25:ジャックとホームズ

 ドーセット・ストリートは無人だった。いつもなら、この時間には娼婦が何人も立っているはずだというのに。

 そんなことは気にせず駆け抜けようとした蘭と鶴田だったが、突如、蘭が鶴田の腕をつかんで立ち止まった。

「どうしたんだ経堂さん」

 つんのめりながらもバランスを取った鶴田が、とまどいながら尋ねる。

「罠が仕掛けてあるわ」

「罠……?」

 鶴田が視線をさまよわせる。しかし、それらしきものは無い。すぐさま秘術による霊視を向けると霊力の糸のようなものが建物と建物の間、道をまたいで多数張り巡らされている。

「よく、気付いたな」

 触れればどうなるかはわからないが、罠というからにはろくなことにならないだろう。

「無人のドーセット・ストリート。ここを見てホームズの記憶を思い出したのよ。彼は罠を張ってジャックを待ち伏せしていた」

「すぐに迂回しよう」

「そうしたいのは山々だけど……」

 こつ、こつ、こつと杖をつく足音。建物の陰から覚知者リベレーター、シャーロック・ホームズが姿を見せる。

「人払いをしてあるというのに足を踏み入れる、キミたちは半覚醒者のようだね」

 不機嫌そうな目が二人を縫い止めるように向けられる。

「その服装、そうか、幻視ヴィジョンかここは。私は夢の中の住人というわけだ」

 どうやら一昨日遭遇したホームズとは連続性が無いようだ。切り取られた歴史の一場面、それが幻視ヴィジョン覚知者リベレーターでもなければ自分がその一部だなどとは気付けないだろう。

「だからといって、私の狩りの邪魔をしていい理由にはならない。またジャックを取り逃がしてしまう」

 目の前の覚知者リベレーターは明確に怒りの感情を抱いている。今はサン・ジェルマンの実験を阻止しに行かなければならないが、見逃してくれるだろうか?

「シャーロック・ホームズ、あれを見てくれ、サン・ジェルマン伯爵が実験を行っている、キミとジャックの対決どころではない!」

 鶴田が上空の雷球を指し示すと、ホームズは目を細めて空を見つめた。そうして、今初めて気付いたように顔をしかめる。ここが幻視ヴィジョンであると認識したことで見えるようになったのだろう。

「なるほど、彼があれを使って何をするつもりか分からないが、あの規模なら秘術自体の実験だけが目的だろう」

 意に介さないといった雰囲気で覚知者リベレーターは抵抗者たちに向き直った。

 蘭は自分の中のホームズの記憶に、協力してと呼びかけた。途端に蘭の表情は名探偵のそれに成り代わる。

「その通りだ私よ、私はこの日この場所でジャックを問い詰めることに失敗する。端的に言って殺してしまった、逃げられたというわけだよ」

「ほう、つまり、この幻視ヴィジョンでやり直し、アカシックレコードを上書きしようと、そういう提案だね?」

 唐突な提案でありながら、覚知者リベレーターは自分の記憶が蘭を通して語っているとすぐに気付き、怒気を収める。興味深そうに瞳がきらめいた。

「だが、半覚醒者とはいえ二人も余計な者がいる。ジャックが警戒して来ない可能性は?」

「来るさ、五件目の現場でお気に入りのナイフを奪った私に彼女は強い敵意を向けていた。私の魂の輝き見たさに決着をつけに来る」

 鶴田は今すぐ蘭を正気に戻すべきか、そのタイミングをうかがうべきか、ひとりで墓地へ向かうべきか逡巡しゅんじゅんしている。

「邪魔はしないでくれよ、バダム刑事」

 ホームズの言葉には秘術がこめられていた。鶴田の頭に記憶が洪水のように流れこむ。ホームズに刑事だと見抜かれ、現在追っている事件を言い当てられ驚いた時の記憶。レストレード警部に連れられて、初めてホームズに会った時のことを思い出し、エドワード・バダムとして応えてしまう。

「ええ、切り裂きジャックの正体を突き止められるのであれば、協力させていただきます」

 二人のホームズは満足そうにうなづいた。

「しかし、この遺物がそんなに大切なわけだ」

 ホームズが指輪を取り出し、ナイフへと変化させる。

「耐久性こそ遺物らしくすこぶる頑丈、しかし、切れ味は並、秘術を増幅するわけでも封じこめられているわけでもない」

 銀色の、曲線の多いナイフ。ジャック・ザ・リッパーの凶器を目にして鶴田がおぉと小さく歓声をあげる。

「それがジャックの凶器ですか、ホームズさん」

「ああ、つまらない遺物だよ、バダム刑事。なぜ、こんな数打ちの粗悪品を大切にしているのだろうね?」

 蘭の姿のホームズが応える。

「その遺物、アンナ嬢は指輪の状態で入手したようだよ。屋敷のメイドが覚えていた、宝飾品を売りに来た商人から購入したそうだ」

「記憶の器だったか。たしかにこれに記憶を入れておけば、手にした者の中から選んで継承できそうだ」

「おそらくは。アンナ嬢はその指輪を媒介にかっ――失礼、彼の記憶を得てしまったのだろう」

 途中、不自然な言い直しをしたのは鶴田に何かを隠すためだろう。きっと、ジャックが継承した記憶の誰かに関する情報だ。

「ホームズさん、私のことはお気になさらずに、私の仕事はそのアンナという女性の身元を確認し、可能であれば犯行の証拠を探すことですから」

 具体的な人名が出てきたことでバダム刑事は張り切っている。しかし、アンナなどというごくメジャーな名前、ロンドンの比較的裕福な生活をしている女性にしぼっても何人いることか。

