過去

 やっとのことでコートの切れ間から、シャーロットの金褐色の髪の毛が見えた。

 喜びと安心と愛おしさが同時に押し寄せた。


「道をお間違えではありませんか、お嬢さん?」


 ジェラルドは芝居がかった口調で、後ろから声をかけた。


 シャーロットが振り向くのと、2人の唇が触れ合うのが同時だった。


 2人のうち、どちらが先に始めたのかも分からない。


 一瞬の出来事だった。


 ジェラルドはシャーロットを見つめた。


 今、このとき、彼女が自分の全世界に思えた。


「見つけて、くれたの?」


 シャーロットはジェラルドの大きな手に指を絡ませた。


「もう離さないよ」


 ジェラルドもしっかりとシャーロットの手を握った。


 2人はそのまま、クロークルームの出口を目指した。


 沢山の廊下や部屋を抜けて、役者たちが使う裏口から外に出た。

 澄んだ夜空から降ってくる雪が火照った顔に気持ち良い。


 一方で、まだ劇場の中を彷徨っていたい気もした。

 外に出てしまえば、さっきの淡く特別な思い出をクロークルームに置き去りにしてきてしまいそうだった。


「こんな出口があったなんて知らなかったわ」


「君の父さんには内緒だけど、僕はよくあの通路を使ってここに忍び込んだんだ。公演が終わって夜遅くに帰ってくると、決まって𠮟られた。母さんは心配性だったからなぁ」


 ジェラルドは懐かしそうに目を細めた。

 劇場に面する大きな通りは昼間と比べて人気ひとけがなく、そこにあるのは夜の静けさだった。


「だった?」


「ああ。母さんは僕が小さい頃に亡くなったんだ」


 事情を知っているガブリエルは別として、母の話は誰にもした事がなかった。

 だが、シャーロットになら話せるような気がした。


「お気の毒に……」


「僕が5歳のとき、つまり14年前、僕と両親はアイルランドの飢饉から逃げるようにアメリカに渡ってきた。

 母さんは飢饉と伝染病で家族のほとんどを亡くしてた。

 こっちに来てからも、家族全員で働いているのに家計は苦しくなる一方だった。

 ガブリエルの一家の他に頼れる人もいないし、ガブリエルたちは僕たちと同じくらい貧しかったからね。

 そこに栄養失調が原因の流産が重なって、母さんは寝たきりになってしまったんだ。

 そしてある朝、母さんは永遠に目を覚まさなかった」


 シャーロットはかける言葉も見つけられずに、ただそっとジェラルドの肩に手を乗せた。

 ジェラルドにはそれがありがたかった。


「幼い頃に母を亡くす悲しみはよく分かるわ」


「アイリーンが君の母さんに憧れていたと言っていたね。歌手だったのかい?」


 ジェラルドは話題を変えられて内心ほっとした。


「ええ。幼い頃は今日のあの席でよく、お母様が歌うのを聴いていたわ。

 それでお母様のようになろうと決めたのだけど、お母様は才能を妬まれてライバルに殺されてしまったの」


 オーガストがシャーロットを歌手にさせまいとしている理由が分かった気がした。


「犯人は捕まったけど、お父様はそれきり心を固く閉ざして、ひたすら仕事に打ち込むようになってしまったのよ」

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