第39話臆病者
なにかがナンナの死骸から這い出ようともがいている。魔核を破壊され、リナの一撃を受けてまだ動くか。
「リナ、ボイドを連れて撤退よ。学生の身でここまでやれば十分。手柄は他のチームに譲りましょ」
ボイドは魔力解放の反動で戦線に参加できない。リナだってもう一度戦うほどの余力は残していないはずだ。
「カルラは?」
「あれ相手に
ナンナに続いてボイドまで死なせるわけにはいかない。
そして、このナンナの成れの果てから少しでも勇者の亡霊について、手掛かりを得ねばならない。
肉の一片、血の一滴。それらを掻き分けている姿を、リナに見せるわけにはいかない。
ボイドもそれを察してか、すぐさま撤退の態勢に入る。このような非常事態に異を唱えるほどリナは馬鹿じゃない。
二人の背中が見えなくなったのを確認して、私は溜め息を吐く。
直視するには、あまりにも残酷な現実が私の前に残っている。あの動く死肉にトドメを刺さなきゃいけないこと、仲間の死体を漁らなければならないこと、魔族との繋がりを感じさせるものは隠滅しなければならないこと。
なんにせよ、ナンナの尊厳を踏み躙らなければならないのは確かだろう。……しかし、ナンナの死を無駄にしないためにも。今もどこかで魔族に狙いを定め、いつどこで襲おうかと笑いながら爪を研ぐ亡霊に辿り着くためならば、仲間の屍を超えていかねばならない。
静かなる嗜虐心を抜いたまま、私はゆっくりと死骸に近づく。ナンナが基礎にあるせいか、魔核の消失により塵化が始まっている。その中央で蠢くこの肉塊は——赤子? いや……これは……!
「ナンナ……!?」
生前の姿そのまま、というわけではない。角の代わりに生えた触覚、腕は昆虫の前足であり、皮膚も魔族の柔らかいものではなく、昆虫のような硬いものに。目に至っては複眼になっており、口もまた獰猛な蜂に似た、横に開く大顎になっているが。
体つきと髪の色、融合前から残されたわずかなパーツが、元のナンナを彷彿とさせる。
「カ、ル……ラ」
元の調子のいい、溌剌とした声はもうない。今際の際に絞り出した、掠れた声音。しかし、それは確かにナンナの声であった。
「ナンナッ! ……ッ!?」
どこまで魔族を愚弄すれば気が済むのか。勇者の亡霊は、私たちがナンナを殺せないことさえも想定していたのだ。
這いつくばり、もがくナンナの胴体を貫く
安全装置のつもりか。自分からナンナを怪物に変えておきながら、人間の不利益になるようであればすぐに殺せるように。
もうナンナが助かる見込みはない。太陽の剣の性能は、斬った相手の魔力を《燃やす》ものだ。それが胴体を貫く、となれば……生殺与奪を握られているようなものだ。
「ナンナ……! 今、助けるから! 誰にやられたの!?」
助けられるわけがない。ナンナも気休めの嘘ということくらいは分かるだろう。
重要なのは、誰にやられたか。その正体を喋ってもらわなければ、ナンナの死が無駄になる。
「ユ、ウゥ、シャ……」
勇者。魔族であれば、誰もが恐れるその称号を、ナンナは死力を尽くして口にした。
(やはり勇者の亡霊の仕業だったか……!)
「そいつの特徴は!? なんでもいい、なにか手掛かりを……!」
「シャ……シャ……! ア、ァアアッ!?」
まるで、恐るべきなにかを見つけたように。二本の爪だけになった手を、ナンナは私の後方に指して叫びをあげた。
私の背後に、なにかがいる。
振り返らなくても分かるほど、どす黒い殺意がこの場を支配した。振り返るべきじゃない。命が惜しければ、絶対に。
「油断も隙もねえなァ? 潰したら悪臭を撒き散らす害虫みてえだ。ああ、もう虫だったか! せっかく仲間に殺される名誉までくれてやったのに。そんなに俺に殺されたかったのなら最初から言っとけよなァ。もっと痛めつけてから殺してやったのによォ!」
男とも女とも、老人とも若人とも取れない声音。——演技スキルだ。しかし、その嗜虐とひりつく殺意までは隠せていない。いや、あえて隠していないのか。
「姿を現せ、卑怯者ッ!」
「おいおいおいおい! その虫に話しかけていた内容からして、俺の姿が見たいんじゃねえのか? だったら簡単だ。テメエが振り返るだけでいいんだぜ?」
生殺与奪を握られているのは、ナンナだけじゃない。
——私もだ。私も、コイツの射程圏内に入っているんだ。
振り返ったら、殺される。
「はっ。俺が卑怯者ならテメエは臆病者だ。ナンナはこうして残りカスの魔力を必死にかき集めて、人の形を保とうと健気に頑張っているわけだが……。テメエは振り返ることさえできねえんだからなァ!」
そう言ってパチンと亡霊は指を鳴らす。それを合図に、太陽の剣が残りわずかであったナンナの魔力を内側から焼き尽くす。
「ギ、ィアアアッ!? カル、ラァッ……!」
断末魔の叫びの中で、私の名前をナンナは呼ぶ。悲痛で、耳朶にこびりつく絶叫。
それでも、私は——
「くくく、はっはっは! 大切な手掛かりが燃えちまってるよ! 純粋な魔族じゃねえぶん、燃えると臭えなァ! ——で? テメエはなんもしねぇの?」
なにも、できなかった。ナンナを焼く炎を消すことも、後ろを振り返ることも。
「そうビクつくなよ、まるで俺が虐めているみたいじゃねェか。いいぜ、俺の代わりにシャロンの子守りをしてくれた礼だ。一度だけ見逃してやるよ。せいぜい命の尊さを噛み締めてくれよ?」
「最後は甚振って殺すけどなァ!」。そんな無慈悲な一言を最後に、あの重苦しい殺意が霧散する。
「……亡霊風情がァ!」
怒りに身を任せて振り返っても、奴はもうそこにはいなかった。
燃えるナンナの亡骸を背に、私は膝をついてしまう。無力感だ。ナンナの死も、千載一遇のチャンスも……!
「くそ、くそ、くそおおおおおおッ!」
なに一つ活かせなかった臆病者が、そこにはいた。
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