「仕事熱心だね、バダム刑事。いや、真実を知りたいという自分の欲望に忠実なだけかな? アンナとは誰かを私に聞かず、自力で探そうとしているあたりは評価できる」

「そんな刑事にもうひとつヒントをあげよう。彼女は半覚醒者ではなく覚知者リベレーターだ。アンナとしての元の生活を続ける必要はあったかな?」

「しかし、拓矢少年は香水を気分で選んでいたと――」

 突如ごうごうと燃える炎がホームズの真上で拡散し、花が咲いたように降り注ぐ。蘭と鶴田は離れて回避。覚知者リベレーターは恵みの雨でも受けるように両手を広げて炎を浴びた。

「ようやく来たか、ジャック・ザ・リッパー」

 炎はホームズの張り巡らせていた霊力の糸に引火、辺り一面の石畳から影の槍が無数に突き出される。罠を無理やりに発動させたようだ。

「探偵とは趣味の悪い生き物だな、他人のことを嗅ぎ回って何が楽しいというのか」

 影の槍が薄れて消えてゆき、若い女性が現れた。髪を結び、動きやすいよう男装している。ブルネットの髪が美しい以外、これといって際立った特徴のない女性だ。しかし、その瞳には底しれぬ何かが秘められているように感じられる。

「キミに趣味の良し悪しを説かれるのは心外だね」

 ホームズと蘭は異口同音にそう言うと、顔を見合わせて苦笑した。

「お前が切り裂きジャックか! ようやくだ、ようやく見つけたぞ!」

 バダム刑事である鶴田が興奮気味に言う。当の切り裂きジャックは冷めた視線を返す。

「なんだ、この半覚醒者は」

「観客だよ、邪魔ならご退場願うさ。ああ、レディの方は私だから気にしなくていい」

 アンナあるいはジャックは不満そうに息を吐くと素手のまま構えた。

「待ちたまえジャック。先日は手荒な真似をして悪かったね、素直に謝ろう。今日は対話のために来たんだ」

「私は自分が賢いと思っている男が嫌いだ。その腹の内、見せてもらおうか」

「悪いが戦えば私が勝つ。片方は半覚醒状態とはいえ、二人がかりになるしね。それよりも情報交換といかないか?」

 ジャックは蘭をちらりと見た。

「交換と言ったな、何を知っている?」

「キミの師について、お互いの情報を突き合わせれば、どこにいるか真相に近付けるのではないかと思ってね」

 ホームズの提案にジャックは即答した。

「不要だ。師の境地には自力で到達する」

「ストイックなことだ。ならば仕方がない、私個人の興味ではなく、委員会のために働くとしよう。気が変わったら言ってくれ、いつでも対話に戻ろう」

 そう言って、ジャックのナイフを足下に捨てた。

 石畳に当たる金属音が、始めの合図であるかのようにジャックは左手を横に振る。その軌道上に光の刃がずらっと八本並んだ。それらは一直線にホームズ目がけて飛んでゆく。ホームズの方はというと、右手の杖をかかげて奇妙な構えを取ると、飛んでくる刃に向けて振り下ろした。光の刃の一群は直角に軌道を変えて石畳へと突き刺さり消えた。その間にジャックは走り、肉薄する。

 下ろした杖を再び振り上げながらホームズは回転し、左足を軸に右足を横から叩きつける。低い姿勢で走っていたジャックはそのまま体を伏せて蹴りをかわし、落ちていたナイフを拾うとバネのように跳ね上がった。常人であったなら到底無理な体勢からの立ち上がりと共に斬り上げられるナイフ。障壁を裂かれながらもホームズはステップを踏むように右足を地に着けた勢いのまま左膝を叩き込む。同時に杖を振り下ろすが、ジャックは斬り上げた勢いを使ってのけ反り、後方へと宙返りを決めた。

