5:サン・ジェルマン伯爵

 太一がうたた寝から目を覚ますと、蘭が『異伝ジャック・ザ・リッパー』のページをめくっていた。

「ランさーん、ソレ日本人が書いたフィクションですってば」

蘭は本から視線をはずして太一を見た。

「それでも私たちが知る史実よりも、意外なヒントが埋もれてる可能性があるわ」

「はぁ……?」

「私のホームズの記憶に、切り裂きジャック事件の相談を受けた場面があったわ。依頼を受けたかまでは思い出せなかったけど、二件目以降の捜査に当っていた実在する刑事と会ってた」

 太一が自分のこめかみをトントンと指で叩く。

「てことは、役者のオバちゃんも関わってんすかね」

「無理に思い出さなくていいわ。シャーロック・ホームズは犯行の目撃者が不自然なほど、見つからないことに注目してた」

「ああ、消されたっすか」

「そういうこと。切り裂きジャックは覚知者リベレーターで間違いないわ。覚知者リベレーターなら、目撃者を文字通りこの世から消してしまえるから。三件目が犯行の途中で放棄されたのも、五件の殺人の後なんの活動もしていないのも、敵対組織に邪魔をされたから、でしょうね」

「ジャックとその敵がどこの組織かってのも気になるっすけど、今必要なのは過去の情報じゃねっすね」

「そうね。今、大規模幻視ヴィジョンを引き起こそうとしてるのがどこのどいつかの方が大切ね。だから、切り裂きジャックの後世のイメージの方が重要というわけ。敵はそこに用がある可能性が高いから」

 太一は少しだけ考える仕草をしてから、すぐに口を開いた。

「でもランさん、未然に防げればたしかに万々歳っすけど、オレら二人だけで覚知者リベレーターを見つけ出して先に止めるってのは、あんま現実的じゃねっすよ」

「わかってるわよ、先生への報告はちゃんとしてくれたのよね?」

「もちろんっす。今ごろ、予報士サンが幻視ヴィジョンの予兆を探ってんじゃねっすかね」

「じゃあ、名探偵じゃない私たちは足で情報を稼ぎましょうか。後手に回るにしても、わかっていることが多いほど、対応しやすくなるわ」

「暑いから歩き回るのはカンベンしてほしいっすけど、まぁいつもいつも後手後手で振り回されるのもオモシロくねっす」

「そういうこと。あ、そうそう、お昼ご飯、用意してくれてありがとね。さ、行くわよ」

 暑い午後の外出、蘭はスーツのジャケットを脱いでハンドバッグと共に手に持つ。太一もジャージの上着を白いティーシャツの左肩にかけると、あとに続いて事務所を出て行った。


