第5話癒しを求めて
勇者の亡霊、という魔族にとって信じ難い噂が流れ始めたのは、三つの砦と近隣の村が何者かによって襲撃された頃に流れ始めたものだ。
「ありえないわ」
ありえない。確固たる根拠をもって、エルシャは耳障りな魔族の風聞を躊躇なく一蹴した。
ロゼアンも勇者が死んだという事実は理解している。しかし、この胸の痛みはまだ勇者が本当の意味で死んではいないことの証左であった。
「砦が三つに村が複数襲撃されたでしょ? そんな人間、勇者以外にいるの?」
魔核の傷が未だ癒えぬロゼアンは、この目で勇者の死を目の当たりにしても、なおその噂に心が揺らぐ。寝ても覚めても苛むこの傷がなければ、最愛の姉と同じようにこの下らない噂話を鼻で笑っていただろうが……この痛みだけは、それを許しはしなかった。
「傷が痛んでいるのね……。可哀そうに、以前の貴女ならこんな噂話を信じはしなかったでしょうに」
そう。勇者の聖剣はまだ魔王の肉体を貫いたままであった。彼の肉体は滅びても、まるで主の本懐を成し遂げるかのように、あの忌々しい聖剣は魔王の手に落ちることなく人類の守護という役割を果たしていた。
――それも時間の問題だ。致命傷寸前の傷を負い、肉体を聖剣に貫かれた魔王の肉体は、徐々にではあるもののその肉体を再生し始めている。それはつまり、勇者の聖剣の掌握に成功しつつあることを意味していた。
勇者の聖剣は有象無象の神聖兵装とは別格である。勇者の血統が代々受け継ぎ、この地より魔族を屠るためだけに全てを捧げ鍛え上げられた業物だ。
「たしかに、人が不完全な死を遂げたときアンデッドというモンスターに成り果てる現象はあるわ。しかし、彼――いいえ、彼らは聖剣に自らの魂をくべて次代の勇者に託すという方法で聖剣を強化しているのよ。だからこそ、勇者の亡霊などという存在がこの世に入り込める余地はないのよ」
まったくもって悍ましい。それゆえに、ただ使用者を殺すだけでは勇者の聖剣を物にすることはできない。あの魔王でさえ(瀕死という状況を差し引いても)あの剣の所有権を握ることができていないのだから、ロゼアンの傷が癒えないのも当然であった。
「じゃあ、勇者の亡霊はどう説明するのさ。あんな被害を出せる人間、勇者以外にいないでしょ」
いかに強靭な肉体と膨大な魔力を持つ魔族といえど、勇者という存在は天敵である。魔王と紅魔臣による慢心も油断も捨て、多対一の状況下でなお甚大な被害を出した化け物だ。
そんな存在がそう何人もいてたまるか。しかし、もしも勇者に比肩する人間がいたとしたら――? 傷が痛むたびに、ロゼアンの憂いは募るばかりであった。
「被害、といってもあの場には魔装を持った兵士はいなかったわ。そこを運良く隙を突く形で突破してきた人間の精鋭部隊がいたに違いないわ」
対照的にエルシャの見立ては楽観的なものであった。この手の噂に動揺しているのは、みな戦闘経験の浅い兵士たちだ。人間狩りを経験すれば、人間という存在がどれだけ脆弱が知ることだろう。ロザリア、エシュロン、ザルド……その三つの砦は、どれも育成を目的とした新米ばかりが配置されていた。
そこを神聖兵装を持ったはぐれの勇士に虚を突く形で襲撃されたに違いない。言い換えれば、熟練の兵士が準備を怠らず先手を譲らなければ――たとえ勇士の軍隊であろうと、敗北はありえないのだ。
その点、ロゼアンは短絡的な思考とやや(少なくともエルシャはそう思っている)幼稚な精神から紅魔臣の席から外されているものの、戦闘面の頑強さとタフネスは評価されている。――ロゼアン本人は癒えぬ痛みに苦しんでいるが、彼女の頑丈さがなければそれすら勇者の一撃は許さなかったことだろう。
「ロゼ。貴女は強い子よ。だから勇者なんかの亡霊に捕らわれず、この部屋から出てみましょう? きっと貴女を癒してくれる、素敵な子が必ずいるわ」
