはならぬものを斬っているのだ」と。
(あの魔獣はなにかが混ざっていた。そして、あの昆虫の方も……)
そう考えるほうが納得できた。あの昆虫の方は、魔族と魔獣の混ざりものだ、と。そうすれば魔核があることだって――いいや。
(だったら、バリーの神聖兵装は?)
ナンナとバリーがよく二人で行動していることなんて、彼らを少しでも知っている人間なら周知の事実だ。それが、ナンナだけ虫型の魔獣に遭遇してバリーだけ無事に逃げるなど、リナには考えられなかった。
だが、バリーの神聖兵装はあの魔核に存在しなかった。今もどこかで逃げ延びている、その可能性は無きにしも非ず。だが、それなら学園に戻らない理由が分からない。
仮説はいくらでも立てられる。なにせ、証拠となる根拠はあの不可解な斬り心地と、魔核を持った魔獣、そしてナンナの神聖兵装のみ。それらしい話なら、憶測でいくらでも語れるだろう。
こんなくだらない妄想がリナの頭の片隅でずっと徘徊するのには一つ、理由があった。
それは今、この学園で流行っている不気味な噂だ。
「痛えよう、痛えよう……! ねえ、ヴィクトリアさん。これ腕とか足とか折れてないよね? 大丈夫だよね?」
「ええ、安心してくださいな。ちょっと目立つ痣がちらほら、ですわね。ええ、名誉の勲章ですわ。ですから、お湯くらいは浴びませんと。埃と汗に塗れて一日を終えては疲れが取れませんわ」
「そうだよ。それに汚いまま部屋に帰ると寮長に怒られちゃうからね。わんちゃんみたいにお庭で寝たくないでしょ? モニカお姉ちゃん」
「おーい、フリッガ先生にしごかれた私を犬扱いですか? こちとら名誉の勲章持ちなんですけど!」
「ただの痣でそこまで自慢げにできるの、モニカお姉ちゃんだけだと思うよ?」
がやがやとうるさい女子浴場に、リナにとって聞き慣れた声が響く。モニカと、シャロンと、それからいつの間にか仲が良くなっていたヴィクトリアだ。
「あ、リナお姉ちゃん! 先に上がっていても良かったのに。待たせてごめんね?」
リナの姿を見つけたシャロンが転ばないぎりぎりの速度の早足で近づいてくる。それに合わせ、ヴィクトリアと、彼女に引きずられる形でモニカも付いてくる。
「ううん、私も来たばかりだから。気にしないでね。あ、ほら髪。洗ってあげようか?」
「いいの? それじゃあ、お願いしよっかな!」
まるで、リナがその言葉を口にすることを待っていたかのように、シャロンはリナに背を向けて鏡の前に座る。彼女の美しい銀髪を洗っている間ばかりは、あの嫌な考えを忘れることができる――シャロンが入学してからというもの、彼女の意思の有無は分からないが助けられてばかりだった。
「あら。負けていられませんわね。では私はモニカさんの髪を洗いましょうか」
「なんでぇ……? いや、自分でできますんで。お気持ちだけで……!」
「平民は貴族の施しを受ける権利と義務がありますわ。さあさあさあさあ!」
「いやあああああああああああっ!? たすけっ、リナ! シャロン!」
「あっは。がんばぁ?」
あっちはなにか大変そうだ。止めに入ろうか、ともリナは一瞬考えたが……友情を育んでいるところに水を差すのも野暮というものだろう。シャロンも楽しそうだし、モニカなら大丈夫だろう。多分、きっと。……骨は拾っておこう。
「ね、リナお姉ちゃん。最近、なにかあった? ずっと考え込んでいるみたいだけど」
モニカの惨状に見飽きたのか、あるいは石鹸の泡が目に入らないようにするためか。瞳を閉じたまま、シャロンはリナに尋ねる。
――最近、というには少々長い間だったかもしれない。きっと、シャロンはもっと早い時期から自身の異変を悟っていたのだろう。
(私が言い出すまで待つつもりだったのかな……。うーん、気を遣わせすぎだなあ、私)
さすがに七歳の子どもにここまで心配させて「なにもないよ」と言えるほど、リナは不義理ではない。
それに、よくよく考えてみれば大したことではない。たかが噂一つで惑わされている馬鹿な自分を、シャロンなら「リナお姉ちゃんもそういう噂に惑わされるんだね」と一笑してくれるに違いない——そんな予感があった。
だから、口にした。
「噂、なんだけどね。……この学園に魔族が潜んでいるかもって。馬鹿みたいだよね?」
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