32:君のまま君の人生を
秋がやってきた。それまでに拓矢は小規模な
「あ、ピアノあるよ、
楽器屋の店頭に置かれたピアノを見て真坂が演奏をせがむ。
「美季さん、記憶の力を安易に使うのは自分と過去の誰かの境界を曖昧にする危険な行為なんですよ」
そう言いながらも、ピアノを
「一曲だけですからね」
鍵盤の前に座り、ベートーベンのピアノ・ソナタのどれにしようかと考えをめぐらせてから頭を振る。今を生きる者として、記憶に浸蝕されないためには別の選曲、記憶の元の持ち主が知らない曲がいいだろう。そう考えて
知っている曲、それもかなり上手い演奏に駅ビルでショッピング中の人々は足を止めて興味を示す。やはり演奏は楽しい。自分の感情を音に乗せて人の心に届けられる、素晴らしいコミュニケーションだ。楽曲が終わり、もう一曲
真坂が拍手をしたため、見知らぬ何人かがつられて拍手をする。うれしい気持ちと、自分本来の才能ではないという後ろめたさと、少しの気恥ずかしさ。
「ちょっと照れてるでしょ」
真坂が冷やかすように肘をちょんちょんと当ててくる。
「美季さんが
少しすねたように言う拓矢を見て、真坂はうれしそうに笑った。
「はい、年相応の本来の拓矢くんの反応いただきましたー」
拓矢と真坂は夏休み明け以来頻繁に会うようになり、今では恋仲だ。拓矢にとって自分の境遇を理解して付き合ってくれる異性というだけでも
ありがたいのは拓矢が拓矢であり続けるため、今のように意図的に本来の彼を引き出そうとしてくれること。真坂と会う時間は拓矢の大切な日常になっている。この温かいものもいつか失ってしまうと思うと恐ろしいが、恐怖は大切だと太一は言っていた。
沢村をはじめとした友人たちからは付き合いが悪くなったと文句を言われているが、恋人ができた者の常なのか、友人とのひと時という魂の
「不安そうな顔してる。ハグいる?」
「こ、こんな人が多いとこじゃ恥ずかしいですよ!」
「人が少なかったらいいんだ?」
いたずらな笑顔を浮かべて顔を覗き込んでくる真坂に対して、やっぱり好きだな、と拓矢は思った。
四年後。
ヒーローとして、誰彼かまわず人助けを続けたにしては長生きできたと思う。拓矢の中でずっと色
今しがた砕かれた障壁を張り直せば、大切な恋人への感情が失われる。このまま大技を使っても同じ。最後に残された魂の
「葉山くん、もう無理なら離脱してくれ! あと一息で倒せる、私たちだけで大丈夫だ!」
そう叫ぶ抵抗者も自我はぼろぼろだろう。
「ヒーローが仲間を置いて逃げると思いますか?」
脳裏に愛する人の悲しむ顔が浮かぶ。でも仕方がない、こんな状況で帰ったら、何かの拍子に意志が弱れば、自分はやってしまうだろう。大切な人の腹を裂くという凶行を。お預けをくらい続けたご馳走にようやくかぶりつけるというわけだ。
たかが一瞬の想像ですら心が揺らぐ。やはり、もう自分は日常に帰れないようだ。なら、することはひとつ。ヒーローとして死ぬ自分の魂の輝きが、あの日見た太一のものと比べてどう見えるか、それを楽しみに花と散るしかない。
「拓矢さん、ダメです、無茶です!」
後輩の声を無視して体に雷電をまとっていく。
「キミは真似したらダメだよ、ヒーローなんて、なるもんじゃない。沢山の人を救えるかもしれないけど、一番大切な人を泣かせることになるんだ」
稲妻となって駆ける。
死を通過点としか思わないお前たちにはくだらないことなのだろう、生きた証を刻むために死に向かうこの複雑な心境は。これこそが愛すべき人間という存在のあり方。魂を輝かせるもの。そうか、わかりました師よ、なぜあなたが姿を消したのか。
青白い電光となった拓矢の体はまるで、分身でもしているかのように残像を生じさせ、千の刃を敵に叩きこむ。その光景はまるで大輪の華。覚知者の障壁が割れ、肉体にトドメが刺される。淀んでいた魂も、この時ばかりは花火のように輝く。それをひねり潰して、拓矢は微笑を浮かべた。ああ、これだからやめられない。
後輩抵抗者が必死に名前を呼びかけてくるのが少々わずらわしい。せめてもの情けとして、彼女をこの場で切り裂くのはやめておこうと思っている。生かしておけば、自分の魂に磨きをかけて、いずれ目の前に立ちふさがってくれるかもしれない。それは、なんと素敵なことだろう。魂の輝きも格別に違いない。
「期待しているよ」
拓矢だった
彼は思う。さて、今後はなんと名乗ろうと。本来の自分の名前は思い出したが、それを公言すればシャーロック・ホームズのように寄ってくる面倒な敵が増えそうだ。やはり、ジャック・ザ・リッパーで通すのがいいだろうか。
二十年にも満たない生を燃やしつくした葉山拓矢はヒーローとして散った。真坂にはそのように先生から伝えられる。彼女は涙をひとつこぼしてから、こう言った。
「彼は自分の人生を生きて、彼らしく死ぬことができたんです。私の涙ひとつで、多くの命が救われたんですよ」
先生は眼鏡を直すふりをして、表情を隠した。
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