第36話悪魔はずっと笑っていた

 疾走する。自慢の制服に泥が跳ねるのも構わず森を抜け、バリーが命を懸けて繋いだ情報を仲間に伝えるために、ナンナもまた命懸けで足を動かした。


(シャロンが勇者の亡霊だったなんて! くそっ、くそっ、くそっ! そんなの誰が信じるってのよ……!)


 あの可憐さには誰だって騙されるだろう。その面の皮一枚下には、化け物じみた法外なステータスの暴力と、徹底的に魔族を甚振るための嗜虐心が嗤っている。ロゼアンが見た目に騙されたのも仕方のないことだ。


(戦闘に特化したステータスだけじゃない! こっちの看破を上回る偽装系スキル、索敵に引っ掛からない隠密スキル、二つの神聖兵装を使用しても問題のないタフネス……! なによりも――)


 それらはまだ、。カルラの報告書など、もはや便所の落書き以下の価値しかない。幸い、隠者の角灯の魔力解放ブーストによる拘束は可能だったが……ただでさえ魔力消費の激しい魔装だ。長くは保たないだろう。


 バリーは恐らく死ぬ。魔力切れによる自死、そうでなくとも死を恐れて力を緩めればシャロンに殺される。バリーもそれを知らずに足止め役を買って出たわけじゃないはずだ。


 勇者の亡霊の正体。その情報が魔族一人の命と引き換えに手に入るなら、お釣りが返ってくる。バリーの判断は実に正しく、そしてナンナには到底納得できないものであった。


 「シャロンこそが勇者の亡霊の正体である」。たったこれだけの情報が、相棒の命よりも重く扱われるなどあってはならない。カルラがもっとしっかり観察していれば。バニスが神聖兵装を与えていなければ。そもそもエルシャが連れて来なければ。詮ないこととは分かっていても、そう考えずにはいられない。


 何度も「動けないシャロンが相手なら勝てるかもしれない」という考えが脳裏にチラついている。


(それでも……!)


 それでも足の速さは緩めない。相棒は己の命よりも、たったこれだけの情報に価値を見出していたからだ。


 これは敗走ではなく、情報の死守。あの化け物を討ち取るためには、なんとしても紅魔臣にこの情報を伝えなければならない。今、この瞬間さえも命を燃やしてシャロンを足止めしているであろうバリーに報いるため、ナンナはその足を懸命に前へ前へと走らせた。


(絶対にこの情報だけは……!)


 ロゼアンやその他大勢の魔族、なによりバリーの犠牲を無駄にしないためにも。この情報だけは、己の命を代えてでも紅魔臣に繋げればならない。











 その悪足掻きを、悪魔はずっと嗤いながら見ていた。











 森の出口は近い。あと少し、そこから出てしまえば戦場は目と鼻の先。木々の合間から、ようやく外の光が強く差し込んでくる場所まであと一歩。


(シャロンが追ってくるような気配はない。……もしかして学園には戻らないつもり?)


 間に合わないと判断して、もうこちらを追っていないのか。それならそれで好都合だ。次に遭遇することはないだろう。もしも会うことがあるとすれば、それはシャロンが紅魔臣に殺されて屍となったときだ。


 

 その一瞬。ナンナが安堵してしまったその一瞬を、決して悪魔は見逃さなかった。


 

「な、に……!?」


 懸命に動かしていた足が突如、重くなる。早く次の一歩を踏み出さなければならないのに、足の裏が地面に縫い付けられたように動かなくなった。


 ナンナには、この現象に思い当たるものがあった——というか、


 視界の中で青白い炎が揺れている。それは、まさしくバリーの用いていた魔装が放つ、先手必勝の光。


 光を見た者と使用者に同等の負荷を与える、隠者の角灯であった。


 その光は背後からではなく、ゆっくりと近付いてくる。




「もー、遅いよナンナ先輩。ずーっと待っていたんだからね?」




 この悪魔は。シャロン・ベルナは、決して自分を追いかけてなどいなかった。必死になって走っているナンナを、木の影からニヤニヤと観察し、そのうえで追い越して待ち構えていたのだ。


