29:無名の英雄

 サン・ジェルマン伯爵を倒した数日後。蘭は太一が暮らしていたアパートを訪ねていた。何度か来たことがある二〇二号室。玄関のドアノブをひねれば鍵が掛けられている。さすがに合鍵を持っている仲ではない。仕方なく、秘術で鍵の構造を確認し、ちょうど合う形状の氷を手のひらに生み出した。冷たいそれを鍵穴に差し込み、ひねる。スムーズに回り、施錠は解かれた。再びドアノブをひねり、扉を開ける。

 1DKの室内はガランとしていた。まず目につくのは冷蔵庫を置くことが想定されたスペース。埃ひとつなく、フローリングに外の光が反射している。真夏に閉め切られていた室内の温度は高いが、畳のい草の匂いがするだけで、生活にともなう臭気は何も無い。

 扉を閉め、靴を脱いであがりこむ。キッチンシンクも風呂場もトイレも使用感が無くきれいなものだ。家電や日用品のたぐいは無い。和室にも何も無い。家具も無ければ布団も無い。畳の日焼け跡も無く、張り替えてからそのままなのだろうと知れる。押し入れももちろん空っぽ。

 緑のジャージどころか、彼が生活していた痕跡は何ひとつ見つけられなかった。

「いなかったことに、なったのね」

 ため息をひとつ。龍脈からの霊力に意識を向け、視覚を接続する。霊力を宿した瞳で室内を改めてぐるりと見渡すと、そこには彼がいた残滓ざんし。以前来た時の光景とほとんど同じものが見えた。もしかしたら、今見ているのはこの場所の記憶などではなく、自分が覚えている蘭自身の記憶でしかないのかもしれない。

 これ以上、存在しない過去をても意味は無いだろう。九品仏太一という抵抗者はいなかった。そういうことに、この地球上ではなっているのだと確認できただけで目的は果たした。事故死などに辻褄つじつまが合わされているようなら、浅からぬ縁もあることだし葬式に香典を送ったり、墓前に線香をあげるぐらいしようと思っただけだ。多少のさみしさこそ感じるが、彼の死は生前から受け入れている。

「さようなら、太一くん」

 霊視を切断し、もぬけの殻となった部屋、いや、元々入居者のいなかった部屋を出た。面倒だが鍵を掛け直す。ガチャリ、自分の中の太一に関する記憶にも、同時に鍵を掛けた気がする。蘭もそう先の長い抵抗者ではない。いなくなってしまった人物よりも、手の届く日常の何かのためにリソースを使うべきだ。


 数日後、蘭は拓矢を喫茶店に呼び出した。偶然、鶴田にナイフを渡した時と同じ席に通される。

「蘭さん、話ってなんでしょうか?」

「拓矢くん、幻視ヴィジョン内で死んだ人は存在が消える場合があるという話は覚えてる?」

「はい……もしかして、太一さんが?」

 話が早い。拓矢は抵抗者としての順応が早いようだ。むしろ早すぎるぐらいに感じる。

「ええ、太一くんはいなかったことになった。それだけ、伝えに来たの」

 蘭には自分の声がひどく冷淡に感じられた。

「そうですか。でも大丈夫です」

 少年は笑顔を見せた。ああ、この子も色々失くしてしまったんだわ。蘭の心にあわれみにも似た安堵が生まれる。この笑顔を見て安心するなんて、だいぶ壊れてしまったなと自分を他人事のように分析した。

「だって、太一さんのことは僕が覚えていますから」

「そう……」

「僕が消えてしまわなければ、僕の記憶は地球の記憶として残るはずです。つまり、太一さんは完全に消えたわけじゃありません」

 そこになんの意味があるのかという野暮な問いかけが口から出かけたが押し止める。

「それに、ヒーローとしての太一さんの生き様は僕が引き継ぎます」

「どうして、たった数日一緒だっただけの太一くんにそこまでこだわるの?」

 ひどい質問だが今の蘭の口からは平然と出てしまう。自分の中の良し悪しのラインが今ひとつわからない。

「人の価値は誰かの評価で決まってしまう。僕だってそんなの嫌ですけど、事実なのは間違いありません。歴史的な偉人のことはみんな知ってますが、名前を残せなかった人たちは、記録されなかった人たちは、存在の証明もできません」

 数日前に幽鬼におびえていた少年と同一人物だろうかという疑念が浮かぶ。

「だけど、アカシックレコードには、そんな人たちの記憶も残されてるんです。みんな、どこかの誰かにとって、親だったり子供だったり、大切な存在だったはずです。だから、価値があるんですよ」