 蘭と太一は繁華街を連れ立って歩いている。やみくもにうろついているわけではない。龍脈を意識して、太い流れに沿って進んでいる。

「大規模な幻視ヴィジョンを発生させるには、いくら奴らでもレイラインからより多くの力を汲み上げる必要があるわ」

「切り裂きジャック事件って、戦争とも災害とも無関係っすよね。てことは学会や騎士団ってことはなさそうっす」

「聖堂の線もうすいわね。寺院か委員会があやしいわ。機関はそもそも東京で大規模幻視ヴィジョンなんて起こさない」

「委員会だと厄介っすね、現代日本で切り裂きジャックの都市伝説を定着させて、マッチポンプで解決、そんな筋書きをこしらえそうっす」

「思惑を阻止する立場で言えば委員会は厄介だけど、より困るのは寺院の方よ。連中の実験はほぼ間違いなく災害を引き起こすから」

「災害っすか、どの程度の規模の幻視ヴィジョンになるかによるっすけど、東京で起きる災害は人口の面で被害甚大間違いねっすわ」

「東京を選んだのがたまたまじゃなければ、機関への攻撃の可能性もあるわね。となると、聖堂も視野に入れるべきかも」

 不意に太一が立ち止まり、蘭にジェスチャーで、あっちを見ろと手を動かす。その示す先、人通りの多い歩道を見た蘭は、人が変わったかのようにけわしい表情を浮かべた。

「うむ、奴がここにいるということは、間違いなかろう」

「ランさん、落ち着いてほしいっす、誰か表に出てきてるっす」

「ここで会ったが百年目。憎き彼奴きゃつに一太刀入れる好機!」

 様子のおかしい蘭は手荷物をその場に落とし、一気に人混みに向かって駆け出す。突然、すさまじい気迫をまとって猛進してくる女性を見た通行人たちは驚いて道を開ける。だが、目的の人物はそこにいなかった。忽然こつぜんと姿を消したのだ。蘭は荒々しい仕草で周囲をしきりに探る。通行人たちは挙動のおかしな女をけていくため、人混みにぽっかり穴が空いた。

 それを離れた場所から見ていた太一は、周囲を警戒しながら蘭のハンドバッグとジャケットを拾おうと足元に注意を向ける。その時――

「熱烈なファンがいるようだね、キミの連れかな?」

 背後から聞こえる言葉に、太一は反射的に振り返ってわずかに距離を取る。向こうから消えたということはこちらに来る可能性があるとは考えていたが、完全に背後を取られるとは。

「相変わらずの神出鬼没っぷりっすね、サン・ジェルマン」

 背後に立っていた男、高そうなスーツを着込んだ西洋人は優雅に微笑む。

「私は好きな時に好きな場所へ行く。キミも、窮屈な今を脱ぎ捨て、解放されてみるといい」

「まっぴらごめんっす。オレはオレのままでいたいっすから」

 そう言いながら、右手でポケットから十字架のアクセサリーを取り出す。人目は多いがチャンスでもある。

「サン・ジェルマン、アンタがココにいるってことは、切り裂きジャックの幻視ヴィジョンは寺院の差し金っすね」

「ああ、少し実験してみたいことがあってね。手伝ってくれるなら歓迎するよ」

「笑えない冗談っすね。ここでアンタを倒せるとは思ってないっすけど、まぁ、ボコせば事件解決っす」

 言うが早いか、振り上げた右手の十字架が体全体を覆うほどの盾に変わり、そのままサン・ジェルマンと呼ばれた男を打ち砕こうと振り抜かれる。

「半覚醒者にしては賢い、とはいえ、半端者の力では、ね」

 大質量の盾で殴りつけられたというのに、サン・ジェルマンは微動だにしない。肩口に当たったままの大盾に、太一は力を込めるが、巨岩を押しているような気分だ。

「半端者、半端者うっせぇっすよ!」

 太一の左手には回転する火球が燃え盛っている。一般人がどうのと言っている場合ではない。ぜ轟く小さな太陽、それをサン・ジェルマンの体に押し付ける。豪炎ごうえんが火柱を立ちのぼらせた。通行人が悲鳴を上げて逃げていく。

「そちらか!」

 音を聞き、離れた場所にいた蘭が人間離れした速度で駆けてくる。ごうごうと燃える炎の中、涼しい顔で立っているサン・ジェルマンは無傷のまま微笑む。

「気が変わったら言ってくれ、協力してくれるなら悪いようにはしないからね」

 言葉と共に指先から、今しがた太一が出してみせたのと同じサイズの火球を生み出し、猛進する蘭に向けてちょっとした動きで飛ばそうとした。

「止まるっすランさん!」

 言い終わる前に太一は動き、やはり超人的な速度で、飛んでいく火球と走ってくる蘭の間に割り込んで盾を構えた。爆炎が轟音をたて、繁華街に悲鳴が巻き起こる。

「くっそ、オレの炎の数倍じゃねっすか!」

 爆発を防いだ大盾は、衝撃で足元がアスファルトの地面にめり込んでいる。一瞬の攻防の間にサン・ジェルマンの姿は消えていた。

「太一くん、ありがとう、記憶に飲まれてたわ」

「気をつけてほしいっす。人の目も多いんすから」

 言いながら大盾をアクセサリーに戻しポケットに突っ込んだ。

「本当にごめんなさい。サン・ジェルマン伯爵はあの子のかたきだから、つい頭に血がのぼっちゃって」

「気持ちはわかるっすよ。……目立っちゃったんで、とりせず場所を移動するっす」

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