19:愛すべき日常

 ロンドンの幻視ヴィジョンの後、駅まで鶴田に送られてから、まっすぐ家に帰った拓矢は母親に出迎えられていた。

「遅かったわね、終業式だからって友達と遊び回ってたんでしょ」

「あ、うん、ごめん、盛り上がっちゃってさぁ」

 適当に話を合わせて自室に戻ると冷房をかけてベッドに倒れ込んだ。

「つかれた……」

 遺物の指輪をつまんで眺める。夢でも見ていた気分だ。実際、地球の見る夢の中にいたのだから、それでも間違っていないのかもしれないが。

 父親が帰ってきた物音がする。夕飯にしようという声がかけられ、疲れた体を起こしてダイニングに移動する。夕飯のメニューは共働きの母親が時短で作れる、そう手間のかかっていないものだ。鶏もも肉とセロリのニンニク醤油炒め、お湯で溶かすだけの味噌汁、値引きシールの貼られたキャベツの漬物。この葉山家の家庭料理こそ拓矢の日常の象徴と言える。

「いただきます」

 危険な目に遭ったからこそ、日常の幸福をありがたく感じる。両親がいて、温かい料理を作ってもらえて、心が癒やされていく。ニンニク醤油の利いた鶏肉とセロリを噛みしめ、白いご飯を堪能し、良い香りの味噌汁をすすってキャベツの漬物を口に入れる。

「おいしい。いつもありがとう」

 普段なら照れくさくて言えなかったことだけど、こういった気持ちを伝えるのは大切だろう。母親も父親も驚いた顔をしている。

「いいじゃん、感謝の言葉は何回言ってもいいんだってよ」

「うん、それはそうだし、うれしいんだけど……」

 母親が首をかしげる。

「文句言われると思ったからびっくりしちゃった」

「文句なんて……どうして?」

「セロリ、安かったのよ」

 歯ざわりと鼻に抜けていく香りがとても美味しい。何が問題なのだろう?

「美味しいよ?」

「そうか、拓矢も大人になってきてるんだな。好き嫌いを克服していくのはいいことだ」

 うんうんと父親がうなづく。好き嫌いを克服していくという言葉で、そうかと気付いたことがある。まったく記憶にないが、どうやら自分はセロリが嫌いだったらしい。

「嫌いなセロリ出す代わりにと思ってデザートに牛乳寒天買ってきたんだけど、必要なかったわね」

 母親はうれしそうに微笑むが、拓矢の心にはヒヤリとしたものが差し込まれる。牛乳寒天という食べ物を思い出す。砂糖で甘くした牛乳を寒天で固めたもの。缶詰のみかんも入っていることが多い。少なくとも、いつも母親がスーパーで買ってきてくれるものはそうだ。確かにしょっちゅう食べていた記憶はある。思い出す限り、美味しかったはずだ。でも、何か胸騒ぎがする。

 夕飯を終え、母親が牛乳寒天を皿に盛ってくれた。見覚えのある、いつものそれだ。スプーンを入れ、すくって口に運ぶ。甘い。牛乳の香りが鼻を抜ける。美味しいと言えば美味しいが、出されたら食べるという程度のものでしかない。先ほどの母親の言葉では、嫌いなセロリを食べさせる代わりに用意したものらしい。つまり、拓矢の好物だと推測できる。

「美味しいね。……ねぇ、変なこと聞くけど。僕、これどのぐらい好きだった?」

「え?」

「ちょっと確認したくて」

「おいおい、大きいパック一人で食べて、夕飯これだけでいいなんて、何回も言って怒られてただろ」

 父親の困惑した言葉で確信に変わった。食べ物の好き嫌いが無くなっている。色んな食べ物を思い返してみるが、食べたくないものも、いくらでも食べたいものも、どちらも思い浮かばない。

「そっか、僕、好き嫌いなくなったかも」

「子供って急に大人になるものなのね。高校生ってそういう時期なのかしら」

「これで偏食に悩まされなくていいな」

 うれしそうに笑う両親に対して愛想笑いを浮かべる。偏食に悩まなくていい。つまり自分は好き嫌いが激しかったのかと、他人事のように思った。他人事のように。それはつまり、自分のことではないように感じられるということだ。自分を自分たらしめている要素を失うというのは、こういうことかとに落ちた。

