17:シャーロック・ホームズ

 鶴田は全力で駆けた。ガス灯の下で剣を手に真坂へと歩いていく拓矢から不吉なものを感じたためだ。直感は当たり、拓矢の腕は剣を振るう予備動作をとる。

「目を覚ませ葉山拓矢!」

 全力で腕を掴む。

「邪魔をされるというのは本当に不愉快だ」

 一言、そんな言葉を吐いてから、拓矢は気を失いその場に倒れた。鶴田があわててかかえ起こす。

「ナニがあったっすか?」

 いそいで駆け寄った太一は真坂にたずねた。

「ナイフを持った男の人が現れて、拓矢くんと戦ってたんだけど、急に戦うのをやめて……」

「逃げたジャックがこっちに来てたっすか。オレの読みがハズレて申し訳ねっす」

「あ、そうだ鶴田さん、ありがとうございます。約束、守ってくれて」

 真坂は深々と頭を下げた。

「キミと、拓矢くんを救えたことは、純粋に誇らしく思う。間に合ってよかった……」

 周囲を警戒していた蘭が、急に顔をしかめて額をおさえた。

「ランさん、何か思い出したっすか?」

「ジャックが男? じゃあ、この記憶は何? ああ、いえ、でも、それじゃあどうして……」

「落ち着くっす。記憶は記憶っす。過去の誰かの体験にすぎねっす」

 こつ、こつ、こつと石畳に杖をついてを歩く靴音。

「切り裂きジャックは半覚醒者と交戦して逃走。私の追跡から逃れるためだろう」

「アンタ、誰っす?」

 現れたのはこの時代の一般的な紳士の格好をした顔色の悪い男性。抵抗者を半覚醒者と呼ぶからには覚知者リベレーターだろう。

「私が誰か、それはキミたちにとって必要な情報だろうか? いや、違う。今の私はどうやら幻視ヴィジョンの住人らしいからね。だとすれば、キミたちがすべきことはキミたち本来の敵を探して討つことだろう」

覚知者リベレーターがまともなことを言うなんて妙っすね」

「見えている階層レイヤーが違うのだから、我々の言葉がキミたちに響かなくとも仕方がない。キミたちも早くこちら側に来るといい。今ある悩みが、いかに無駄だったかを知るだろう」

 紳士は微笑みを浮かべて、知識欲に満ちた瞳を向けてくる。落ち着きを取り戻した蘭が男にたずねた。

「教えて、シャーロック・ホームズ。サン・ジェルマン伯爵はどこ?」

「そうか、キミたちの敵は彼か。未来でも元気にやっているようだね。彼の行動パターンから推測するに……ふむ、キミたちが彼の行方を探しているというのは妙だね。何かイレギュラーでも?」

「名探偵と同じ結論が出せて光栄っす。アンタにもわかんないなら、アンタはアンタの目的、切り裂きジャックを追ってこの場を去ってくれるとうれしいっす」

 シャーロック・ホームズは大げさに、がっかりしたというジェスチャーを見せる。

「三件目の時に取り逃してからというもの、二ヶ月かけて追い詰めたというのに、キミたちのせいでまた逃げられてしまった」

「安心するっす、史実では今日の五件目で切り裂きジャック事件は終わってるっす」

「なるほど、仮初の夢の住人である私には、ジャックの正体を知る権利は無いということか」

 そんな会話をしている間に拓矢が目を覚ました。

「あっ――真坂さん! ごめんなさい!」

 自分が何をしでかそうとしたかはハッキリと覚えている。

「大丈夫、大丈夫。無事だったんだからオッケー」

「ねぇ、拓矢くん」

 蘭がホームズから目をそらさずにたずねる。

「ジャックは男だった? 女だった?」

「たぶん女の人です。見た目は秘術の影響でわかりませんでしたが、声までは変えてなかったみたいだったので」

 そう、と蘭がうなづく。

「シャーロック・ホームズ、切り裂きジャックの正体は聞いての通りよ。十分でしょう? 私たちはサン・ジェルマンとの決戦に備える必要があるの。私たちにかまわず行ってちょうだい」

