第2話 ミグ25戦闘機とコンスタンチン君の治療

 本エッセイは基本的に古いものから掲載していこうと思います。今回はソビエト関係2件を取り扱います。


 1)ミグ25戦闘機 函館空港着陸(ベレンコ中尉亡命事件)1976年

 2)コンスタンチン君の緊急治療 超法規的処置 1990年


 ではミグ25の事件から。


 場所 北海道函館空港

 日付 1976年(昭和51年)9月6日

 動機 亡命

 関与者  ベレンコ中尉(ソビエト空軍パイロット)


 冷戦時代の1976年9月6日、ソビエト連邦軍の現役将校であるヴィクトル・ベレンコ中尉が、ミグ25迎撃戦闘機で日本の函館空港に強行着陸し、アメリカ合衆国への亡命を求めた事件です。


 私が小さい頃で、ニュースで騒然となったのをかすかに覚えています。その後戦闘機のプラモデル作りにはまるきっかけになったかもしれません。


 この事件によりミグ25が初めて西欧諸国で分解調査され、また航空自衛隊の防空体制を根幹から揺るがしました。


 ベレンコ中尉はアメリカ合衆国への亡命を要望し、「当初千歳空港を目指したが、千歳空港の周辺は曇っていたため断念し函館空港に着陸した」と供述しました。着陸時点で燃料はごくわずかだったらしいです。


 その後、ソ連、自衛隊双方がミグ25の機体を巡って水面下の攻防を行いました。ソ連側は潜水艦にヘリコプターとスペツナズ要員を乗せミグを破壊する計画を立て、自衛隊側は61式戦車、35mm2連装高射機関砲 L-90を函館駐屯地内に搬入し、陸上自衛隊員200人を準備させていたとのことです。

 海上自衛隊も大湊隊から計5隻で警戒に当たり、航空自衛隊はF-4EJが24時間哨戒飛行を実施したとあります。

 ミグ25の機体は分解して茨城の百里基地に移送され、機体検査の後、結局11月15日にソ連に返還されました。ベレンコは希望通り米国に亡命しました。


『クラウディ』1993年 辻 仁成 (著)

 物語冒頭、主人公の通う函館西高等学校上空をミグ25がかすめていった、との記述があり、著者の辻仁成は事件当時、実際西高に在学していたそうです。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 次はコンスタンチン君救出劇です。


 ソビエト連邦末期の1990年8月、サハリンに住むコンスタンチン君は3歳のときに家庭内での事故により大やけどを負い、超法規的措置により日本(北海道)へ緊急搬送されて手術・治療を受け一命を取り留め、大きく報道されました。


 1990年8月20日、断水のため湯が出ず、母は家事をしながら汲み置きしていた水をバケツに入れ、電熱棒をバケツにいれて熱していました。一人で遊んでいたコンスタンチンは、その100℃近くの熱湯にしりもちをつく形でバケツ内に落下したのです。


 コンスタンチンくんは病院に緊急搬送されましたが、腹部・背中・尻が熱傷3度、手足が熱傷2度で、全身の90パーセントに(そのうちの40パーセントは神経にまで到達していた)大火傷をしており、医師からは「手の施しようがない」「あと2週間もたない」などと言われました。


 8月27日、とある日本人を経由して北海道庁国際交流課係長に「サハリンに大火傷をした子がいる。余命70時間しかない」と電話で助けを求めたところ、その係長はすぐ外務省ソ連課に連絡を取り、外務省はすぐ法務省と協議した結果、コンスタンチン一家を仮上陸で日本へ入国させることで、査証なしで受け入れることを決めた。

 北海道は海上保安庁千歳航空基地に救援機の出動を依頼しました。さらにサハリン州知事から北海道の横路孝弘知事宛に救援要請書が届きます。


 北海道庁国際交流課係長は、自身が以前出向していた札幌医科大学附属病院にサハリンへの医師の同行とその後の治療を依頼します。附属病院の医師は、緊急医療の原則として「助かる見込みがなければサハリンに置いてくる。しかし助かる見込みが少しでもあれば連れてくる。」とした上で、これを引き受けました。


 千歳航空基地でソ連領事館員と綿密な打ち合わせをしたあと、8月28日午前3時45分、操縦士、医師、通訳等、13名の日本人を乗せた海上保安庁千歳航空基地所属 YS11-LA782「おじろ」が、サハリンに向け千歳航空基地を離陸しました。


 YS-11は6時43分にサハリンに到着。そこで医師は火傷をして1週間経っていることをはじめて知りました。助かる可能性はわずかしかありませんでしたが、コンスタンチン君はユジノサハリンスク空港から分丘珠空港に着陸、すぐに北海道警察のヘリコプターで札幌医大病院に移動しました。


 8月30日、東京の病院から、家族の了解を得て採取された移植用の人皮が病院に到着。4時間の皮膚移植手術が行われました。不足する皮膚は、キチン質から合成された人工皮膚も使用されています。 一週間後、移植した皮膚が定着したことが確認され、火傷から10日目には意識を回復したのです。


 9月8日には母が特別手続きで来日、その後は一週間ごとに手術を繰り返し、11月24日には無事帰国しました。


 2015年時点でコンスタンチンは、運送業で生計を立て、妻と子の3人家族で暮らしています。また当時集まった義援金を元に毎年北海道とサハリンとの間で、医療技術の勉強会が開かれているそうです。


 日ソ国境を越えたこの救出劇は、日本と旧ソビエト連邦との関係が改善されるきっかけとなりました。ロシアはウクライナとの戦争を早く止めて欲しいです。


 とても感動したニュースとして私の脳裏に刻まれています。


それでは。 

(2024.3.29)

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