第3話カリスト姉妹
勇者が死んだ。その一報がどれほどの魔族を喜ばせたか。人間の姿をした、女神が遣わした人類の守護者。たかだか人間を殺しただけで、魔族を恨む異常者。
それがついに死んだのだ。これを喜ばずにいられるか。
「駄目だ」
だというのに。ロゼアン・カリストはその喜びを噛みしめることができていなかった。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ! 醜いなあ、この女どもはっ! なんでそんな醜い姿で僕と同じ空気を吸えるんだ? 度し難い、村一番の美女を集めたというから期待したというのにさあ!」
狂気を孕んだ苛立ちの咆哮は、意外にも女の声をしていた。
声の主はロゼアン・カリストという。カリスト姉妹の妹であり、中性的な整った顔立ちと男装を好んで着る、魔族の中でも変わり者の女だった。
勇者が死んだ。ならば、人間を好き勝手に自分のものにできる――姉からそう聞いていたロゼアンは、勇者の死をこれ以上ないほどに喜んだ。だが現実は、彼女の欲を満たすことはなかった。
彼女の欲の深さは、異常ともいえるこの一室から察することができるだろう。豪奢な調度品に囲まれた、贅沢な部屋だ。かつて人間の貴族が居を構えていた城に、カリスト姉妹が各地から取り寄せた(強奪した、ともいう)品々をいたるところに置いた結果である。
その調度品のほかに集めたもの。それは女たちであった。見目麗しい女たちが、服を剥かれてそこら中に
どいつもこいつも美しくない。傷んだ髪に荒れた肌、汗や脂の臭い。小汚い身体の内側に糞尿があると想像するだけで我慢ならないというのに、なによりも我慢できないことが彼女にはあった。
「ロゼ、落ち着いて。人間とはそういうものよ。どれだけ美しくあろうとしても、その本質は糞尿の詰まった肉の袋。魔族と比べてはいけないわ」
全裸の女たちを足でどかしながら、一人の魔族がロゼアンの癇癪をなだめるように優しい声音で語りかけてきた。
エルシャ・カリスト。ロゼアンの姉であり、中性的な妹と違って発達した女の身体を恥ずかし気もなく露出した美女だ。
「分かっているよ、それくらい! ……はぁー、ふぅ。ごめん、姉さん。大きな声を出して」
「いいのよ、貴女がそうなってしまったのはすべて勇者のせい。貴女の怒りは私とこの部屋の人間に存分にぶつけなさいな。他の
献身的なエルシャの言葉にロゼアンは落ち着きを取り戻すも、すぐさまその怒りが口から零れた。
「治すって、いつ治るんだ! あいつの……! あの男のせいで僕の魔核が疼くんだ……! くそっ、くそ! あの聖剣! あの剣で斬られたせいで、僕の傷は治らないんだ! 痛くて痛くて、姉さんに抱いてもらわないと寝られないのに……!」
人類にとっては、勇者の功績。魔族にとっては、恐るべき勇者の爪痕。その一つ、ロゼアンの魔核には大きな傷がついていた。
並みの魔族であれば一撃で屠られたであろう、強力無比の必殺。頑強さに自信のあったロゼアンですら、死を覚悟したそれは間一髪――人類にとっては「惜しくも」急所を捉えるに至らなかった。
魔王ですら復活に時間を要する勇者の聖剣による一太刀。とてもではないが、ロゼアンの再生能力では魔核を治癒することはできず、最愛の姉が隣にいなければ眠れないほど、その激痛が昼夜を問わず魔核を襲っていた。
「ああ、可哀そうに……。ごめんなさいね、ロゼ。人間の教師なんて仕事、本当だったら辞退したいところだけれど。魔王様がお目覚めになるまでは続けないといけないの。そうすれば魔王様のお力で、きっと貴女のその傷も癒してもらえるわ。それまで我慢できるかしら?」
「できない! したくない! ……でも、姉さんだって魔王様がいなくて頑張っているのはわかるから……僕も我慢する。でも、これだけは我慢できないよ!」
そういってロゼアンは、蹲る一人の女の髪を引っ張ってエルシャの眼前に放りだした。
