【訪問】


 後悔先に立たず、とはよく言うが。

 僕はどうしてあの時、無理強いされた肝試しを断らなかったのだろう、と今でも思う。

 仮にどんな目に遭ったとしても、死ぬよりはマジだった筈だ。

 焼け死んだ上にこんな男の住む家に居るよりは。

 よっぽどマシだったはずである。


 だがもう遅い。

 僕は断るだけの勇気を持ち合わせていなかったし、肝試しに行った先の家は燃えてしまったし、僕も一緒に燃えてしまったし、その上でこんな部屋に居る。


 もう取り返しはつかないのだ。

 それだけは分かる。要するに、分かることはそれだけだということだ。



 とある休日。

 気絶したように眠っていた琴浪は、繰り返し押されるチャイムの音で目を覚ました。


 死んでいる自分でも煩いなと思うほどなので、生きている琴浪にとっては余程の騒音に違いない。

 唸り声を上げながら起き上がった琴浪は、毛玉だらけのスウェットのまま、のろのろと玄関に向かった。


 立っていたのは、五十過ぎに見える小太りの女性だった。

 人の良いおばちゃんといった感じで、ごく一般的な清潔感と安心感を携えている。

 優しそうなおばちゃんは、顔に似合ったこれまた優しそうな声で、『幸福』について説き始めた。


 あなたはいま幸福ですか? そう思えていないんじゃないんですか? それには理由があるんです。あなたは何か大事なものを失っていて、その穴を埋めるには同じ形のものを用意しないとならないのに誰も彼もが似たようなものを無理矢理詰め込もうとしてきて、うんざりしていませんか?

 ██様ならあなたのそんな望みを叶えることができるんです、何よりも私があなたの元へと現れたことそのものが証左となるとは思いませんか? 心を委ねてください、貴方の苦しみは██様によって癒やされ、この先は望んだ幸福のみを受け入れることが出来るんですよ。


 僕の方からは、琴浪の背中しか見えなかった。

 けれども、琴浪がやたらと機嫌良く喋り始めた瞬間、僕は生肉と共に、そっと部屋の隅に寄った。

 多分だが、とても怒っている。


「それは素晴らしいですね! 愛する者を失った苦しみは計り知れません、そんなにも素晴らしい慈善活動を行なっている方がこんな近くにいらっしゃったとは!」


 これは単なる事実の列挙だが、琴浪の両隣と、それから上下の部屋には誰も住んでいない。

 なので琴浪が夜中に飛び起きて壁を殴っていても何一つ苦情が飛んでくることはないし、天井に吊るされていた男が耐えきれずに落下して派手な音を立てても何も問題はないし、ベランダから捨てた胡麻の死骸がぞろぞろと階下に逃げて行っても、誰にも迷惑をかけることはない。

 琴浪が住んでること自体が迷惑ではあるかもしれないが。


 琴浪は極めて笑顔で、一分の淀みもない快活な語り口で、対面に座るおばちゃんに滑らかに語った。

 語りながら、おばちゃんの片腕を引っ掴んで、そして部屋の奥まで引き摺り込んだ。


 ちょうど良かった、ボクの家にもいま死人の居候がひとり居まして、まあ一人と言わず4、5人いるんですけど意思疎通が可能な奴が居まして、是非ともその『幸福』の片鱗だけでも見せていただきたいなあと、せっかくですから、せっかくですからね、貴方どうせ全部唱えたんでしょうからどうせ繋がってるんでしょうどうせ、全部やっちまったんでしょうよどうせ、遺骨も遺品も思い出も全部くれてやったんでしょう碌でもねえなあんたもう思い出せないよ可哀想に、可哀想だからここ座ってください、早くしてください、早く。