「キミたちの焦りはわかるよ。私と戦うはめになることを恐れているのだろう、もっともだ。ただ、その情報は私にとって価値が無い。ジャックの体の元々の持ち主が誰かは推理できている。私が知りたいのは覚知者リベレーターとしての彼女が持っている知識だ」

 鶴田がなるほどとつぶやく。

覚知者リベレーターは過去の誰かの記憶に体を乗っ取られた存在。ということは、切り裂きジャックが誰かという問いは意味が変わってくるのか」

「正解だよ、ミスター。おそらく、サン・ジェルマンもジャックの記憶に用があるのだろう。ときにレディ」

 蘭に視線を向ける。

「キミは私の記憶を持っているね? 今の私より先の記憶で、何を見聞きしたのかな?」

「それを話したら、何もせず立ち去ってくれるかしら? ボーディ――」

 蘭の口が影の手でふさがれる。覚知者リベレーターの秘術は抵抗者が使えるものより強力だ。鶴田のそれより力強く、速かった。

「私の種明かしは必要ない。いいね?」

 蘭が何度もうなづくと、影の手は消えた。

「減るものでもないでしょうに」

「キミたちは私の敵ではないが、私の手の内を知る者は少ないにこしたことはない。敵の多い身でね、フィクションの中に隠れなけれならない程度には。そして、今のでキミのブラフは見抜いた。私の知りたい情報をキミは持っていない」

 蘭の表情が緊張に強張る。

「そう警戒しないでくれ。キミたちは私にとって無価値だと言っているんだ。私の記憶を持つキミならわかるだろう、私には虫けらを潰して喜ぶ趣味は無い」

 興味をなくしたと言いたげにホームズはくるりと背を向け歩き出す。ホッとした、安堵の空気が抵抗者たちの間に流れる。しかし、ホームズは思い出したように立ち止まり、振り返る。

