4:ベーカー街の名探偵

 東京某所の会計事務所。狭小なオフィスにデスクはひとつ。応接用のソファとテーブルのセット。多くのファイルが保管された棚が並んでいる。

「ランさーん、本当にコレで合ってるんすか?」

 九品仏くほんぶつ太一たいちは『異伝ジャック・ザ・リッパー』と表紙に書かれた本から視線を上げ、自分にこれを読むよう強要している女性を呼んだ。

「シャーロック・ホームズ出てきたんすけど、完全にフィクションじゃねっすか」

 呼ばれた女性、経堂きょうどうらんの方はというと、返事もせず、集中して英語の資料を読み込んでいる。どうやら切り裂きジャック事件について書かれた論文のようだ。

「ランさーん? 聞こえてねっすね」

 二十歳そこそこの緑のジャージを着た、だらしない風貌の青年、太一は飽きたと言わんばかりにデスクに本を放り投げた。ばさっと大きな音を立てて書類の山が崩れる。先程までいくら声をかけても反応の無かった蘭がそちらを向き、苛立ちの声を上げる。

「ちょっと! 何してくれてんのよ!」

 紙に印刷された論文をテーブルに置いて、ソファから勢いよく立ち上がると、デスクに素早く駆け寄り落ちた書類をまとめ始める。歳の頃は二十代後半。どちらかといえば美人だが、地味なスーツに身を包み、華やかな化粧もせず、なにより人当たりのキツそうな目つきが印象的だ。

「だって、ランさん話聞いてくれねーんすもん」

 太一は悪びれもせず、成人しているとは思えない子供っぽい仕草であからさまにスネてみせる。

「ただでさえいそがしい時に仕事増やさないでくれる?」

 バラバラに落ちた書類は順番がめちゃくちゃだ。これを揃え直すだけでも、蘭の言う通り無駄な時間が生じるだろう。

「会計事務所なんて畳んで、もっとラクな仕事したらいいんすよ。オレらなら色々できるっすよ」

「力を安易に使えば、それだけ日常から離れて自分が自分でいられなくなる。そのぐらいわかってるでしょ?」

 ひとまず落ちた書類を順番が狂ったままデスクに乗せる。

「太一くんがそうやっていい加減に生きてるのだって、自分らしくあり続けるためでしょう?」

「それは買いかぶりすぎっすよ、オレは怠惰なニンゲンなんで、ラクに生きたいだけっす」

「じゃあ、楽に生きるための努力をしなさい!」

 蘭はそう言って、放り投げられた本、『異伝ジャック・ザ・リッパー』を押し付ける。太一は嫌そうな顔で受け取ると、近くの丸椅子の上に置いた。

「だから、十九世紀のロンドンの知識が必要なのはわかってるっすけど、コレ完全にフィクションで参考になんねっすよ」

「先生の言ってたこと、忘れたの?」

 自分の眉間のシワを指で広げるような仕草をしながら、蘭は太一に説教を始める。

「記憶は史実として正しいとは限らない。改竄かいざんされた歴史の中で存在しないことにされた人物。まったく異なる性格で描かれている人物。そして創作された架空の人物ですらありうる」

