第3話 奇跡の生還(日航ジャンボ墜落、ミニヤコンカ登山、他)

 今回は次の4件を取り上げます。

 1)日本航空123便墜落事故(1985)

 2)ミニヤコンカ奇跡の生還(1983)

 3)北海道七飯7歳男児生還(2016)

 4)山口県周防2歳児救出 (2018)

追加5)中華航空140便墜落事故(1994)


 ―― まずは日本航空123便墜落事故(1985) ――


 1985年8月12日 羽田を離陸した日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)大阪行き524人搭乗、が操縦不能に陥り群馬県の山奥に墜落した航空事故です。


 520人の死者を出し、世界最悪の航空事故の一つとなっています。原因は、尾翼部分の修理不良と設計上の欠陥でした。


 18時12分に羽田を離陸し18時24分に圧力隔壁が破損、操縦不能に陥り、迷走飛行(ダッチロールと当時は言っていました)の末に18時56分、通称御巣鷹の尾根に墜落したのです。乗客乗員524名のうち生存者はわずか4名。


 ●生存者の救出

 一夜あけて登山した消防団により13日午前10時50分ごろ生存者が発見されました。34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生、非番の客室乗務員の26歳女性です。4人とも重傷を負っており、ヘリコプターで引き上げられました。


 生存者の女子中学生によれば、目が覚めたとき父と妹は生きていたといいます。また、非番の客室乗務員によれば、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っています。


 当時テレビ中継やニュースでバラバラの機体や引き上げられる生存者を見ました。生存者がいた事はほどんどの人が信じられなかったと思います。それほど悲惨な破壊状況でした。助かった4人が全て女性で比較的若かったのは不思議です。なお「上を向いて歩こう」で全米一位の記録を持つ歌手・坂本九さんもこの事故でお亡くなりになりました。


 小説『沈まぬ太陽』(1999 山崎豊子)は日本航空と、その労働組合役員の史実に基づいて脚色、再構成されたフィクション社会派作品で、確か第二巻で本事故に関する謝罪・賠償に奔走する社員の姿が描かれていました。700万部に達しています。



 ―― ミニヤコンカ奇跡の生還(1983) ――


 松田 宏也ひろなり(1955年12月28日- )は登山家、大分県出身。

 1982年5月、松田は市川山岳会隊の一員として中国四川省の大雪山脈ミニヤコンカへの登頂に挑戦しました。パートナーと2人で頂上を目指すものの、悪天候に阻まれて下山。しかし頼みの綱であったサポート隊が早々と2人が遭難死したものとあきらめ、キャンプを撤収した後であったため、2人は補給無しの自力下山を強いられました。途中パートナーは衰弱により亡くなりましたが、松田は山中を19日間もさまよった末、満身創痍で奇跡的に生還を遂げました。体重は62kgから32kgまで減っていたそうです。


 関連事例としては1991年末に、『トーヨコカップ・ジャパングアムヨットレース'92』に参加し、転覆事故の末、27日間海上を漂流し、ただ一人生還した佐野三治のケースがあります。



 ―― 北海道七飯町7歳男児生還(2016) ――


 北海道七飯ななえ町の林道で2016年5月28日から行方不明となっていた7歳の少年が6月3日、無事保護されました。彼はどうやって生き延びたのでしょうか?

 陸上自衛隊の駒ケ岳演習場の周りは森林に囲まれています。少年の家族は日帰りで鹿部しかべ町にある公園を訪れました。少年が小石を車や人に投げたことをとがめた両親は、「しつけ」として、彼をしばらく置き去りにしました。数分後に両親が戻ると、少年の姿が見えなくなっていました。服装はTシャツとジーンズのみ。この地域では、夜間の気温は9度まで下がることもあります。

 一帯は、樫や樺が多く、地面は草や笹などに覆われた深い森林になっています。 少年には幸運がありました。行方が分からなくなった場所から5.5キロ離れていた陸上自衛隊の駒ケ岳演習場の中の小屋を見つけて入ることが出来たからです。その彼を発見した自衛隊員は捜索要員ではなく偶然見つけたそうです。

