脱走

――パチパチパチ……


 周囲から温かい拍手が響いてきた。

 立ち上がってお辞儀するジェラルドは、内心驚いていた。


 時々日雇いでこの手のピアノを弾くから分かる。

 普通、こういったピアノの演奏は他人の話し声くらいにしか耳に入らず、したがって拍手を浴びることもないのだった。


「こいつは最高だ。誰の曲だい?」


 さっきのピアニストが言った。


「僕が作ったんです」


 この返答は周囲を驚かせた。


「作曲家なの?」

「お名前は?」

「今度は私の家で弾かないか?」


 そんな声が四方から聞こえてくる。その中で、一際目立つ人物が前に進み出て言った。


「素敵な曲だわ」


「アイリーン・スワンよ!」


 シャーロットが囁いた。


「っていうことは、君が憧れてると言ってたあのプリマドンナ?」


 ジェラルドはオペラの序盤で彼女が登場した時にシャーロットが囁いたことを思い出して驚いた。

 その声がアイリーンにも聞こえたらしい。


「まあ、ミス・ゴライトリー、私に憧れてくださるなんて嬉しいわ」


 話しかけられただけで、シャーロットは気も失わんばかりの喜びようだった。


「ああ、ミス・スワン、今日の歌声も素晴らしかったですわ。私、あなたのような歌手になりたいんです」


「うふふ。だけどね、私はあなたのお母様に憧れてましたのよ」


 アイリーンは悲しげに微笑んで去っていった。

 ジェラルドは今の言葉の意味をシャーロットに聞きたかったが、後から後から人々に話しかけられて、とてもそれどころではなかった。

 富裕層にとって、ジェラルドは目新しい存在だったのだろう。


 最初は褒められたり話しかけられたりするのも嬉しかったが、次第に、質問に答えたり何かの誘いを断ったりするのが面倒になってきた。


 その時、ジェラルドはジャケットの端をシャーロットに引っ張られていることに気づいた。


「どうしたんだい?」


 ホワイエの隅の方に避難してから尋ねる。


「実はね、私もこういうパーティーが苦手なの」


 子供っぽく小さな声で言うのが可愛かった。


「じゃ、逃げよう」


「えっ?」


 戸惑うシャーロットをよそに、ジェラルドは彼女の手を引っ張って走った。


 とりあえず、一番近くにあった部屋に入り込む。

 そこは、沢山のコートで溢れんばかりになったクロークルームだった。


「逃げるどころか、閉じ込められちゃったんじゃないかしら?」


 シャーロットが言う。


「大丈夫だ。ここは僕に任せて」


 ジェラルドは部屋の反対側にある扉を見ながら言った。劇場への侵入と、そこからの脱出には自信がある。


「さ、こっちだ」


 ジェラルドは複雑な列を成すコートの中に潜り込んだ。

 そこを抜けなければ、向こうの扉にはたどり着けない。

 お互いを見失わないように、手はしっかりと握ったままだった。


「あっ」


 不意にシャーロットの手がジェラルドの手の中からすり抜けてしまった。速く進み過ぎたせいだろうか。


「ジェラルド?」


 シャーロットのくぐもった声が聞こえてくる。声だけを頼りに、引き返してシャーロットを探し始めた。


「どこにいるの?」


 搔き分けても搔き分けてもコートがあるばかりで、シャーロットの姿がちっとも見えない。

 出口も入口も分からなくなって、森の中で永遠に迷ってしまったような気分になった。

 ほんの一瞬見えなくなっただけなのに、シャーロットが恋しい。

 華奢でひんやりとしたあの手をもう一度握りたかった。

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