「手で伸ばしたって眉間のシワは消えねっすよ」

「真面目に聞きなさい!」

 ばんっとデスクを叩く。

「私の思い出した記憶は十九世紀ロンドンで探偵をやっていて、コカインを常習していて、バイオリンをくのが趣味なのよ! まるでシャーロック・ホームズじゃない!」

「シャーロック・ホームズって、そういうキャラだったんすね」

「読んだことないの?」

「オレ、活字ってニガテでぇ」

 蘭はため息をつきながら、再び眉間をもみこむ。

「記憶をたどりなさい、誰か読んでるでしょ」

「や、安易に記憶に頼るなって言ったばっかじゃねっすか。だいたい、オレの持ってる記憶、全部もっと昔のヒトっすよ。今回のオバちゃんがイチバン現代に近いっすね」

「そう、わかった、太一くんに事前調査の手伝いをさせるのはあきらめたわ」

 ようやく引き出せたその言葉に太一は笑顔を浮かべて胸を張る。

「その代わり、いざって時は体張るんで、まかせとけってヤツっす」

「ええ、ええ、考えるのは私の役目ね。そういう意味ではシャーロック・ホームズはうってつけだわ」

 先程まで座っていたソファに戻ると、蘭は左右の指を合わせた独特なポーズを取った。シャーロック・ホームズが考え事をする時の有名な仕草だ。

「この間、迷い込んだのはホワイトチャペルのバックス・ロー。娼婦が殺されたって騒ぎになっていた」

 蘭の表情が、顔つきが徐々に変わっていく。険のある目つきは知的好奇心に満ちたわくわくとした光をたたえ、引き結ばれていた唇は微笑みを浮かべる。

「被害者はメアリー・アン・ニコルズ、四十三歳、娼婦。後世に切り裂きジャック事件と呼ばれるようになるカノニカル・ファイブの最初の犠牲者」

「カノニカル・ファイブ?」

「そんなことも知らないのかい、太一くん。ホワイトチャペル連続殺人事件の被害者は十一人。しかし、ジャック・ザ・リッパーの手口と思われるもの、遺体に共通点があるのは五人。この五件をカノニカル・ファイブと呼んでジャックの仕業として分けるのが一般的だ」

 蘭の口調は普段のものではなくなり、落ち着いて、謎を楽しんでいるような雰囲気がただよいだした。

「今回発生した幻視ヴィジョンは私の知る限りまだ一件。あれは地球の記憶、歴史の再現事象だからね、記憶の持ち主と関わり深い場所か、多くの人々に記憶されている場所がほとんどだ。誰かの記憶が呼び水となって、ごくプライヴェートな場面が再現される短時間の小規模幻視ヴィジョンもあるようだけどね」

「それで? そのホワイトチャペルとかいう場所が、切り裂きジャックと関わり深いのはわかったっすけど、大規模幻視ヴィジョンが起きたとして、ジャックがらみとは限らないっすよね?」

 シャーロック・ホームズの記憶に飲まれた蘭が太一に向けてにこりと微笑む。

「簡単な推理だよ。あの場にいた抵抗者は私と太一くんだけ。そして、私の記憶は私、シャーロック・ホームズ。太一くんの記憶はリディア・トンプソン、バーレスクの女王だ」

「役者のオバちゃんっすね」

「どちらも無関係なのだよ、ホワイトチャペル連続殺人事件とは。つまり、今回の歴史の再現事象の中心は、ベーカー街でもゲイエティー劇場でもない。ジャック・ザ・リッパーという謎にフォーカスされている」

「なるほど、先生が言ってたこととも合ってるっすね」

「ジャックが何者か、その真相を知る者はいない。動機も不明だ。だが、我々抵抗者にはひとつの可能性が見える」

「切り裂きジャックは覚知者リベレーターってことっすか」

「その可能性が高いと思わないかい、太一くん。だから、我々はジャックのことをもっとよく知らなければならない」

「わかったっす。なので、そろそろモトに戻ってもらえるっすか?」

 そう言って、太一は再び本を書類の山へと放り投げた。ばさっと音を立てて紙が舞い散る。

「ちょっと! 何してくれてんのよ!」

 急浮上した蘭の自我が、名探偵を押しのけて怒りをあらわにする。

「いや、ホームズの記憶を励起れいきさせすぎっすよランさん。オレに説明するためだけにナニ無茶してんすか」

「自分でも情報を整理しておきたかったのよ、記憶の正体がシャーロック・ホームズ本人だっていう確認もできたしね」

 無茶をした自覚があるのか、蘭はそれ以上は食ってかからずに書類を拾い始めた。今度は太一も整理の手伝いをする。

「現時点でわかってるコト、オレが先生に念話しとくっす」

「そう、じゃあ頼むわ、私はさっきの論文の続きを読むから」

 表裏上下だけを整え終わった書類がデスクに置かれ、会計事務所に再び静かな時間が訪れる。太一は椅子に座って目をつむり、蘭は冷めたコーヒーを一口飲んでからソファに座った。


 論文を読み終えた蘭が疲れた首を回しがてら、広くはない自分の事務所を見渡す。視界に入ったのは椅子に座って寝ている太一。その気持ちよさそうな姿に思わず表情をムッとしたものへと変えた。苛ついた声を上げそうになったが、テーブルからただよってくる匂いに気付いて視線をそちらに向ける。香りの源はテイクアウトの牛丼。集中している間にお昼の時間を過ぎていたようだ。気を利かせて太一が食事を用意してくれていたのだとわかり、ふっと微笑みを浮かべた。

