3:ホワイトチャペル殺人事件

 保健室の白いベッドで横になっている間に拓矢の気持ちは落ち着いていった。正確には冷めていった。殺人鬼が生まれ変わったのが自分。そんなこと、事実として受け入れられるわけがない。凍えるような恐怖心に体の芯が氷のようだ。いつの間にか担任の教師の岡本がベッド脇に来ていたが、それに気付けないほどに心が冷え込んでいた。

「葉山、安心しろ、テストは終わりだ、しっかり解答できてたぞ。調子が良くなったら家に帰るんだ、あと、明日あたり、病院に行っておけ」

 病院と聞いて思い浮かぶのは精神科。実際にどんな場所なのかを拓矢は知らないが、おそらく自分は狂ってしまったんだと妙に納得する。そうでなければ、好きな女の子の腹を裂いて内臓を見たいなんて思うわけがない。そう自分に言い聞かせた。しばらく肩を震わせていたが、終業式が終わったのか、沢村が保健室にやってくる。

「帰れそうか? 送っていくぞ」

 沢村の家は拓矢の家とは反対方向だ。

「それは悪いよ」

 意外なことに普通に声が出せた。少し震えてはいたが。

「そんな青い顔した奴、放っておけるかよ。ってゆーか、岡先おかせんどうしたんだよ、担任のくせにこんな具合の悪そうな生徒放置かよ」

「テストの採点もあるし、いそがしいんだよ」

「救急車呼ぶか!」

「やめてよ、学校に救急車とか事件だよ」

 馬鹿みたいな会話。拓矢は我がことながら、そう思うと同時に笑いをこらえきれず吹き出した。笑いながら、日常が戻って来るのを感じる。同時に体の震えもおさまり、大きく息を吸って吐く余裕が生まれた。深呼吸ひとつで先ほどまでの狂気が嘘のように散っていく。もう大丈夫だ、自分は葉山拓矢だ、そう自信を持って言える。

「ありがとう、笑ったら元気出た。持つべきものは友達だね」

「へへっ、そういうこと面と向かって言われると照れるな」

 ベッドから体を起こして靴を探す。ベッド脇に揃えてあるのを見て、足を入れ、立ち上がった。自分が葉山拓矢であると、強い意志を持っている限りは大丈夫。こうして両足で立つことができる。根拠は無いが、そう信じるだけで力が湧いてくる気がした。

「もう大丈夫。ひとりでも帰れるよ」

「でも、昨日の今日だ、病院で検査してもらってこいよ」

「その前に父さん母さんに、どう説明しようかな」

「テスト中に倒れたとか?」

「倒れてないし、テスト中じゃないって。でもまぁ、説明するなら近い内容にはなるのかな」

 そんな話をしながら保健室を出て教室へ向かう。そうして、カバンを持ってゲームの話をしながら学校の外へ。

「だからさー、対空防御マックスで……おっと?」

 沢村の携帯電話が着信音を響かせる。

「わりぃ、ちょっと電話」

 あー、はいはい、電話に出た沢村は、そんな気安い受け答えをする。おそらく家族からの連絡だろう。

「えー、友達が具合悪そうで送っていきたいんだけど」

「え、もう大丈夫だって!」

 拓矢は思わず大きな声を出してしまった。電話の向こうにも聞こえたらしい。沢村は、わかったわかったと言って電話を切る。

「親に買い物頼まれちまったよ」

「あ、ごめん、もしかして断るために送るって言った?」

「いやまぁ、それも無いとは言わないけどさ、本当に送ってかなくて大丈夫か?」

「もう大丈夫だと思う」

「そっか、じゃあ店寄ってくから、またな、明日無理すんなよ」

 夏休みの初日、明日は一緒にゲームセンターに遊びに行く約束をしている。

「うん、ありがとね、無理そうだったら連絡する。じゃあ」

 駅前の繁華街で手を振って別れる。ひとり雑踏を歩くうちにテムズ川のドブ臭い匂いがただよってきた。視界も白くけぶっている。これだから川沿いは歩きたくないんだ、そう思ってから拓矢は、はたと気付く。また、あの白昼夢だ。周囲の風景はロンドンに変わっていた。


 拓矢はまず、自分の姿を確認する。下を向けばワイシャツと制服のズボン、スニーカーが見える。手も見慣れた自分のものだし、いつものカバンも肩からさげている。自分で自分の顔こそ見えないが、間違いなく自分、葉山拓矢だ。それを確認し終えて勇気を振りしぼる。見たところ、今いる場所はイーストエンド。ロンドンの中でも治安の悪い地域だ。ひとつ深呼吸したあと、拓矢は歩き出した。この現象が一体なんなのか、正体を突き止めるために。

 行き交う人の多い大通り。日雇い労働者や浮浪者が歩き回り、道端では物乞いが座り込んで眠そうな顔をしている。地下鉄の時と同様に、拓矢の服装を見ても奇異に思う者はいないようだ。

