11:失われるもの

「あれ……?」

 歩いている途中、拓矢が声をあげた。

「どうしたの?」

「さっき、九月二十九日って言いましたか?」

「ええ、新聞で確認したし、この気温は九月のロンドン……にしては寒いわね。まずいわ、気付かないうちに時間が飛んでるかも」

 拓矢は幻視ヴィジョン内に来てから、断片的な記憶をぽつぽつと思い出している。アニー・チャップマンを殺したおぞましい記憶もだ。ここに来た直後に労働者風の男たちから聞いた話ではアニーの死後数日といったところだった。記憶にある限り、犯行は九月八日。

「僕がこの幻視ヴィジョンに来た時は九月の上旬でした」

「この寒さは十一月には入ってるんじゃないかな」

 ジャケットを真坂に貸している鶴田は寒そうに身を震わせた。半袖シャツの拓矢も見るからに寒々しい。

「やられたっすね、幻視ヴィジョンは地球が見ている夢っす。夢にまっとうな時系列を求めるのはムダっす。誰か十一月以降で切り裂きジャック事件にナニかあったか知ってるっすか?」

「だから事前に調べておきなさいって言ったでしょう。五件目のメアリー・ジェーン・ケリー殺害は十一月九日よ」

「場所はドーセット・ストリートのミラーズコートだ。急ごう」

 鶴田が焦って駆け出そうとするのを太一が押し止める。

「待つっす、ツルタさん。落ち着くっす、ここは夢で、アンタは刑事じゃねっす」

「あっ、すまない。どうにも慣れないな、この感覚は」

「慣れてしまっても困るんだけどね、それだけ自分が自分であるっていう確固たる意志がゆらいでるってことだから。先生に会ったなら、あの妙な口調、気になったでしょ?」

 蘭の言葉に鶴田はうなづく。

「先生、歴戦の抵抗者で、何人分もの記憶を抱えてるのよ。自分が誰なのか、かなり危ういところで生きてるから、もう戦うなって止められて、それで先生になったそうなの」

「あの人に残されてるのは知的好奇心だけっす。あのアイデンティティを失くしたら、もう覚知者リベレーターにあと一歩っすね」

「何人分もの記憶?」

 拓矢の疑問に蘭が答える。

「今後、あなたの中には、いろんな人の記憶が飛びこむかもしれないわ。私は三人いるし、太一くんは六人だったかしら」

「もう、頭んナカごっちゃっすよ。コレ、しっかり切り分けて考えるようにしないと、カンタンに自分がダレなのかわかんなくなるっす」

「六人分の記憶……」

 拓矢はゾッとした。殺人鬼ひとりでいっぱいいっぱいなのに、ここに他の記憶も混ざりこむだなんて。

「失くす、というのは?」

 鶴田も疑問を確認しておく。

「自分を自分たらしめるものよ。日常に繋ぎ止める鎖って先生は表現してたわね」

「別の先生は魂のくさびって言ってたっす。覚知者リベレーター連中は解放の邪魔になる煩悩ぼんのうとか言ってバカにしてるっすけどね、これを全部失くしたらオシマイっす。自分が自分である必要性を感じなくなるっす」

 新人抵抗者の拓矢と鶴田は青い顔をしている。真坂は意味がわからず聞き流しているようだ。

「オレも色々失くしてるっす。わざとこんなしゃべり方してるのも、ちょっとした抵抗っすね」

「緑のジャージもね。ファッションに気を使えなくなってから、せめて色だけはブレないとか言って買いに行ったのよね」

「……そっすね」

 返事までの微妙な間。実のところ、太一にはもう緑へのこだわりは残っていない。家に緑のジャージしか無いからこれを着ているだけだ。今、蘭に言われて、そうだったのかと納得したのが実際のところ。彼の魂のくさびはもうさほど多くない。

「記憶は、消せないんですか?」

 おそるおそる、拓矢はたずねた。消せるなら、元の日常に戻れるなら、目の前の人たちは苦労していないだろうなと思いながらも聞いてしまった。

「先生が言うには、記憶は魂に結びついて離れないそうっす。ひとつの記憶ですべてを塗りつぶして覚知者リベレーターになるか、魂を手放して死を選ぶまで、抗い続けないといけねっす」

「破滅が約束されているようなものじゃないか」

 鶴田の言葉はもっともだ。

「だからね、日常を大切にして守り抜かないといけないの」

「守るためには戦う必要があるっす。戦えば、それだけチカラに頼ることになるっす。そうすると、日常から遠ざかるっす」

「だから、人類解放戦線には入っておくことをおすすめするわ。大規模幻視ヴィジョンが発生すると知らされたら、逃げればいい。確実じゃないけど、寿命は伸びるから」

「太一さんと蘭さんは、どうして戦うんですか?」

「自分が自分であるためよ。私なりの抵抗」

「オレは手遅れっすからね、せめてダレかを守って、オレが生きた意味を残して死にたいっす」

 想像以上に壮絶な答えを聞いて拓矢と鶴田は戦慄せんりつした。どうやら、自分たちは、その意志とは関係なく片道切符で地獄への列車に乗せられているらしい。

 破滅の運命に魅入られていない真坂だけが、心細そうな顔で会話を見守っていた。

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