「少年。自分の名前は思い出せたかな?」

 何が推理の材料となったのか、拓矢の持つ記憶が切り裂きジャックだろうという洞察。

「僕は、葉山拓矢だ」

 ホームズは苦笑しながら肩をすくめると、今度こそ去っていった。


「だはー! 緊張したっす!」

「かなり強い覚知者リベレーターだったわね。そもそも、記憶の状態で持ち主に正体を意図的に隠すなんて、聞いたこともないわ」

 蘭は身震いした。シャーロック・ホームズの秘密は墓まで持っていった方がいいだろう。正体を黙っている限り、蘭の中の彼の記憶は協力者でいてくれるつもりらしい。

「これで四人の覚知者リベレーターのうち二人、やり過ごせたと考えていいだろうか」

 鶴田の言葉に太一がうなづく。

「そっすね、で、サン・ジェルマンともう一人は互いに敵対してると思っていいっす。こりゃ、ホントに戦わずに終われるかもしれねっすね」

「ところで……」

 鶴田が言いにくそうに言葉を切った。

「どうしたっすか?」

「結局、切り裂きジャックは何者だったのだろうか。その、覚知者リベレーターとしての正体ではなく、この時代の人物として」

 刑事の記憶の影響で連続殺人事件の犯人を知りたくて仕方がないらしい。

「ホームズはわかってたみたいっすね」

 太一は蘭に視線を向ける。

「もったいぶってるわ。さっきの会話で推理に必要なピースは揃っただろうって」

「いや、女性ってことしかわかんねっすよ」

「解剖学の知識や隠密行動、犯行を可能にする要素は覚知者リベレーターだという前提があれば個人を特定するには至らない、むしろノイズだ」

「僕の記憶だと高級な香水をいくつかの中から気分で選んでました。だから身分は低くはないかなって」

「それは初耳だ」

「待つっすタクヤくん。ボクの記憶だとじゃねっすよ、タクヤくんが持ってるジャックの記憶っす、キミ自身の記憶じゃねっす」

 一拍置いて、拓矢があっと自分の間違いに気付く。

「だいぶ浸蝕されてるっすね」

「ジャックの正体を探るのは今はやめときましょう。みんな、自分の意志を強く持ってちょうだい」

 その言葉に呼応するように、周囲の風景が色を失い始める。

幻視ヴィジョンが消えていく……」

「ここで気を抜くと危ねっす。時代を振り払うのに精神力が試されるっすよ。耐え抜けばこの時代の記憶はおとなしくなるっす」

 だが、太一の言う試練のようなものは訪れず、色を失った景色は夕焼けに染まる。慣れ親しんだ東京の雑踏へと帰ってきた。

「あら? ホームズは本当に協力的な態度でいてくれるのね、何も無かったわ」

「オレもオバちゃんの記憶に一切頼らなかったからっすかね、ナニも影響ねっす」

 蘭と太一は鶴田と拓矢の様子をうかがう。

「何かを耐えなければならないような感覚は無かった。何が起こる想定だったんだ?」

「僕もなんともないです。むしろ、落ち着いてるぐらいです」

 太一は首をかしげる。

「えっと、幻視ヴィジョンの時代と場所が一致してる記憶は、オレら抵抗者の中で特に強くなるっす。だからこそ、頭数あたまかずさえ揃えば覚知者リベレーターとも渡り合えるっすけど、その分、幻視ヴィジョンが終わる時、記憶が体を奪おうと浸蝕してくるものなんすよ」

 真坂がにこにこと笑顔を浮かべて太一の肩を叩く。

「まぁまぁ、戦わなくて済んでラッキーだったんでしょ? ツイてる時は、とことんツイてるってことじゃない?」

「そっすね、ポジティブに考えてくのがいっすね。んじゃ解散っす。ツルタさんとタクヤくんは早めに先生から残りのレクチャー受けるっす。マサカさんは二度と巻き込まれないようオレらと関わるの禁止っす」

「ええっ? いやだよ、せっかくお姉ちゃんの手がかりを見つけたのに!」

「そういや、そんな話もあったっすね」

「真坂さん、危険だということは理解できただろう。お姉さんのことは残念だが、忘れてしまった方がいい」

 そんな四人の会話を聞きながら、蘭は考えていた。史実の切り裂きジャック事件は五件目のメアリー・ジェーン・ケリー殺害でおしまい。その後のホワイトチャペルでの事件はたまたま同時期に発生しただけでジャックとは無関係。覚知者リベレータージャックは覚知者リベレーターホームズに葬られ、一件落着。それでいいはずだが、何かが引っかかる。

「とにかく帰るっすよ、ランさん、ナニ考えこんでるっすか?」

「まだ考えがまとまらないわ」

「ホームズの記憶のことっすか? あんま意識してると乗っ取られるっすよ」

「いえ、そうじゃなくって……ううん、そうね、幻視ヴィジョンは終わり。私たちは日常に帰る。被害は無し、というわけでもないか、拓矢くん」

「はい、なんですか?」

 緊張から解放された無邪気な顔がそこにはある。

「ジャックと戦って、たくさん意志を削られたと思うの。あなたにとって大切なことへの愛着や記憶がいくつか消え去ってると思うわ」

「日常に繋ぎ止める鎖という話、ですか?」

「そう。安心してるところに水を差すようで悪いけど、覚悟はしておいて。きっと、気付いた時にショックを受けるから」

「わかり、ました……」

 実感は無いが先輩抵抗者が言うのだから、その通りなのだろう。自分を自分たらしめる魂のくさび。自分にとってのそれは、どんなものなのだろう?

 拓矢の不安をよそに、真坂が鶴田に宣言する。

「私、あの辺りの弁護士事務所に片っ端から当たって鶴田さん探すから!」

「やめてくれ、次また何かあって、その時も守れるとは限らない」

「それだけじゃねっすよ、幻視ヴィジョンに巻きこまれると記憶を得る可能性があるっす。抵抗者の仲間入りは悲劇の入口でしかねっす」

「でも、力があればお姉ちゃんを探す手がかりだって得られるわけでしょ?」

 どうやら彼女は首を突っこむのをやめる気はないようだ。

「ほら、帰るわよ太一くんも鶴田さんも。自分から危険に足を踏み入れる馬鹿な子は放っておきなさい」

 こうして、サン・ジェルマン伯爵が幻視ヴィジョンとして再現したホワイトチャペル殺人事件は幕を閉じた。

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