 人の群れに混ざって歩いていると、立ち話をしている二人組の労働者の会話が耳に飛び込んできた。

「またホワイトチャペルで娼婦が殺されたってよ」

「最近多いよな、娼婦殺し」

 会話はもちろん英語だが、今の拓矢には母国語同然に聞き取れる。ロンドン訛りがきついにも関わらず、リスニングテストの現代アメリカ英語とは比べ物にならないほどわかりやすい。そんなことよりも、娼婦が殺されたという点が気になった。あまり思い出したくないが、前世の自分が殺したのも娼婦だったからだ。拓矢は意を決して話しかける。

「殺された人の詳しいこと、知ってますか?」

 流暢なロンドン訛りの英語が自分の口から出るのが不思議だった。

「ああ? たしか、アニーとかそんな名前じゃなかったかな」

「一週間前の事件と同一犯じゃないかって」

「それを言ったら、ここ最近のホワイトチャペルの事件は連続殺人じゃないかって話だぜ」

「おっかねえよな、殺人鬼。娼婦狙いだってんなら俺たちが殺されるこたないだろうが」

「ちげぇねぇ」

 拓矢は今聞いた話と、新しく思い出しつつある記憶を照合する。記憶の中で殺した女性はメアリーと名乗っていた。アニーではない。だが、場所はホワイトチャペルだ。

「その一週間前の事件について何か知ってませんか?」

 二人組が顔を見合わせる。

「なんだい、兄ちゃん探偵か新聞記者の助手か何かかい?」

「そうです、助手です」

 適当に話を合わせる。

「一週間前の事件はたしか……メアリー・アン・ニコルズって娼婦がバックス・ローに死体で転がってたって話だ」

「首をズバッとやってから、腹を引き裂いたんだとか、ひでぇ話だ」

 バックス・ロー、首を切り裂いてから下腹部を……。間違いない、自分がやったことだと確信してしまう。

「んで、アニーって女の方はハンベリー・ストリートで、やっぱり喉かっ切られた後に腹を裂かれてたみたいだぜ」

「なるほど、それで同一犯じゃねえかってことか」

 拓矢は思い出す。記憶の中の自分は、まだ誰かを殺す気でいたことを。それがアニーなのかもしれない。

「おう、兄ちゃん、ずいぶん顔色が悪いな、想像してぶるっちまったか?」

 まさか自分に覚えがあるなどと言えるはずもなく、曖昧な愛想笑いを浮かべて、はいと気弱に肯定した。

「まぁ、殺人自体増えてるんだ、俺たちも自衛するに越したこたねえよ」

「だあな、っと、いつまでもくっちゃべってると親方の大目玉だ、じゃあな、助手の兄ちゃん」

 二人組は去っていった。その姿をなんとなく目で追っていた拓矢の視界のはしに、妙なものが映る。

 現代日本の緑のジャージ姿。この時代のロンドンにあり得ないファッションだ。困惑が勝り、拓矢はその場でまごついてしまう。

 このロンドンが自分の夢だった場合、あのジャージ姿は夢特有の不条理さで見えただけの単なる記号。このロンドンがタイムスリップのような現象で、自分が過去に飛ばされているのだとしたら、あのジャージの人物も同じように飛ばされた現代人。前者の場合、緑のジャージを追うことで、夢の場面が大きく変わるかもしれない。後者の場合、帰るための情報をあの人物が持っている可能性がある。過去のイギリス人たちが現代日本の服装を奇妙に思わない点が不審ではあるものの。なんにせよ、どのみちジャージの人物に話しかけない手は無い。一連の奇妙な事象の手がかりになりうるのだから。

 ここまで考える間に、拓矢は肝心のジャージ姿を見失ってしまっていた。自分の間抜けさに苛立ちながらも、その姿が見えた方角へと走り出す。妙に体が軽いことに気付きもせずに。


 夢中で駆けていく拓矢は、不意に横の路地から飛び出してきた男性とぶつかってしまった。相手も走っていた。正面衝突でこそないものの、かなりの衝撃のはず。しかし、不思議と突き飛ばされることもなく、痛みも感じなかった。

「ご、ごめんなさい!」

 謝罪の言葉を口にしつつも、痛みが無いことで、やっぱり夢かという気持ちがふくれ上がる。

「あ、ああ、すまない、こちらも焦っていて……キミは……?」

 ぶつかった男性は拓矢の姿を見て困惑している。その様子に、拓矢も驚きを隠せない。なぜなら、この人物もまた、現代日本風の格好をした東洋人だったからだ。真っ白なワイシャツを着た眼鏡の男性。さらには、男性の飛び出してきた路地から、ジャケットを羽織った大学生ぐらいの女性が走ってくる。

「置いてかないでよぉ、もぉっ!」

 二人の話している言葉は日本語だった。

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