 目の前の少年が何を言いたいのかよくわからない。これは彼の言っていることが見当違いなのか、蘭のどこかがおかしいのか。

「太一さんはヒーローです。僕がそう感じたから、僕の評価では最高の魂の輝きを持った人です。そんな太一さんが、僕のことを最後にヒーローだって言ってくれたんです。僕の魂には太一さんと同じだけの価値があるんです」

「魂の輝き?」

「人は死ぬ時に、すごく綺麗に輝くんです。どれだけ綺麗に輝くかは、残念だけど人によって違います。魂の価値が違うんですよ」

 理解した、この少年は記憶に浸蝕されて少し壊れてしまっている。

「そう、私の魂も輝けるといいのだけど」

「あ、すみません、僕ばっかりしゃべっちゃって」

「私はね、拓矢くん」

 拓矢は、はいと言って傾聴けいちょうする。

「自分に残されてる日常に繋ぎ止める鎖がどんなものなのか、よくわからなくなってしまったの」

「大切なものがわからない、ってことですか?」

「そうね、こうして経堂蘭として、自分が自分であると自覚できてるから、しっかりと残されてるのはわかるのだけど、何を失ったら自分ではなくなるのか、想像がつかないわ」

 拓矢は少し考え込む。

「僕は、友達や家族との日常が大切です。たぶん、最後に残るのはこの辺りじゃないかなと思ってるんですけど、蘭さんは家族とかいないんですか?」

「両親とも生きてるわ。けど、他人としか思えないから、その絆はもう失くしてるわね」

 ようやく少年は悲しそうな顔をした。

「太一さんが、なんとかっすって変なしゃべり方してたじゃないですか」

「……そうね」

 太一のことは忘れることに決めたので返事が一拍遅れる。

「あれ、自分らしさを自分で演じてたと思うんですけど、魂のくさびとして、意味があったんだと思うんです」

 確かに、サン・ジェルマンとの戦いで、光線を受けてからの短い時間は昔の話し方に戻っていた。

「だから、魂のくさびって自分で作れると思うんですよ。人との縁とか、趣味とか、今から作っていっても遅くないんじゃないかなって、思うんです」

 はっとした。そういう考え方もできるのか。大切なものが無いなら作ればいい。なんて単純で明快な答えだろう。

「ふふ、教えてもらっちゃったわね。そのアドバイス、ありがたくいただくわ」

 少年は照れたように微笑んだ。まだ年相応の可愛らしいところも残っているらしい。それを見て、蘭は安心した。きっと、自分も気付かないだけで大事なものを心に抱えているんだ。

「来て良かった。拓矢くん、改めてありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 そう応えてから、少しためらいがちに、あの、と声をかけてくる。

「どうしたの?」

「蘭さんは、まだ戦いに参加するんですか?」

「ええ、そのつもりよ。案外、抵抗者として戦うことも自分が自分らしくあるための一部になってるのかもね」

 答えを聞くと少年は笑顔を見せた。

「じゃあ、ヒーロー仲間ですね、これからもよろしくお願いします先輩!」

 ヒーロー。太一の遺した希望。蘭にはそう感じられた。この希望の光を守り、新たな抵抗者に伝えていくのが先輩抵抗者として正しい姿なのかもしれない。


 切り裂きジャック事件から一ヶ月。税務署で廃業届けを出し終えて蘭は一息つく。会計事務所は畳んでしまった。これからは知り合いの会社で社員として会計の仕事を行う予定だ。自分の事務所を切り盛りするよりも自由に使える時間が増えるだろう。

 手帳のやることリストのページを開く。購入するファッション誌の名前がいくつか、美容院の予約、ネイルショップのメモ、口コミ評価の高かった化粧品名の羅列。いわゆる自分磨きをするつもりだ。別におしゃれをすることでなくとも良かった。とにかく、日常に繋ぎ止める鎖を増やしたかっただけ。これからは映画も観るし漫画も読むつもりでいる。けれどなぜか、これまであまり興味の無かったファッションに一番かれた。

 理由は深く考えないことにしている。きっと、きっかけを思い出しても苦い記憶を思い出すだけだろう。そんなことよりも、自分を日常と結びつける新しいものに意識を向けるべきだと感じる。シャーロック・ホームズをはじめとした過去の亡霊たちにとらわれないためにも、明日へ目を向けなければならない。

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