30:抗い続けて

「それでね、経堂くんを呼んだ本題に移ろうと思う」

 休日の公園は子供たちでにぎわっている。木陰のベンチでとなりに座るくせっ毛の女性、先生が話題を変えた。

「いよいよ、いけないようだ、私は。先生も引退することにした」

「そうですか、長いこと、ご苦労さまでした」

 素直にねぎらいの言葉をかける。

「後任は田所くんに頼むから、これからは何かあったら彼に相談してほしい」

 以前、共に戦ったことがある同年代の抵抗者の顔を思い浮かべる。あれは確か鎌倉時代の幻視ヴィジョンだったはず。思い出そうとすると自分の中の最明寺さいみょうじ入道がさわぎ立てる。あの事件もサン・ジェルマン伯爵との因縁だった。頭を振って記憶を追いやる。

「おや、もしかして経堂くん、興味があるのかな、先生という役職に」

「いえ、私のような冷たい人間には務まりませんよ。田所くんのように、相手によりそえる人のほうがいいに決まってます」

 先生は、はははと乾いた笑いをあげる。

「資質なら、よっぽどあるだろう、私よりも」

「まさか、興味が無いんですよ、他人というものに。以前はどうだったか知りませんが」

「本当はそのぐらいのほうがいいんだ、先生という役職は。いちいち覚えていたら心がもたないよ、死んでいく仲間たちのことを」

 それはその通りなのだろう。だが、戦場に向かう抵抗者にとって、自分が死んでも先生が覚えていてくれるという心強さは重要だ。もっとも、今ベンチのとなりにいる先生はその点では蘭より冷淡だろう。だからあえてその話題は流す。

「先生を引退した後は何をするんですか?」

「一応は大学生なんだ、私は。就職ではなく大学院かな、実家も太いことだし」

「なんの研究を?」

「インド哲学だね」

 蘭にはまったくなじみのない分野。

「難しそうな話ですね」

「興味深いことに、覚知者リベレーターと抵抗者に関係しそうな事柄が多いんだ、古代インドには」

「関わり続けるつもりではいるんですね」

 再び乾いた笑い。

「小学生からやっているんだ、抵抗者を。他の生き方なんて知らないよ、私は」

「大丈夫ですか? 研究を通じて覚知者リベレーターになったりしないでくださいよ」

「私に残されているのは知的好奇心だけだよ。これを失った時、私は私でなくなる。そして、この好奇心は覚知者リベレーターとは、抵抗者とは何かに向かっている」

 先生は意外と長生きするかもしれない。そんなふうに蘭は思った。

「そうだ、先生をやめたら、どう呼べばいいですか? 私、先生の名前知りませんよ」

「まりか、という似つかわしくない名前を持っている。もう、あまり自分の名前だという意識もないのだけれど」

「まりかさん、いい名前じゃないですか。あ、でも」

「なんだい、やはりあるかな、違和感が」

「いえ……解放戦線の先生であることが、自分を自分たらしめているもののひとつかもしれないと思って。引退は危険なのではないかと」

 察しがいいね、とつぶやく。

「先生であることは私のアイデンティティだったよ、たしかにその通りだ」

「だった」

「ああ、失くしてしまったんだ、少し前に。この間の切り裂きジャック事件の時にはもう、ね」

 先生とは名ばかりだったとつぶやく。

「鶴田くんと葉山くんには悪いことをした。もう少し親身になっていれば、結果も違っていたかもしれないね」

 これだけ聞くと、先生として責任を感じているように見えるだろう。しかし、失くしたという言葉が嘘ではないなら、結果がどう変わっていたのかへの興味ともとれる。おそらく、後者が正解だ。抵抗者というものを熱心に観察するサン・ジェルマンの視線を思い出してしまった。

「経堂くんは畳んでしまったんだって? 会計事務所を」

「はい、おそらく大切な場所だったのだとは思いますが、もう愛着を失ってしまいました」

「失い続けるのが抵抗者だ、残念だけどね。ああ、そうそう、聞いたよ、葉山くんから。経堂くんが増やせるよう願っているよ、自分を日常に繋ぎ止める鎖を」

 そう言いながらも、これまで地味なスーツばかり着ていた蘭がおしゃれなブラウスを着ていることには触れなかった。まりかには、きっと興味の無い事柄なのだろう。

「それじゃあ、もう先生ではなくなる私はキミと二度と会うことがないかもしれない。ここでお別れを言っておこう。さようなら」

「はい、まりかさんが長生きできるよう願っています。さようなら」

 立ち上がり、深く一礼。抵抗者としての生き方を教えてくれた人だ、多くの恩がある。ひかえめに手を振る姿にもう一度軽く礼をしてから、蘭は公園を立ち去った。

 抵抗者はいつだって多くの別れを味わう。いつの間にか、それにも慣れていき、心を動かされなくなる。いずれ、自分が自分である必要性も感じなくなる日がやってくるのだろう。


 そうして、二年後、蘭は自分を喪失することになる。最後まで抱えていたのは、忘れようとしたはずの太一との思い出だった。シャーロック・ホームズが笑う。他の記憶を押し退けて、体の主導権を握ろうと表に出てきた。

「さて、忙しいところに申し訳ないが私は行かねばならない」

 対峙していた覚知者リベレーターが、どこへなりとも行けと手を払い、抵抗者の少女に槍を突き出す。

 死闘を尻目に立ち去ろうとする蘭の背中を剣が貫く。

「蘭さんの体で好き勝手はさせませんよ」

 血を吐き、驚きの表情を浮かべる蘭、いや、ホームズ。秘術の守りが、障壁が解かれている。

――油断したわねホームズ。一緒にライヘンバッハの滝に落ちてみるのはどう?

 かすかに残っていた蘭の自我が頭の中でささやいた。

「ははは、モリアーティは、純粋な、創作、さ」

 蘭の肉体は絶命した。どさりと倒れ、地面に血溜まりを作っていく。

「葉山さん! きゃあ!」

 トドメを刺した抵抗者には戦友の死をいたんでいるひまは無い。蘭の最後の無茶によって覚知者リベレーターの霊力は大きく削られているが、ここからは二人で戦わなければならない。

 鬼神のごとく槍を振るう覚知者リベレーターに迅雷のように刃を叩き込む抵抗者。彼をサポートするように立ち回るまだ若い抵抗者。そして、魂のくさびを失っても尊厳を仲間に救われた抵抗者。

 失われゆく魂はどんな色で輝いていたのだろうか。抵抗者、経堂蘭の記憶はここで途切れている。死後の世界など無い。輪廻転生など無い。魂が燃え尽きればそこまで。ただし、人の記憶はアカシックレコードに記録されていく。蘭の記憶が誰かに継承されてしまう未来もあるかもしれない。

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