 以前の拓矢なら、たとえば記憶に乗っ取られている時にセロリや牛乳寒天を口に放り込まれたら、その好き嫌いによって自分が葉山拓矢だと思い出したのかもしれない。ぞっとした。こうやって、少しずつ、自分が自分ではなくなっていくに違いない。そのことを忘れないように、甘い牛乳寒天を一口一口大切に味わって食べた。


 翌日、朝食を食べていると携帯電話に着信があった。見れば沢村からの連絡。今日二人で遊びに行く予定のゲームセンターに偶然、他のクラスメートたちも行く予定が重なっていたことがわかったらしい。クラスの三分の一ほどで一緒に遊ぶ形になるそうだ。昨日の拓矢の体調を気遣って、問題が無いか確認の連絡のつもりらしい。やはり沢村は良い友人だ。むしろ歓迎だと返信する。

 そうして、午後になり待ち合わせの時間より少し前。ゲームセンターの前でぼんやりと食べ物の好き嫌いについて考えていた。こういう待ち合わせの時、拓矢は遅刻しないよう早めに行動するのが常だ。どうやら、その自分らしさは失っていないようだと気付いてホッとする。

「葉山くん、早いね」

 声をかけてきたのは木崎きざき叶実かなみ。普段制服姿しか見ないクラスメートの私服というのは新鮮に映るものだ。

「僕はいつも何か集まる時は早めに出るんだ。木崎さんも早いね」

 心の中で切り裂きジャックが腹を裂けとささやいてこないことにホッとする。

「昨日、具合悪そうだったけど、もう大丈夫なの?」

「うん、しっかり寝たから、もう大丈夫」

 試験勉強のための寝不足。そういうことにしておかないと、みんなに余計な心配をさせてしまう。

「頑張るのもいいけど、本末転倒にならないようにしないとね」

「そうだね」

 日常を守るために戦って、日常との繋がりを失う。本末転倒なのが抵抗者なら、自分はこれからどうすれば良いのだろう。そんなことをぼんやり思いながら、当たりさわりのない会話を続ける。

「暑いね、夏休み始まったんだーって感じ」

「東京の夏って暑すぎるよね」

「そうそう、私のお母さんの実家に行くと、気温変わらないのに感じる暑さ全然違うんだよね」

 クラスメートとの会話。これこそ日常。あのロンドンから戻ってこれたことを実感する。

「あれ? 集合時間過ぎてない?」

 言われて時計を見ると、確かに五分ほど過ぎている。しかし、誰からも遅れるという連絡はない。

「遅れるって連絡は来てないよ」

「私の方も」

 拓矢は周囲を警戒する。幻視ヴィジョンの中では時間が狂うということを学んだばかりだ。気付かないうちに巻きこまれていないだろうか。セミの鳴き声がうるさい。よく見慣れた繁華街を、ごく普通の現代日本人たちが行き交っている。異変は見当たらない。ジャックが騒ぐこともなく、新たに何かを思い出すこともない。

