36:地球の見る夢

先生いわ


 地球上で起きた出来事はすべて、アカシックレコードと呼ばれる構造によって記憶されている。それは地表を走る龍脈、レイラインという形で存在する。ちょうど人間の脳が神経の繋がりによって記憶を形作るように、だ。


 アカシックレコードの全貌を知ることは難しい。不用意に触れれば四十六億年にもおよぶ地球の記憶が流れ込んできてしまう。人間の脳の容量ではこれを受け止めきれず、すべてをる前に限界を超えて死んでしまうだろう。


 人間は眠っている間に夢を見る。夢には記憶を整理する機能があるそうだ。地球の記憶、アカシックレコードにもまた、似たような現象が起こり得る。地上に記憶があふれ出す幻視ヴィジョンのことだ。


 幻視ヴィジョンには様々な規模のものがある。大都市をすっぽりと覆うほど巨大な場合もあれば、キミの部屋の中だけという小さな幻視ヴィジョンも存在する。秘術は限定的な幻視ヴィジョンだというのが定説だ。


 幻視ヴィジョンとは何か。実例を挙げた方がわかりやすいかもしれない。ある抵抗者が遭遇した幻視ヴィジョンの話をしよう。


 本格的な始まりは裏路地の悲鳴だった。正義感に駆られつつ、手に入れた秘術という力を試してみたいという気持ちで抵抗者は路地へと入っていった。


 裏路地に入ってすぐに周囲の景色が一変した。散乱する火の着いた衣類。火災の起きている部屋だ。明らかに日本風ではない屋内。ベッドには裸の女性の死体があった。問題なのは、その女性のことを知っていたという点だ。名前はメアリー・ジェーン・ケリー。切り裂きジャックの捜査をしている時に聞き込みを行った娼婦だ。


 喉を切り裂かれ、内臓が引きずり出されていた。まさしく奴の手口だ。私はまた後手に回ったらしい。……おっと、危ない、記憶に引きずられるところだった。これは私が継承してしまった記憶だ。私は切り裂きジャックを追ったある刑事の記憶をあの時に得てしまった。そう、これは実のところ私の実体験だ。話を続けよう。


 娼婦の部屋のヴィジョンはそれでおしまいだった。すぐに裏路地の光景に戻るが、新たな記憶を得た私は霧のロンドン、切り裂きジャック事件の幻視ヴィジョンに巻きこまれていったんだ。


 私は戦闘向きの秘術が使えないので苦労したが、他に三人の抵抗者がいてくれたからなんとかなったよ。我々の目的は覚知者リベレーターの陰謀を阻止することだったが、私は刑事の記憶の影響で切り裂きジャックの正体を突き止めたいという気持ちでいっぱいになってしまった。他の三人も記憶に悩まされていたよ。幻視ヴィジョンに巻き込まれた一般人の女性は我々の言動を不思議そうに聞いていた。


 結論から言うと我々は覚知者リベレーターの引き起こす災害の阻止に成功した。抵抗者が一人殺されてしまったけれどね。私が戦えれば何か変えられただろうか。そう思うと歯痒はがゆくてならない。


 幻視ヴィジョンは終息する際にバックラッシュを伴う。バックラッシュというのは揺り戻しだ。本来の現実の環境へと幻視ヴィジョンの起きた土地が戻っていく。この時、破壊の爪痕は元の現実に少し影響を与える。軽い傷は治癒し、一般人は幻視ヴィジョン内での記憶をほとんど失う。ただし、幻視ヴィジョン内で死んだ者は生き返らないし、歴史は改変される可能性がある。


 魂はバックラッシュでも元に戻らない。幻視ヴィジョン内で死んだ者は、不自然な事故死、突然の病死、行方不明、元々存在しなかった、このどれかになる。規模が大きいと辻褄つじつまが合わなくなるのだろう、元々存在しなかったことになるケースが多い。あの日、覚知者リベレーターとの戦闘によって死んだ仲間は存在が消されてしまった。


 我々は覚知者リベレーターと戦い続ける決意を胸にして帰って行ったが、私はその後の戦いで痛感した。最低限、自分の身を守るだけでもいい、戦う力が無ければ奴らには対抗できないということを。それで紆余曲折を経て先生になることにした。いや、私の事はいいんだ、話が脱線してすまない。


