第16話 深夜の脱出劇
それは、雨が降りしきる帰路を駆け抜けて屋敷にたどり着いた直後のことだった。帰宅を報告するためにエドガーのいる書斎に入ろうとした時、中からぶつぶつと唸るような独り言が聞こえてきた。
「まさか地下牢が襲撃されるとは……警備を強化する必要があるか。ぶつぶつ、ぶつぶつ……」
「ただいま帰りました、お父様」
「むっ、帰ってきたかマリーベル。それにエルシャ様も。雨が降っていて大変だったでしょう」
「そんなことより、さっき何をぶつぶつ呟いていたのですか?」
「い、いや、別に大したことない。単なる独り言だ。さあさあ、今日はもう遅いから休みなさい」
エドガーはそう言って半ば強制的に二人を部屋から追い出した。よほど都合が悪いことが起きているらしい。おかげで宿屋で出会ったヨミのことを聞きそびれてしまった。
「もう、お父様ったら誤魔化し方がいっつもワンパターンだわ。エル、あんなの信じちゃダメだからね。あれはどう考えても大したことが起きてる証拠よ」
「あはは……マリーベルさんのお父さんは領主さんですから、いろいろ大変なんでしょうね」
記憶がないエルシャにとって、いや、記憶があったとしても領主の苦労は計り知れない。きっとものすごく責任の重圧がのしかかる仕事なんだろう。昨日よりも一層深くなっていた眉間のシワがそれを物語っている。
「ふゎ~ぁ、なんだか急に眠くなってきちゃった。私、着替えて寝ることにするわ」
「おやすみなさい、マリーベルさん」
「ええ、また明日ね」
エルシャとマリーベルは挨拶を交わし、それぞれの部屋へと戻っていった。一方は寝室、もう一方は書物庫の方へと。エルシャが書物庫へ向かった理由は、ただ単に眠る必要がないからというわけではない。深夜帯の一人になった時間を利用して、「文字の勉強」をするためだった。
その必要性を強く感じたのは先日、レストランでメニュー表を手に取った時だった。あの時は諸事情(マリーベルが来たこと)で何も食べずに店を出たが、実は諸事情がなくても食事にありつくことはなかった。なぜなら、メニューに書かれている文字がまったく読めなかったからだ。
文字の記憶を失ったせいなのか、はたまた元から文字が読めなかったのか。いずれにせよ文字が読めないと不便なことが多いので、先日から書物庫を借りて勉強しているという次第である。
領主の屋敷ということで書物庫にも大量の本が蔵書されているが、エルシャが手に取ったのは初歩中の初歩の本であった。おそらく対象年齢は10歳ほど低くなるくらいの、いわゆる知育本的なものだ。割と使い込まれた痕跡から察するに、幼少期のマリーベルが愛読していたものだと思われる。今のエルシャの年齢から考えると明らかに対象年齢を外れてはいるが、記憶を失っているからには仕方のないことだった。
「そういえばわたしが石像になってた台座のプレートの文字は読めたんですよね。あれはなんでだったんだろう」
エルシャはふと疑問を口にする。今にして思えば不自然なことだが、それが読めたおかげで自分の名前だけは分かった。石像を眺めに来た人達がしきりに名前を呼んでいたのが積み重なってのことなのか、それとも元から自分の名前の文字だけは分かっていたのか。そもそも本当に記憶がないのなら、言葉すら喋れないはずではないのか。
「いやいや、こんなことを考えてる場合じゃない!」
それはさておき、エルシャはいつも通り本を開く。夜は長いようでいて短い。普通の人より行動できる時間が限られているエルシャには、無駄なことを考えている余裕などないのだ。
「…………」
だが、思ったようにページが進まない。決して内容が難しくなったというわけではない。主な理由は、やはりエドガーの独り言が気になって集中できないせいだろう。
実を言うとエルシャはエドガーの独り言を聞き取れていた。地下牢が襲撃された。確かにそう聞こえた。
この町にある地下牢の数なんて知る由もないが、あちらこちらに点在するという訳でもなさそうだ。せいぜい多くて一つか二つといったところな気がする。
そしてマリーベルからは先日、自分たちを攫った盗賊二人が地下牢へ送られたことを聞いたばかりだった。
もしかしたら襲撃されたのはあの盗賊二人が収監された地下牢なのかもしれない。同情する余地はまったくないが、だからと言ってまったく気にしないというのも土台無理な話だ。
気づけばエルシャは知育本を本棚に戻し、代わりに町の地図を取り出してきていた。先日勉強したおかげか書かれてあることはある程度読み取ることは出来る。この屋敷から一番近い場所にある地下牢の位置も把握した。
あとは行動を起こすのみ。玄関は鍵が掛けられているので、外へ出るには別の場所を通る必要がある。ふと窓を見ると、二階だがそこまで高くはないように見えた。真下の地面も固い石畳ではなく、ふかふかの土が敷き詰められているまだ花の植えられていない花壇。しっかりと着地すれば、痛くはなさそうだ。
エルシャはそっと窓を開けた。冷たい夜風が、顔の傍を横切った。
「マリーベルさん。エドガーさん。使用人のみなさん。……ごめんなさい!」
エルシャは謝罪の言葉を口にしながら窓から飛び降りた。両の足がジーンと痺れたが、歩く分には問題ない。玄関に続いて門も当然閉まっていたが、先日マリーベルから横の柵を乗り越えればいいことを教わった。しかし、まさか二度目があるとはあの時は思いもしなかった。しかも自分の意思で。
人生、何があるか分からないものだ。
エルシャはつくづく思うのだった。
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