 割り箸を手に、まだ少し暖かい牛丼のふたを開けようとしたところで、シャーロック・ホームズの新たな記憶を思い出す。


 顔馴染みのレストレード警部が見知らぬ男を連れて事務所にやってきた。男は三十歳手前の精悍せいかんな顔つき、鋭い視線と鍛えられた体は警察のお仲間ということだろう。

「こんにちは、レストレード警部、それと刑事さん。ホワイトチャペルの殺人事件の捜査は順調ですか?」

 刑事と呼びかけた男は自分が何者で、何をしているか当てられたからだろう、一瞬だけ驚きの表情を浮かべてから警部を見る。いつの間に自分のことを伝えていたのだろうかと。

「さすがはホームズさんだ、今日の推理も冴えてるね。その通り、彼はバダム刑事、アニー・チャップマンの遺体を最初に確認した警察関係者だよ。バダムくん、言っただろう、彼はそんじょそこらの探偵とは違うんだ。私は何も伝えずにキミを連れてきたのにこれさ」

「はじめまして、ホームズさん。活躍は存じ上げています。私はエドワード・バダム。お察しの通りレザーエプロンの捜査に当たっています」

 革のエプロン、ね。つまり、新聞を騒がせている事件について、捜査線上の有力な容疑者は屠殺とさつ業者。そして、ホワイトチャペルではユダヤ人が犯人ではないかという噂がささやかれている。となれば、警察の方は少し軌道修正をしてあげた方が良さそうだ。

「犯人が医学の、少なくとも解剖学の知識を持っている可能性は?」

 私の問いにバダム刑事は、今度は隠そうともせずに驚きの色を見せた。

「すでに犯人の心当たりがあるのですか?」

「いや、残念ながら、まだ真実は見えてこない。ただ、先日のメアリー・アン・ニコルズ殺害と、アニー・チャップマン殺害は同一犯によるもの、その可能性が高いだろうね。新聞の情報だけでは断言できないが」

 さて、警察はどの程度情報を得ているのだろう。

「ええ、手口と、おそらく凶器が同じでしょう。ただ、医者が使うにしては切れ味の悪い刃物です」

「なるほど、となると、やはり同一犯だろう。ただ、私が同一犯ではないかと推理した理由は犯行の手口とは別のところにある」

 警察官のふたりは私の言葉に、期待の表情で少し前のめりになった。

「期待させてすまないが、犯人像が割り出せたわけではない。というのも、これまでのホワイトチャペルでの一連の殺人と、例の二件は犯人の足取りが違うように思えてね。確認なのだが、目撃情報が一貫していないのではないかな?」

「ええ、そうです。それらしい目撃情報はあるものの、どうにも別人。何より逃走中の姿を見た者がみつかりません。犯人像があまりにも浮かんでこないため、手口から肉を切り慣れているだろうということしか……」

「そう、この事件は極端に目撃者が少ない。被害者が最後に会っていたと思われる人物はバラバラ、犯行時刻の後に血まみれの人物を目撃したと申し出る者もいない。奇妙な、とても難解な事件だ。まるで……」

「まるで?」

 真剣な面持ちで迫るふたりに苦笑で返した。

「まだ真相はわからない。推理のために必要な情報が完全に不足しているからね。今わかっていることだけで言うなら、まるで、すべての目撃者がこの世から消え去ったようだと言わざるを得ない。荒唐無稽が過ぎるだろう?」

 刑事は落胆の色を見せてから威儀いぎを正した。

「つまり、事件を解決する鍵は、犯行後に逃走する犯人を目撃した人物を探すこと、ですね」

「その通りだよ、バダム刑事。事によると、娼婦殺しはわざと遺体が目につくよう残し、目撃者の方を入念に消している可能性すらある。浮浪者や物乞いの死体を探すのも手かもしれないね」

「娼婦を見せしめに、目撃者は密かに……犯人は一体何がしたいのでしょう?」

「さあてね、大事なのは動機ではない。どうすれば犯行が可能か、そして、犯人は誰かさ。可能性を潰していけば、その時間その場所で殺人を行えた人物は自然と限られていき、たったひとりに行き着くんだ」


 記憶の海から意識を引き戻した蘭はつぶやく。

「目撃者はこの世から消え去った。ええ、それが正解よ、ホームズ」

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