 激しい白兵戦闘を目にして、鶴田、いやバダム刑事がうなる。

「どちらも卓越した体術、ホームズさんは勝てるでしょうか?」

「おや、私の勝利を疑うのかね? 見たところジャックは接近戦が得意なようだが、私と比べて優位と言えるほどではない。対して私はオールラウンダーだ、見ていると良い」

 ホームズと化した蘭の解説に、本来のホームズが微笑みを浮かべた。

「まぁ見ていたまえ」

 悠長に言葉を紡ぐ間にジャックが再び迫る。ホームズの正面でナイフを振る予備動作が見えた直後、その姿がホームズから見て左にスライドする。変幻自在の体術、直線的な接近の直後シームレスに真横へ回り込んだのだ。高く構えられていた杖が素早く下げられナイフを受ける。だが、ホームズは右手を頭の後ろに回した不利な体勢となった。そのままジャックに背後を取られるのは必定ひつじょう。もっとも、それは予測通りの動きでもある。素晴らしいバランス感覚でホームズは体をひねり真後ろを蹴りつける。ジャックも反撃は予期していたのか、繰り出された足を切りつけながら後退した。

「なるほど、秘術を使ってこないということは、何か大技のために霊力を編んでいるね」

「気付くのが遅い」

 ジャックが左腕を突き出し手を握りこむ。すると、ホームズの体が不可視の強い力で挟みこまれた。ジャックが腕を振ると、捕われた体は宙に浮き、建物の壁に、石畳の地面に、何度も打ち付けられる。巨大な見えない手から脱出しなければ、ホームズの障壁は砕かれ続けるだろう。もちろん、覚知者リベレーターにこの窮地を脱する手段が無いわけがない。バチッと大きな音がしてジャックが左腕をはじかれたようにのけ反る。障壁が砕け散った気配。ホームズの体からバチバチと電流が漏れ出た。

「組み付いてくれるのを待っていたんだ。さあ、どうするジャック、私とどう戦う?」

 ホームズは明らかに戦いを楽しんでいた。ジャックの動きから、使用する秘術から、彼女の内面を洞察しようと頭脳をフルに働かせるのが快感らしい。

「私の記憶の依代よりしろたる遺物は取り返した。無理に戦闘狂に付き合う必要は無い」

 撤退の気配を見せるジャックにホームズは大げさに首を振って否定のジェスチャーを見せる。

「私はすでにキミが何者なのかを洞察しきった。その上で、キミとの対話は必須だと感じたよ」

 奇妙なことに、ホームズはこんな状況にも関わらず、靴を片方脱いで手に持って見せた。それが何を意味するのか、バダム刑事には一切理解できなかったが、ジャックは失っていた興味をホームズに向けた。

「そうか、お前がすえか。直接会うのはこの時代が初めてだな」

「キミはなかなか表向きに動かないからね、こちらとしても探すのに骨が折れる」

 悠長に靴を直すホームズにジャックが問う。

「なぜ委員会などに協力している」

「キミこそ今のままでいいと思っているのかい?」

 覚知者リベレーター同士でなければ理解できない会話が続いたことで、疑問を抱いた鶴田が自分を取り戻すことに成功する。

 大失態だ。この幻視ヴィジョンに入ってから少なくない時間が経過している。サン・ジェルマンを止めるという目的を忘れ果て、無意味に過去の戦いを眺めていた。

「経堂さん目を覚ませ!」

 斜め前に立っていた蘭の肩をつかもうとするが、最小限の動きでかわされる。

「今、重要な会話が行われている。幻視ヴィジョンの住人である彼らの記憶が残る可能性が低い以上、私が記憶しなければなるまい」

「キミは経堂蘭だろう! 太一くんをひとりで戦わせていいのか!」

 太一の名に蘭がわずかに身じろぎする。

「ああ、肝心なところでレディを起こしてくれたものだ、いいとも、彼がどういうつもりかわかっただけでも収穫だ。次の邂逅かいこうに期待しよう」

 そう言って、だらりと体の力を抜く。

 一方、覚知者リベレーターふたりの問答は雲行きがあやしくなっていた。

「結局、言葉では何も伝わらないな」

「同意見だよ、言葉は便利なものだが、同時にノイズを生じさせる」

 再びホームズが杖を振り上げた。

「我らですらこうなのだ、委員会の理想など無意味だ」

 ジャックがナイフを構え直す。

「所属している身だが肯定しておこう。だが、彼を起こし、鍵を見つけるには一番の近道だ」

「近道など無い。お前の師はそんなことも教えなかったのか」

「我が師の能力不足も肯定するが、それはキミの怠慢の結果だろうね、だから、この場で教えを乞うとしよう!」

 ホームズの秘術がジャックの足下から十数本の影の槍を生じさせる。寸前に跳躍したジャックが光の刃をずらりと並べる。

「経堂さん、今だ!」

「くっ、待って、他の記憶が混線して――」

 上空の雷球が激しい光を放った。すぐさま地獄のような雷鳴が響く。その音で、複数の記憶の主導権争いにさいなまれていた蘭は我に返る。

「サン・ジェルマンの実験が進んでるわ!」

「急ごう、遅れを取り戻さなくては」

 二人は互いにうなづき合うと、全速力で走り出した。覚知者リベレーター同士の戦いの隙を縫って。

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