 やろうと思えばいつでもやれた。では、なぜこのタイミングで仕掛けてきたのか。


「助かると思った? 逃げられると思った? それとも私の正体を仲間に教えて仇を討つとか格好良いこと考えたりしちゃってたのかな? ねえ、仲間を見捨てて逃げるのってどんな気分だったか教えて欲しいなァ?」


 隠者の角灯に光を灯したまま、シャロンはゆっくりとこちらに。必死に足掻いたお前らの行動など、最初から無意味だと嗤うために。この悪魔は森の出口付近に潜んでいたのだ。


「あ、ああ……!」


 身体に重くのしかかる、指一本さえ動かすことのできない負荷を、シャロンもまた受けているはずなのに。彼女は悠然とした足取りでこちらに近づいてくる。


 なにより、隠者の角灯がシャロンの手にある。その事実だけで、ナンナの心を折るには十分であった。


「あはは、そんなに怖がる必要ないのに。今にも殺されそうな豚さんみたいだよ? はい、ゆっくり深呼吸して? バリー先輩は残念だったけど、悪いのは私の邪魔をしたバリー先輩だもん。ナンナ先輩は私の邪魔、しないよね?」


「しっ、しないから! お願い、殺さないで……殺さないでください……!」


「それはナンナ先輩次第じゃないかな? あんなに分身で私のことを斬っておいて、命乞いだけで助かるとでも思っているの?」


「それは……! な、なんでもします! だからお願い、命だけは……!」


「ふぅん。嘘は吐かないよね?」


「も、もちろん!」


「やったぁ! なんでも! なんでもかぁ!」


 まるで、「好きな玩具を買っていい」と言われた子供のように。シャロンは喜色満面でナンナに近づいてくる。


「そうだなぁ、それじゃあナンナ先輩が持ってるお薬ちょーだい!」


 薬。この状況でナンナが持っている薬と呼べるものなど、一つしかない。


 あれを、この悪魔に渡す? それこそ正気の沙汰ではない。


「く、薬? そんなもの、持っていないけど……?」


「あ? ちゃんとした名前を言っていないから、なんて詭弁を通せるとでも思ってんのか? 合成剤ソーマだよ、合成剤。テメエは今、この瞬間に自分から命綱を切ったんだぜ? ……なんて、冗談だよ。ナンナ先輩。本当に持っていないんだね?」


「も、持ってないって……!」


 合成剤について知っている。いったい、いつからシャロンは自分たちの行動を監視していたのか。


「右胸の横、裏側の隠しポケット。そこにある注射器と薬品は合成剤とは関係ないんだ?」


(……っ! バレている……!)


 ナンナの返事など待たずに、シャロンはその小さな手を彼女の制服の隠しポケットに伸ばす。まるで、服の内側に毒蛇が這いずるような錯覚と恐怖をナンナは感じずにはいられなかった。


「ちっ、一回分か。しけてんな。んで? これは合成剤じゃねえってまだ言えるか?」


「お、お願いシャロン! その薬は面白半分で使っちゃダメなの!」


「22人の人間には使っていいのに? ははっ、いまさらなこと言うんだね! ——魔族に使うのはヤバい、だったっけか?」


 思い起こされる、学園の反省室での会話。


、やめたほうがいいよ? ナンナ先輩!」


 いたのだ。この悪魔は。


 思い起こして、ようやく認識する。シャロンは、あの日、カルラの隣で。ずっと薄気味悪い笑みを浮かべて、あの会話を聞いていたのだ——!


「じゃーん! これが今日からナンナ先輩の新しい身体になってくれる素材たちです! こんなサイズでも立派な魔獣なんですね? でも大丈夫! みんな元気ですから、きっとナンナ先輩の力になってくれますよ!」


 そう言って、シャロンが木の影に隠していた籠を身動きの取れないナンナの前に引っ張ってくる。



 そこには、夥しい量の蟲が蠢いていた。



「いや……」


 ありえない。冗談じゃない。


 しかし、それがナンナの運命であった。


「いやっ、嫌! お願いシャロン、許して! いやああああああっ! 虫になんてなりたくない、誰か助けてえええええええええっ!」


「あはは、くくく、はっはっは! ハッピーバースデー! ナンナァ! テメェの新しい不細工な身体を見届けたら帰るからよ! 魔族の連中によろしくなァ!」


 そう言って悪魔は、注射針を泣き喚くナンナの首元に突き刺した。

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