12:改竄される世界

 ドーセット・ストリートに到着した。周囲は暗くなってきているが、予測される犯行時刻までは時間がある。もっとも、幻視ヴィジョンの中でまっとうに時間が経過するとは限らない。

「実際に現場まで来ると、色々思い出してしまうな」

 鶴田の中でエドワード・バダムの記憶が次々とよみがえる。結局、切り裂きジャックの正体を突き止められなかった後悔が焦燥感に変わっていくのが自分でもわかる。

「そういえば、先ほどシャーロック・ホームズと言っていたが、架空の人物の記憶はどういう仕組みで?」

「そうね、史実に無い記憶はだいたい三パターンあるわ。ひとつは覚知者リベレーターによって歴史が変えられ、存在しなかったことにされたケース。本当はいたのに、消されてしまったの。時々覚えてる人がいて、そういう人が何らかの形で伝えれば、伝承やフィクションとして記憶に残るわ」

 真坂がうつむく。姉のことを思い出そうとしているのだろう。

「次に、歴史が歪められて、本来とはまったく異なる人物として伝えられているケース。世紀の大悪人が本当は英雄だったり、その逆もあるわね。陰謀論でよく聞くような話よ」

「虚構と現実、どちらが真実かわからないということか」

「どちらも真実というややこしい話もあるの。それが最後のケースね。シャーロック・ホームズで言うなら、彼はそこらの歴史上の偉人より有名よ。人々の想像の中では存在する。地球の記憶はコンピューターのデータのように厳密ではなく、人間の記憶のように心もとないわ。思い違いをすれば、無い記憶もあることになるの」

 鶴田も拓矢も、真坂もよくわからないという顔をする。

「ランさん、覚知者リベレーターが歴史を改変するプロセスを話しておかないと、たぶん通じねっす」

「それもそうね」

 蘭は地面を指差す。

「ここはロンドン。イーストエンドのホワイトチャペル。その土地の記憶が夢として現れている場所」

 幻視ヴィジョンと呼ばれる現象の基本的な説明。

「ここでたとえば、メアリー・ジェーン・ケリーを切り裂きジャックから救ったとして、現実に影響があると思う?」

「過去が再現された夢の中で結果を変えても、何も変わらないだろう」

「正解。でも、夢というのが記憶の整理だとして、結末を変えた記憶を地球に戻したら、つまり地球の記憶を上書きしたら、どうなると思う? 秘術を使えば逆流させられるのよ」

 考え込む三人。真坂がまっさきに口を開いた。

「記憶が変わっても過去が変わるわけじゃないと思う」

「普通はそうね。でも、人はよく勘違いをする。たとえば誰かが善意でしたことを、不幸にも嫌がらせをされたと感じることがあるわよね。その人にとって、相手は嫌な人として記憶されるわ」

「その人にとっての事実が変わる……?」

「そう。そして、幻視ヴィジョンに関して言えば、記憶の持ち主は地球。地球にとっての事実が変わるの」

 拓矢が首をかしげる。

「だからって、たとえば本に文字で書かれたこととかは変わりようがないですよね?」

「普通はね」

「例外があるような言い方」

「ええ、地球の記憶に矛盾が生じた場合、ほとんどの場合はそのまま、なんの害もなく、おかしな記録があるだけで済むわ。だけど時々、矛盾を修正しようという力が働くことがあるの」

「矛盾を修正……」

「記憶にある通りに、現実が整えられてしまうのよ」

「歴史上の事件みたいな、多くの人が知ってることは修正されにくいっす。だけど、知ってる人の数が少ないことほど、影響を受けやすいっす」

 それって、と真坂が不安そうな顔で口走る。

「夢の中で、幻視ヴィジョンの中で人が死ぬと、現実と記憶の間で矛盾が生じるっす。そのまま行方不明になるのが矛盾が放置されたパターン。なんかしら事故とか病気で死んだことになるのが修正されたパターンっす」

「存在が消えるのは、矛盾が大きい時が多いわね。たとえば幻視ヴィジョンの影響で、一度に多くの人が死んだとか」

「町ひとつ無かったことになった例を解放戦線じゃ記録してるっす」

 そんな、と異口同音に拓矢と真坂が声をもらす。

「それを仕掛けてるのが覚知者リベレーターという認識で合っているかな? しかし、なんのために」

「そっす、連中の仕業っす。動機は色々っすね」

覚知者リベレーターと一口に言っても、派閥みたいのがあるのよ。具体的にはいくつもの組織があって、互いにいがみ合ってるわ」

「まさか、覚知者リベレーター同士の争いの結果、無関係な人々が存在を消されるということなのか?」

「正解。あいつらは秘術の使えない一般人のことを、文字通りなんとも思ってないわ。死のうが生きようが目的達成のためには関係がない」

「モブとかエキストラみたいなもんす。いてもいなくても変わらない、背景同然の扱いっす」

 許せん、とつぶやいたのは鶴田だった。

「落ち着いて鶴田さん。怒りを抱くのは当然だけど、状況を考えて。あなたの中には今、特別正義感の強い刑事の記憶があるでしょう? 意識を飲まれるわよ」

 鶴田はしぶい顔でうなづいた。

「確かに、自分の感情とバダム刑事の感情が同調しているのを感じる」

「さすがオトナっすね、客観的に自分を見れるのは強いっす。オレらみたいに若いと視野がせまくなりやすくていけねっす。オレも最初からそういう視点を持ててたら、もうちょい長生きできたかもしれねっす」

「太一くん、最近、死ぬ死ぬ気軽に言いすぎじゃない?」

「だんだん、わかってくるんすよ。自分の魂のくさびってやつが、日常に繋ぎ止めてるものが、あとどんぐらい残ってるかっての。冗談抜きで、オレはもう長くねっすよ」

 意を決したように拓矢が言う。

「怖く、ないんですか?」

「怖えっすよ、でも、この怖いと思う感情ですら、大事な自分の一部っす。コレ失くしたらいよいよヤバいっすよ」

 お通夜のような空気が流れる。

「オレがバカだったからトクベツ早いだけっす。みんなは慎重にやって長生きしてほしいっす」

「太一くんは目につく人みんな助けようと頑張りすぎたのよ」

「ヒーローになりたかったんすよ。ただのエゴっす。カッコつけて、自己満足して、まぁ、ここまできたら、最後までカッコつけさせてくれると、うれしいっす」

 不意に、太一が周囲を見渡した。それを見た蘭が警戒した面持ちで真坂を背にかばうような位置に立つ。

「幽鬼っすね」

「ゆうき?」

 答える前に磯臭い匂いが辺りに充満する。

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