エルシャの目には、どこにでもいる普通の女のように映った。寸前までロゼアンの暴行を受けていたのだろう、身体のあちこちは痛々しいほどの痣が浮かんでいることと、媚びることなく丸まるように蹲ったことから躾不足といったところだろう。
だが、ロゼアンの目には違うものが映っていた。
「その女がどうかしたのかしら?」
「……まあ、見ていてよ」
なにかを証明するように、ロゼアンは女の腹部を足で小突く。いたぶるような、嗜虐性を帯びたものではない。ただ、なにかを確認するような……脆い人体であっても傷をつけることを目的としたものではなかった。
だが、その女はなにかを危惧したのか、反射的に腕で腹部を庇った。
「また腹を庇ったな?」
激情に任せて怒号を放つロゼアンからは想像もつかないほど、冷めた口調で彼女はその事実を確認した。
「ひっ……! 許して、許してください! お腹の赤ちゃんだけはどうか……!」
青ざめた顔で女が腹部を庇った理由。それは、彼女が赤子を身籠っていたからであった。
「処女じゃないってだけで我慢ならないのに、赤子――それもあの勇者と同じ、男だ! そんなものを腹に抱えて、僕の寝床を穢したんだよ! それを許せだって? くそ、くそっ、傷が疼く……っ!」
激痛に耐えるように、血走った目でロゼアンは己の胸部を掻き毟る。服が破れ、その乳房が露わになろうと、その痛みが引くことは決してなかった。
胸の中央には、見事なまでに真っ赤な魔核が浮き上がっている。人を殺し、魔族としての格が上がれば、それに比例して深紅に染まる魔族の弱点。ロゼアンのそれは、紅魔臣のものに勝るとも劣らない色ではあるが、その中央に大きな傷が残っていた。
「ああ、いや……君に罪はないね。これは僕に傷をつけた勇者の罪だ、それを君が償わなきゃならないなんて、本当に、本当に、本当に、可哀そうだと思うよ。でも、死んでくれ」
八つ当たりだ。休む間もなく、痛みに苛まれているロゼアンの寝所に身重の体で訪れてしまったのが、女の運の尽きであった。
「――魔装抜剣」
ロゼアンが短い呪文とともに虚空より取り出したのは、かつて女神の祝福を受けて勇士に与えられた神聖兵装である。魔族によって穢されたそれにかつての神秘はなく、人間を殺戮するための道具と成り果ててはいるが……だからこそ、その異様さは簡単に見て取れた。
ハンマーだ。巨大な、使用者の膂力など考慮さえしていない魔装である。決して低くないロゼアンの身の丈よりも長い柄に、何を潰すための目的なのか想像もしたくない、漆黒の槌。
しかし、今。身重の女はなんのためにロゼアンがこのハンマーを召喚したのか、容易に想像がついた。
「た、助け――!」
断末魔さえ許さない質量が、女の身体に降りかかる。エルシャが魔法で城全体を補強していなければ、城全体が崩れ落ちてもおかしくない衝撃だ。そうであっても、ずしんと大きく揺らぐほどの一撃は、代償に大半の窓を叩き割った。
「ロゼ。せめて魔装を使うなら一言ちょうだい。びっくりしたじゃない」
今まさに、目の前で起きた惨状にエルシャは眉一つ動かさずにロゼアンを嗜める。彼女の頭にあるのは、この一撃で最愛の妹の傷が幾許か癒えていることを願う気持ちと、服にはねた血飛沫を洗い流すことのみであった。……当然、女とその腹にいた赤子になどなにも意識することはなかった。
「ごめんね、姉さん。でも僕思いついたんだ」
胸の痛みに耐えながら、その名案にロゼアンは笑みを抑えずにはいられなかった。それは勇者に不治の傷をつけられてから、初めてみせる笑顔であった。
「姉さんに会えないなら、完璧な女の子を僕自身が探せばいい。そうでしょ?」
にちゃり。それは、ロゼアンの魔装にこびり付いた血と肉が奏でたのか、あるいは久方ぶりの彼女の笑顔から湧き出た音なのか――この部屋の誰もが知ることはなかった。
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