『君に捧げる小夜曲』

 1961年 12月


 割れんばかりの拍手がやみ、長いカーテンコールが終わった後もジェラルドはまだ余韻に浸っていた。

 極上の席で極上のオペラを聴いたこの4時間弱は、間違いなく人生最高の思い出になるだろう。


「さあ、これからどうしましょう? ノーラがいないと私は帰れないわ……」


 シャーロットが言った。


「僕もガブリエルの馬車で送ってもらう予定だったんだ」


「アフターパーティーで2人を待つしかないわね」


 劇場経営者の娘であるシャーロットは当然、アフターパーティーに招待される。

 その友人として、ジェラルドたちも招待されたのだった。

 パーティーが苦手なジェラルドは思わず顔をしかめた。


「大丈夫。お父様は今日家にいるの。どうしても帰りたくなったら誰かに言づてして、辻馬車を頼みましょう」


 仕方がない。話は決まった。


 アフターパーティーは予想通り、つまらないものだった。

 あちらでは婦人たちがゴシップで盛り上がり、こちらでは紳士たちが今年4月から始まった南北戦争の行く末について議論している。

 2人はグランドピアノの傍に行き、ピアニストの演奏を聞くことにした。


 丁度、ピアニストは1曲弾き終えたところだった。


「ちぇっ、必死に練習して名曲を弾けるようになったって、誰も聴いちゃいない」


 ピアニストは乱暴に立ち上がった。


「いっそのこと、誰も知らない曲が聴きたいよ。誰か代わってくれないか?」


 周囲を見回すピアニストの目が、ジェラルドに止まった。


「君、どうだい? 何か弾いてくれないか?」


 もちろん、作曲家を志す者としてピアノは弾ける。

 だが、急に言われたので、ためらってしまった。


「私も拝聴したいわ」


 シャーロットが言った。もう断るわけにはいかない。ジェラルドは腹を括ってピアノの椅子に座った。


 ジェラルドが弾いたのは、シャーロットを想って自らが作ったソナタ形式の『君に捧げる小夜曲』という曲だった。


 提示部は優雅で上品なメロディー。

 最初に窓の向こうのシャーロットを見た時の印象だ。


 展開部では転調して、伸び伸びとした旋律になる。

 ジェラルドの大きな手は高低差や強弱差のある旋律を難なく弾きこなした。

 この部分は窓から空を眺めていた時や、湖のほとりで歌っていた時のシャーロットを表現している。


 そんなことも知らずに、シャーロットはピアノに手をもたせかけ、うっとりと曲を聴いていた。


 よかった。彼女の表情からして、この曲は聞くに堪えない駄作ではないのだ。


 他の人々が彼の演奏を聴きにきたことに、彼は気付かなかった。


 ただ、目の端に映るシャーロットだけを気にしていた。

 この曲で彼女の心を自分のものに出来るなら、いくらでも弾けると思った。


 その曲は、再現部で最初のメロディーに戻り、コーダで曲はゆったりと終わりを告げた。

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