 少年は小屋の水道水を飲み小屋の床に敷いたマットレスの上で寝たということで6日も経ってから無事救出されたことは奇跡だったと思います。


 

  ―― 最後 山口県で2歳児 行方不明(2016) ――


 山口県周防すおう大島町で8月12日午前から行方が分からなくなっていた2歳0か月児が3日後に近くの山中で救出されました。発見したのは大分県からボランティアで駆けつけた尾畠春夫さん(78)です。


 県警が連日、150人規模の態勢で長時間捜索したが見つからなかったところを尾畠さんは単独で短時間で見つけました。驚異です。この件で尾畠さんはスーパーボランティアと呼ばれ時の人となります。2歳0か月児が3日間も生存することができたのは、偶然山中の川沿いに迷い込んだことが挙げられますが、色々な好条件が偶然重なったもので、奇跡です。


 尾畠おばた 春夫はるおさん(1939年10月12日 - )は、大分県速見郡に住むボランティア活動家で元鮮魚商の方です。鮮魚店の閉店後に活動を本格化させます。 幼少期は下駄職人の父の元で育ち、母が尾畠さんが小学校5年生時の41歳で他界すると父はヤケ酒に走ります。7兄弟の4番目の尾畠さんは、「大飯喰らいだから」という理由で一人だけ近所の農家に小学5年生で奉公に出されます。尾畠さんは心を入れ替え、奉公先では何でも言うことを聞くという生活に入り、憎んでいた父を感謝するほどに成長します。そして中学を卒業すると姉の紹介で鮮魚店で3年間働きます。その後、一時東京の鳶・土木の会社に入りましたが、ほぼ一貫して鮮魚店で働き、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業します。


 40歳から趣味で登山を始め北アルプス55山の単独縦走を行い、1993年からは登山道の整備のボランティアを開始しています。65歳の時に鮮魚店を閉店しボランティアに集中します。これは、2人の子供の大学までの学費を魚を買ってくれた客から得ていたため、社会への恩返しをしたいと考えたためだそうです。

 新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの多くの被災地で活動を行い、尾畠さんがいるだけで現場が活気づき、「神」のようだと評されることもあったとのことです。 軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側からは力を借りないことが信条。「自己完結するのが真のボランティアだ」と言い対価、物品、飲食は頂きません。


 この方をとても尊敬します。とても真似はできませんが。


以上です。(2024.4.3)


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(追加:2024.4.27) 

今朝、下記事故から30年というニュースを放送していました。追加します。


 ―― 中華航空140便墜落事故 ――


 1994年4月26日台湾発の中華航空140便(エアバスA300)が名古屋空港への着陸進入中に墜落、乗員乗客271人中264人が死亡しました。生存わずか7人の大事故です。


 この事故は、日本の航空史上2番目の大惨事となりました。客室乗務員は13人で、乗客の内153人が日本人で、63人が台湾人でした。


 進入は副操縦士によって手動で行われていましたが330 m付近まで降下した時に誤ってゴー・レバーを作動させ、自動のリトライモードが起動してしまいました。


 その後機体は急上昇を開始し、ピッチ角が52度まで増加して速度が161 km/hまで減少し、失速して墜落、火災が発生しました。生存者絶望と思われる火災の中で、

機体前方部に着席していた7人が奇蹟的に生き残ることができました。


 事故の原因は操縦士の操作にありますが、要因としてエアバスA300に特有の自動操縦と手動操縦の相反する操作のしにくさがあったと分析されています。


 愛知県警は同年、死亡した機長ら6人を業務上過失致死傷容疑で書類送検しましたが名古屋地検は不起訴処分としました。また2007年に中華航空が事故責任を認め、解決金を支払う調停が成立しました。


 自動と手動の制御がコンフリクトする難しい状況が起こした事故で、製造メーカーと操縦者は十分に注意する必要があります。

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