16:ジャック・ザ・リッパー

 一方、通りに残された拓矢と真坂。

「拓矢くんは何年生? その制服見たことある」

「えっと、高校一年生です」

 拓矢は落ち着きなくそわそわしている。先ほど抱きしめられたことを意識しているからではない。記憶の中のジャックが、この女の腹の中を見てみたいだろうとしきりにささやいているからだ。平静を装うのに苦労していた。

 手に持つ刃の鋭い輝き。それを彼女の喉に向けて振るイメージがちらちらと脳裏をかすめる。

「怖くないんですか? 僕の中には殺人鬼がいるんですよ」

「よくわかんないけど、さっきは怪物からみんなを守るために戦ってくれたでしょ?」

 さすがに、今まさにあなたを殺したい衝動に駆られているとは言えない。

「そんなに単純な話じゃないんです」

「たしかに私は一般人で部外者だけど、馬鹿じゃないつもりだよ。みんな、他の誰かに意識を乗っ取られそうになったりしてるんでしょ?」

「はい、僕はそれが切り裂きジャックなんです。急に意識を乗っ取られて、真坂さんを襲うとは思わないんですか?」

「大丈夫だよ、さっき、ちゃんと元に戻ってくれたでしょ?」

 向けられる信頼が痛い。拓矢は自分の意志を信用しきれない。衝動に抗い続けるのが苦痛だ。

「念のため、離れててください」

 目をそむける。その拍子に動く影が視界に入った。どこから現れたのか、人だ。

「奴が来たかと思えば半覚醒者が群れて何をしている」

 拓矢にはわかる。この人物がジャック・ザ・リッパー、自分の中にある記憶の人物だ。しかし、その姿はまたたきをするたびに変わる。壮年の紳士、若い女性、拓矢そっくりの姿、太った青年。相手の認識に合わせて見える姿が変わる秘術だと直感は告げている。神出鬼没の殺人鬼は徹頭徹尾、正体不明のようだ。だが、声は女性のもの。

「用があるのはあなたじゃない!」

 拓矢は震える声で言い放ち、剣を構えた。恐怖が心を染めていく。

「私は今、邪魔をされて不愉快なんだ。刃を向けるのであれば覚悟ができているとみなす」

 強風が吹いた。それがジャックが駆け抜けたことによる風圧だと気付いたのは、後頭部を地面に打ち付け、空を見上げていることを自覚した時だった。煤煙で曇った空に月が透けて見えた。月光は屈折し、円形の虹を映し出している。ジャックの持つナイフは拓矢の首に当たった。秘術の障壁は命を守ってくれたが一撃で壊れ、体が引き倒されたのだと気付く。

 トドメを刺そうとナイフが振り下ろされる。拓矢の動きでは剣で受け止めるのは間に合わない。だから、再び秘術の障壁を張るしかない。間一髪、ナイフは喉に突き立てられるが障壁がそれを止め砕ける。一瞬を突いて拓矢は転がり、追撃を避けて再度障壁を張った。立ち上がろうとしたところに刃が迫る。まったく動きに対応できていない。一方的にやられるばかりだ。障壁が砕け、次の攻撃が来る前に張り直す。このリズムが崩れた時、ジャックの刃は拓矢を切り裂くだろう。死と隣り合わせの感覚に余計なことを考えるひまはかけらも無い。防戦一方と言うのもおこがましい、意志を削り続けられるだけのサンドバッグ。

 何度目の衝撃だろうか、それまでと感触が違った。急所ではなく腕で受けたのだ。認識と同時に秘術の稲妻が走る。ジャックと比べて遜色そんしょくのない速度で体が動き、ナイフと剣が打ち合わされる。

「これは……!」

 ジャックが驚いて距離を取った。その隙を見逃さずに拓矢の体は動き、剣を敵の喉にすべり込ませる。障壁に阻まれた堅い感触。そこから何度か打ち合ったところで、動揺から脱したジャックが再び優勢となる。今度は拓矢の方から距離を取って守りの構えを見せた。いつの間にか、ころころと姿を変えていたジャックの見た目は拓矢と同じ容姿で固定されている。

「そうか、お前は私か、面白い」

「面白いものか、無意味な戦いだ」

「ああ、まったくもってバカバカしい」

 ジャックが無造作にナイフを持った腕を下げる。拓矢も構えを解いた。自分同士の会話はそれっきり。

 ミラーズコートの方から抵抗者たちの話し声が聞こえる。ふたりは同時に舌打ちをした。拓矢ではないほうのジャックがゆらりと歩き出し、そのまま闇の中に消えていった。

「た、助かったぁ!」

 恐怖に身をすくませ、立ちつくしていた真坂が大きな声を上げる。そんな彼女にジャックである拓矢は機嫌の悪そうな表情を浮かべたまま近寄っていく。

「ハグいる?」

 屈託のない笑顔。その腹の内が見たい。


 叫び続けていた。嫌だ、嫌だ、嫌だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ。拓矢の意志に反して体は動く。抵抗できないのも無理はない。障壁を張り直す秘術は負荷が大きい。何度も立て続けに行使したことで、拓矢の自我はズタズタだ。蘭の言っていた日常へと繋ぎ止める鎖をいくつ失っただろうか。剣をくるりと回し、真坂の首を狙って振り抜こうとしたその手が、強い力で掴まれる。

「目を覚ませ葉山拓矢!」

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