23:いざという時は

 翌日、午後一番に太一は寝不足と胃もたれに悩まされながら蘭の会計事務所を訪れた。

「ちっす」

 顔色の悪い太一を見て蘭は眉間にシワを寄せる。

「あのね、太一くん。今日が決戦かもしれないのよ? わかってる?」

「勘はにぶっちゃいねっすよ、十中八九、今日っす。サン・ジェルマンは動くっす」

「なら、どうしてコンディションを整えないのよ!」

 声を荒げてしまったのは、彼が死ぬ前にベストをつくそうとしていないように見えたからだろうか。思えば太一にはいつも怒ってばかりだ。

「最後だと思ったら、さすがに平静じゃいられなかったっす」

 しおらしい様子に二の句が継げなくなる。

「寝不足だけ? 二日酔いとかは?」

「や、酒は飲んでねっす、ちょっと夜中に食いすぎて胃もたれしてるっすけど」

 怒りの仮面は外さずに、事務所に常備してある胃薬を取り出す。

「これ飲んで、そこで寝てなさい」

 そっけない態度にも太一は笑顔で感謝する。

「ありがたいっす。お言葉に甘えてソファ借りるっすね」

 自分の家で寝ろとは言わない。きっと、彼なりに最後に残された時間を有意義に使いたいのだろう。それが、この事務所で過ごすことだと思うと、怒るに怒れない。

「んじゃ、おやすみっす」

「おやすみなさい」

 すぐにイビキが聞こえてくる。普通に仕事をしている日だったら叩き出すところだが、今は大して気にならない。

「私たちって、変な関係よね」

 もちろん眠っている太一からの返事は無い。

「戦友って言うのかしら。弟みたいに思ってるっていうのも違うし、異性としてはどうでもいいし」

 本当にそうだろうか。蘭はよく、普通にしていても怒っているのかと尋ねられるほど目つきが悪い。しかし、実際には温厚で、声を荒げることなど滅多にない。太一に対して以外は。

「どうして太一くんに対しては沸点低くなるのかしら」

 好きな異性につい意地悪してしまうほど若くはない。だから恋愛感情とは違う。むしろこれは、家族と思えるほどに気を許している証拠なのではないだろうか。怒鳴ろうと、癇癪かんしゃくを向けようと、相手は離れていかないという甘え。そんな考えが浮かび表情を曇らせる。

「否定しきれないわね……」

 どうやら、弟みたいに思っているのではなく、弟として扱っていたらしい。途端に、自分がこれまで醜態をさらしていたのではないかと不安になるが、それを言うなら太一も太一だと気付く。今日だって、蘭に怒られるのが間違いないというのに、わざわざ寝不足顔でここにやってきた。

「叱られたかったってわけね」

 姉と弟というより母と息子なのではなかろうか。十歳も違わないというのに。

「お互いに甘えてる関係だったのね」

 小さく息を吐いてから、真剣な表情になる。

「そういうことなら、姉でも母でも、最後まで面倒見てあげるわ」

 しばらく太一の寝顔を眺めてから、出かける準備をした。


 午後もだいぶ時間が経過し、夕刻が近付いてきた頃合い。鶴田が勤める法律事務所の入口。建物から出てきた彼は、壁にもたれかかって空を眺めている蘭を見つけてぎょっとした。

「経堂さん、用があるなら事務所まで来てくれれば飲み物ぐらい……冷房も」

「仕事は自分が自分であるための大切な日常よ」

「気を使ってくれるのはうれしいが、今日か明日には決戦になると聞いている。日陰とはいえ、炎天下で待っていては疲れるでしょう」

 鶴田は自分の職場を教えていない。秘術を使わなければ蘭はここに来られなかったはずだ。秘術の濫用らんよう覚知者リベレーターへの道、わざわざそこまでして会いに来たのだから、大事な用があるのだろう。