 覚知者リベレーターは歴史の改竄かいざん、つまるところ現実の改変のために幻視ヴィジョンを起こすことが多い。敵対組織に損害を与えるために災害も起こす。我々には理解できない理由で動くことも多々ある。様々だ。先程の例では秘術寺院の覚知者リベレーターが秘術に関する実験を行っていた。


 幻視ヴィジョンが夢になぞらえられているのには理由がある。突然、本当に唐突に場所や時間が飛ぶことがあるからだ。夢で覚えがあるだろう。また、自分が現代日本の服装をしているのに、他の時代、地域の夢の中の人々はそれを疑問に思わない。なんなら、キミの存在を感知しないこともあるかもしれない。だから自由に振る舞うことができる。歴史が変わってしまうような行動をとっても、基本的には大丈夫だ。


 基本的には、ということは例外もある。特定の秘術を行使すれば、幻視ヴィジョン内の出来事をアカシックレコードに上書きすることができてしまう。覚知者リベレーターどもはこれをよく狙う。歴史に矛盾が発生するだろう。アカシックレコードの矛盾に対する反応は様々だ。運が良ければ矛盾は矛盾のままに、整合性を欠いた歴史が残る。運が悪ければ辻褄つじつまを合わせるように、今現在の常識が改変される。何がどう変わるかは予測がつかない。更に悪いことに現場に居合わせた者以外、現実が書き換えられた事そのものに気付くのが難しい。


 だから、歴史改変を目論む覚知者リベレーターの活動は、なんとしてでも止めなければならない。キミの大切なものが失われるかもしれないのだから。


 ヴィジョンの中で遭遇する可能性のある敵についても話しておこう。残念だが、我々の敵は覚知者リベレーターだけではないのだ。夢の中にだけ存在できる不確定な超常。我々が幽鬼と呼ぶ敵性体がいる。


 幽鬼は覚知者リベレーターが秘術によって創り出す悪夢だ。彼らの手足となって敵対者を攻撃するように作られている兵隊と言える。一概いちがいには言えないが、そう強いものではない。少なくとも、創り出した覚知者リベレーターより強いということはない。足止めや誘導、妨害のために使われる。もっとも、まともに戦えば消耗は避けられない。幻視ヴィジョンに巻き込まれた一般人が襲われる危険が無いのであれば、戦わずに済む方法を探るのが賢明だろう。もちろん、我々がそうするであろうことを見越して罠を仕掛ける狡猾こうかつ覚知者リベレーターもいる。誘導に活用するとはそういうことだ。


 キミは幽霊や怪物や悪魔の存在を信じているだろうか。安心してくれ、そんなものは現実世界にはいない。幻視ヴィジョンに巻き込まれ、生還した一般人が、目撃した幽鬼について人に語り、噂に尾ひれが付いて広まったものが怪物たちの正体だ。幻視ヴィジョン内での出来事を一般人はほとんど忘れてしまうものだが、恐怖体験は記憶に残りやすい。


 おとぎ話や伝承、都市伝説に語られる怪異の正体はこんなところだ。たとえおぞましい姿をしていたとしても、不必要に恐れることはない。秘術を使えば倒すことが可能だ。もっとも、まれにこの幽鬼を創り出す秘術に特別習熟した覚知者リベレーターがいる。たとえば伝説に語られるようなドラゴンの姿をした幽鬼はタフで、吐き出す炎は秘術に匹敵する威力を持つ。ただ、これに勝てないようでは使役する覚知者リベレーターにも勝てない。もしも幽鬼に歯が立たないのなら、撤退もやむなしかもしれない。


 ちなみにね、強力な幽鬼ほど、覚知者リベレーターは操ることに注力する必要がある。一定以上の強さのものを多くは創り出せないし、複数同時に襲い掛かってくる可能性も低い。龍脈から一度に汲み上げられる霊力にも限りがある。強い幽鬼と戦えば消耗は避けられないが、覚知者リベレーターの方も消耗している可能性が高い。過度に恐れず、最善の方法を模索してほしい。

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