 問答無用でおばちゃんを座らせた琴浪は、僕の手も掴むと、それを無理矢理おばちゃんの肩まで誘導した。

 ひ、と小さく頼りない悲鳴が上がったが、その場の誰も頓着することはなかった。

 震えている。可哀想に。こんな部屋に来たばかりに。


「なんか感じる?」


 琴浪は昼だと言うのに真っ暗な部屋で、どういう訳か正確に僕の目を見つめて聞いた。


 僕はおばちゃんの肩に手を置いたまま、ゆっくりと首を左右に振った。

 なんか、という曖昧な括りでさえ頷けない程に、何も感じなかったからだ。


 琴浪はそれから十五分ほど可哀想なおばちゃんを更に追い詰めたあと、顎をしゃくって俺を促すと、ついでに生肉にも呼びかけた。


「おい生肉、散歩行くぞ」


 四つ足の肉の塊は、嬉しそうに飛び跳ねると、とちとちと、やや粘質な足音を立てながら琴浪の後ろについた。

 どうやら、その██様だとかいう人に会いに行くらしい。


 おばちゃんはもはや気絶しそうな顔で両手を握り合わせている。僕の姿も生肉の姿も見えていないようだが、足音だけは聞こえているので、十分に恐ろしいのだろう。


 琴浪は歩いている間しゃべり通しだった。


 いやあ楽しみですね、失った者と出会えるのってやっぱり特別に選ばれた幸運な人間、まあつまりはボクみたいな人のことですけど、そういう人間にだけ与えられた特権ですもんね! やっぱり神様ってやつは見てくださってるんですねえ、わざわざこんな優しい使いの方がいらっしゃるだなんて、まさしく幸運としか言いようがありませんよね、貴方も選ばれた存在だから救われたんですものね、苦しみから解放された喜びを誰かと分かち合おうだなんて、素晴らしく心の清らかな素敵な方ですよ三村さんは、だからもう何も心配事はなくて全てが無くなって綺麗になって傷ひとつない穏やかで凪いだ心で居られるんですものね、やっぱり同じ形のものなんて二度と見つからないんだから穴自体なかったことにするのが一番に決まってますよねだからもう心配事はないしもう二度と会えないし思い出せもしないし忘れ続けているのに幸福で不安だから増やそうとしているんでしょう分かりますよ、結局忘却って人間に許された一番の幸福ですからね、よかったですよね忘れられて、もう二度と思い出さずに済むんですものね、それってやっぱり救われてるんですよね、

 以下省略。


 おばちゃん(三村さんというらしい)は琴浪がしゃべればしゃべるほど、段々と重みに負けるように首を垂れていった。

 秋も終わりで肌寒いというのに、どういう訳か汗が止まらない様子だった。


 琴浪はご機嫌にリードを振り回しながら、てちてちとちとちと走り回る生肉と一緒にはしゃいでいた。

 生肉はどういう訳か、どんな扱いをされても琴浪に懐いている。

 半分身体を食われた時に鶏肉をくれたことに、恩義を感じているのかもしれない。


 改札で一度、おばちゃんはトイレに行くと言って離れようとした。

 気持ちはよく分かる。もし仮に僕が勧誘員だったとして、当たったのが琴浪みたいな男だったら、玄関の時点で回れ右して帰るだろう。


 しかしそもそも何故、おばちゃんはすぐにでも帰らなかったのだろう。

 あんな真っ暗な部屋から出てきたら、どう考えてもおかしな奴だと分かると思うのだが。


「生肉、三村さんがどっかに逃げたら、ぺしゃんこに剥いでいいからな」


 三村さんを見送る琴浪は笑顔のまま生肉に告げ、生肉はワンと元気に鳴いた。こいつ兎じゃなかったっけ、と思ったが、僕は黙っておいた。

 ちなみに三村さんにも十分過ぎるほどにちゃんと聞こえる声量だったので、一旦トイレに行った三村さんは、萎れた顔で戻ってきた。なんて哀れな。琴浪の部屋に勧誘になんて来たばっかりに。


 琴浪はご機嫌なまま、██様の拠点であるマンションの一室にお邪魔して、そして泥を引っ被って出てきた。

 僕と生肉は扉の外で待機していたので、琴浪が何をしたのかはよく分からない。

 出てきた琴浪は、「髭剃らずに来ちゃったからかな」などと溢していた。少なくとも絶対に、そこではないと思う。


「ごめんな、お前のカスみたいな人生は取り戻せないってよ」


 部屋に帰った琴浪は、僕の肩を叩きながら呟いた。

 最悪な言い草だが、声音は存外、真実味のある悲壮感が漂っていた。

 恐らく、僕が得体の知れない薄気味悪さに黙り込んでいたのを、落ち込んでいると勘違いしたのも知れない。

 琴浪は僕が見る限り基本的に碌でもない奴だが、変なところで変な優しさを発揮する時がある。今がそうだった。


 シャワーを浴びた琴浪は、帰路の途中で買ったコンビニ弁当を食べてから、また泥のように眠りについた。


「………………」


 死んだ僕が琴浪の家にやって来た時、琴浪は僕の話を聞いてから、おもむろにスマホを取り出した。

 日記をつけているんだそうだ。そんな人間には見えないので意外だったが、琴浪の意思でつけているものではなく、単にそういう約束をしたらしい。

 詳細は知らない。何も語らないからだ。


 音声で入力する時と、無言でスマホに打ち込んでいる時がある。

 たまに後ろから覗いて読むことがあるのだが、琴浪は大分客観性に欠ける男だった。

 風呂場にいる首のない男に生魚をぶつけて追い出しておいて、「今日はなんも書くことないな」などと呟いている日が割とある。

 まあ、そんな男だからこそ、こんな生活を続けられるのだろう。


 ふと視線をやると、テーブルには僕の分のミルクレープと、生肉のためのささみが置いてあった。


「………………」


 とりあえず、僕は真っ暗な部屋で、生肉と並んで晩御飯を食べた。胃に入れるというよりは、ミルクレープの存在を啜る感じだ。

 生肉の方は、いつぞやのように、もちゃもちゃと融合していた。


 一つ言いたいのだが、仮にも飼うと許容した生肉に『生肉』と名付けるの、大分問題がありはしないだろうか。

 犬のことを犬って呼ぶようなものだ。


 生肉はそれでいいのかな、と心配になって聞いてみたが、元気にワンと返ってくるだけだった。

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