「そうね、暑いし、喫茶店にでも入りましょう」


 夕方の喫茶店は思ったよりも混雑していた。がやがやと人の会話が重なり、スピーカーから流れる静かな音楽と混じり合っている。二人はブレンドコーヒーを注文した。

「ゆっくり飲むにはアイスよりホットよね」

「代金は私が持つ、冷たいものも頼んでは?」

「いいわ、空調が利いてるからそれで充分」

 蘭がなかなか本題を切り出さないので、話しにくい内容なのだろうと察した鶴田は、雰囲気をやわらげるために世間話を始めた。仕事でよくやることだ。

「この前、知り合いがタヌキに遭遇したと言ってきてね。もちろん、都心ではなく郊外で」

 蘭は目つきがあまり良くない。突然タヌキの話を始めた鶴田をいぶかる目は、まるで不真面目な話を非難しているように見える。

「タヌキはね、あ、人間だ、とでも言うように立ち止まったそうだ。知り合いも突然の野生動物を前にして、思わず歩くのをやめて凝視してしまったらしい」

 コーヒーがテーブルに運ばれてくる。

「少し見合ってから、タヌキはあわてて逃げようとするんだが、猫のように機敏にとはいかず、生け垣に阻まれ、進入できる場所をもたもたと探してから逃げていったそうだ」

 蘭はタヌキのどんくさい様子を想像してふっと微笑んだ。

「オチは特になくて申しわけないが、大事な話の前にどうでもいい話をしておくと、肩の力が抜けるものだ」

「なるほど、気を使わせてしまったみたいね。ええ、大事な話があるの」

「聞こう」

 蘭が再び表情を硬くする。

「次の戦いで、きっと太一くんは死ぬことを選ぶわ」

覚知者リベレーターになるぐらいなら、という話だね」

「ええ、場合によっては、私がトドメを刺すように、頼まれてる」

「それは……つらい役目だな」

 蘭は目を伏せる。

覚知者リベレーターとの戦いは甘いものではないから。太一くんの最後の時に私が動けるとは限らない」

 そう言って、ハンドバッグとは別に持っていた紙袋をテーブルに乗せる。菓子折りが入っていそうな紙袋だ。

「これを持っていって。幻視ヴィジョンに入ってから開けてちょうだい」

「中身は?」

「ナイフ。弁護士に銃刀法を破らせるのは申しわけないけど。鶴田さん、人を傷付けられる秘術は使えないでしょう? 遺物も使い方がわからないし」

 殺人教唆きょうさ嘱託しょくたく殺人。頭が痛くなる。秘術によって強化された身体能力でなら、技術はともかく、腕力によってナイフを突き立てることぐらいできるだろう。

「正直、冗談ではないと言いたいところだが、キミにやらせるぐらいならとは思う。長い付き合いなんだろう?」

 ずしりと実際の重量以上に重さを感じる紙袋を受け取り、自分のとなりの椅子に置く。

「知り合って二年だけど、抵抗者にとっては短くないわね。でも、私が秘術でやった方が苦しませなくてすむから、それはあくまで保険」

「わかった」

 言葉を続けられず二人の間に沈黙が広がる。喫茶店内は変わらず人の声がとぎれないが、このテーブルだけ静寂に閉ざされているようにすら感じられた。だが、それもつかの間。周囲のガヤガヤが、一気にうるさいレベルにまで引き上げられる。

「予報士の警告が間に合わなかったわね」

「直前ではどのみち、だろう」

 喫茶店だった場所はロンドンのパブに変貌していた。小汚いテーブルにはさっきまで飲んでいたコーヒーの代わりに陶器のジョッキに入った黒ビール。

「太一くんに念話を飛ばすわ、幻視ヴィジョンの中で繋がるかは保証できないけど」

「先に店を出て様子を見ておく」

 鶴田がパブを出て、まず目にしたのは百メートルほど上空に浮かび、夜闇を照らす光の球体だった。直径は四メートルぐらいだろうか、バチバチと帯電しているように明滅、煤煙によって虹の輪ができている。通行人たちはそんな異様な物体に気付いていない。となれば、あれがサン・ジェルマン伯爵の秘術実験の産物だろう。鶴田は紙袋の中の箱から、刃渡りのあるナイフを取り出し、つかを握りしめた。

「探す手間が省けたわね」

 そう言いながら遅れて出てきた蘭は、行きましょうと球体の真下を目指して歩き出す。

「位置的にはフレンズ・ベリアルグラウンドの上空か」

「墓地ね。相変わらずの悪趣味。太一くんとは現地合流になりそうよ」

「ドーセット・ストリートを抜けるのが早そうだ」

「先に到着したらサン・ジェルマンの長話に付き合って太一くんの合流を待つわよ」

「了解した」

 二人は雷光に照らされた不気味なロンドンの街を走り出した。

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