「もしかして私たちだけ時間、間違えた?」

「え、そんなことある?」

 携帯電話を確認する。沢村と約束した日時は合っている。そこにタイミング良く沢村から着信。みんな少し遅れるという文面。

「みんな少し遅れる……みんな?」

「私の方も、みんな少し遅れるって、あ」

「ええ、どういう状況なのさ」

 困惑する拓矢だが、木崎は何かを察したらしく、そわそわしはじめた。

「木崎さん? あれ? 顔少し赤いよ、熱中症になりかけてるのかも、先にゲームセンター入ってて、飲み物買っていくから」

「え、熱中症とかじゃないよ、大丈夫!」

 木崎はあわてて首を振る。

「葉山くん、何も聞いてない? みんなが遅れるって」

「ううん、今連絡来たとこだけど……木崎さんにも同じタイミングで来たんだよね。何かあったのかな」

 駅の方向を見る。ホームで事故などがあったなら、電車が止まって全員降りられないということもあるかもしれない。

「電車止まったとか?」

 言いながらニュースサイトを開いてみる。

「たぶん、違うと思う」

 木崎の言う通り、遅延情報などは出ていない。

「違うと思うって、何か心当たりあるの?」

「葉山くんは無いの?」

 拓矢は首をかしげる。木崎の言いようでは何かを見落としている可能性がある。真剣に可能性を考えているその姿を見て、木崎はふふっと笑った。

「誰か勘違いしたみたいだね」

「勘違い?」

 ますますわからない。

「私と葉山くん、どっちかが相手のこと好きなんじゃないかって思った誰かが、私たちを二人っきりにしようと企んだんだと思う」

「ええっ?」

 そんなこと言われてしまうと、さすがに少し意識してしまうが、それを言うということは木崎は拓矢に対して恋愛感情を抱いていないのだろう。

「ごめん、全然気付かなかった……って、違うよ? 木崎さんを悪く思ったりしてないからね? 同じクラスの友達として――」

 木崎が笑い出すものだから、拓矢は言い訳を並べるのをやめた。

「ごめんごめん、私の方も、葉山くんにマイナス感情なんて無いから安心して。でも、誰だろうね勘違いしたの」

「これだけは言っておくね、木崎さんは魅力的な人だよ」

 自分に似合わない、呆れるほどキザなことを言ったと、すぐに後悔する。

「ありがとう、葉山くんも、アリかナシかで言ったらアリだよ」

「ありがとう、危うく黒歴史作っちゃうとこだった」

 木崎が笑う。拓矢も笑う。ちょっとしたことで笑い合える友達がいる幸せが心を暖かくした。

「それじゃあ、勘違いしたの誰って送っとくね」

「あ、僕も沢村に送っとく」

 送信後、三分もしないうちにすぐ近くの角からガヤガヤとクラスメートたちが現れた。

「倉田お前、葉山が木崎好きって言い切っただろ!」

「沢村くんがそうかもって乗り気だったし!」

「あれー? そんな雰囲気だったんだけどなぁ」

 一気ににぎやかになるゲームセンター前。木崎がクラスメートたちに向かって腕を組む。

「怒らないから出てきなさい、誰の計画?」

 昨日の恐ろしい体験が嘘のように楽しい夏休みのはじまり。あわてふためく友人たちを見て、拓矢は存分に笑った。


 二人っきり大作戦が失敗したあとは予定通り全員でゲームセンターに入った。沢村が拓矢に耳打ちする。

「葉山、本当に木崎に惚れてなかったのか? 俺たちはてっきり……」

「いいよ、僕も木崎さんも普通に仲いい友達だって確認できて楽しかったから。まぁ、二人っきりにして仲良くさせようという意味では失敗じゃなかったんじゃないかな」

「なんか、急に大人っぽくなったな、お前」

「え、そうかな?」

 疑問で応えはしたが、自分の境遇が幸福だと悟り、それを受け入れて楽しもうという姿勢は、確かに大人びた態度かもしれないと拓矢は思った。

「次! 葉山を指名する!」

 リズムに合わせてダンスのステップを踏むゲームをしていた友人が、急に名指しをしてきた。どうやら、順番に次のプレイヤーを指名していく遊びを始めたらしい。

「えー、みんな見てる前でやるの緊張しちゃうな……」

 そうは言いつつも、せっかくの楽しい時間。存分に遊びつくさなければとゲームの筐体きょうたいに乗る。

「頑張ってー葉山くーん」

 料金を入れ、音楽がスタートする。元々、得意でも不得意でもないゲーム。逆に言えば、格好良くキメることも、大失敗して笑いを取ることもできない、中途半端さを発揮することだろう。そう思っていたのだが――

「まじか葉山……」

 体のキレが良い。軽やかに思ったように動くし、画面に表示された指示に従う反射神経も抜群。つまるところ、秘術によって強化された体はゲームを簡単に攻略してみせた。

「嘘だろ、葉山にこんな才能があったなんて」

「えー、カッコいいじゃん!」

 実力ではないことに後ろめたさを感じつつも、悪い気はしない。

「じゃあ、沢村を指名!」

「今のスーパープレイの後にやらせるなんて鬼か!」

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