それは魔族かもしれないし、人間かもしれない。エルシャにとっては、どちらでも良かった。ただ、最愛の妹が傷に苦しみながらこの部屋で無抵抗の女を殺し続けるよりは、もっと前向きに生きていけるだろう――そんな親心にも似た愛情ゆえに、エルシャはロゼアンの背中を押したのだ。
◇
――この歓喜を誰に伝えよう。そうだ、きっと一番に伝えなきゃならないのは姉さんだ。
勇者の亡霊なんて噂が嘘のように、人間の村を鎮圧するのはロゼアンにとって容易であった。神聖兵装を持った勇士が二人いたが、そのどちらも魔装を出すまでもなく殺せたことにロゼアンは久方ぶりの安堵を覚えた。
休む間もなく、ロゼアンは村の男たちをエルシャの魔犬に喰わせた。エルシャから「心配だから一応ね?」と連れて行くように言われた、体長五メートル程のモンスターである。
骨食みの魔犬バイツ。そう名付けられた魔犬はエルシャの忠犬であった。黒い毛並みに黄色い眼。その巨大な体躯からは想像もつかないほど敏捷であり、標的が絶命するまで追い立てる執拗さを兼ね備えている。
村を襲うまでは「バイツだけじゃ勇者の亡霊に殺されるよ!」と姉に訴えていたが、終わってみれば杞憂であったとロゼアンは胸をなでおろした――ちょうど、そのタイミングであった。
最初に受けた刺激は、五感のうち聴覚。どこからともなく音楽と歌が耳に入ってきたのだ。すぐさまバイツは臨戦態勢に入るが、ロゼアンは慌てて座らせる。想定外の早さではあったが、獲物が掛かったのだ。
同胞が人間の村々を襲撃すれば、その近辺に繋がる道は封鎖される。そこを通る旅人は安全圏の村で足を止めるだろうし、そういった人間は多くの見聞がある。闇雲に好みの女を探すよりも、旅人に話を聞いた方が早いだろうし商人――とくに奴隷を扱う商人が来れば処女を扱っているかも、というのはエルシャの入れ知恵であった。
そして、ロゼアンはエルシャに感謝した。――その入れ知恵のおかげで、運命の出会いを果たしたのだから。
陽の光に照らされた銀髪が、幼くもしっかりと伸びた手足に合わせ風と踊っている。淡い朱が薄っすらと乗る白い健康的な肌に、あらゆる宝石よりも見る者を魅了する金色の瞳。
まるで、この胸の痛みを包み込むためだけに現れた美しい少女が自分のためだけに現れた――ロゼアンは最愛の姉には抱けない劣情を、踊り歌う少女に抱かずにはいられなかった。
「素晴らしい……!」
なにが? なにもかもが。鳴り響く音楽はどうでもいい。忌々しい男が奏でている音、というだけで耳に入れたくもない。しかし、それが止めばこの少女もまた、踊りを止めることだろう。胸の痛みを忘れるほど、少女の歌と踊りと――そして、そのしなやかな四肢に抱く狂おしい感情に、ロゼアンもこのときばかりは寛容であった。
歌が終わり、音楽が終わり、そして少女の手足が静へと移る。名残惜しい時間が終わったのだ。涙を流したのはいつぶりだろうか、それも痛み以外で。
しかし、その余韻に浸る間もなく男が彼女に話しかけてきた。
「――えっと、リガルド様はどちらに?」
――男が僕に話しかけるな! 思わず作ってしまった握り拳を、ロゼアンはゆっくりと開く。目の前の少女はどんな手段を使ってでも手に入れる、これは決定事項だ。しかし、できることなら自身に対する第一印象は最高のものでありたい。
――なんと答えるのが正解だろうか? もう殺してやったよ。これは駄目だろう。
嘘を。綺麗な嘘を。僕と彼女が幸せになれる、僕にだけ都合のいい嘘を。
「ああ、彼は魔族侵攻の一報を受けて馬車を飛ばしましたよ。僕は使用人ではなく、彼の代理人です。そうですね、僕のことはロゼアンと。期間は長くありませんが、この村の全権を任されております。――もちろん、商談もね」
商人は金さえあればなんでも売る。これもまた、エルシャの入れ知恵であった。
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