2:イーストエンドの殺人鬼

 朝、目が覚めて最初に気付いたのは、真鍮しんちゅうの指輪を握りしめて寝ていたことだった。まだ夢が続いているのか、わけのわからない事態が続いているのか、どちらにせよ、判断を保留して起きるしかない。夢ならそのうち覚めるだろう。

 いつもの日常。朝のルーティンを終えて通学のために家を出る。午前中から太陽は憎いほど熱い。セミの暑苦しい大合唱もいつもの夏の証。変わったことがあるとすれば、朝食の時に紅茶が無いことに違和感を覚えたぐらいだ。どうにも、記憶に引っ張られている部分がある。あとは例の指輪。奇妙な事態を解き明かす鍵となるかもしれないので、大事に持ち歩くことにした。

 都会の朝の電車は相変わらずお世辞にも快適とは言えず、車内の冷房が汗を冷やして暑さと寒さを同時に提供してくれる。最悪の不快指数と言えるが、煤煙で曇ったロンドンとどちらがマシかといえば、衛生的で安全な現代日本の方が住み良いのは間違いない。イーストエンドの治安の悪さを思い出し、東京の人口密度と安全性に思いをはせた。

 テスト勉強のことなどすっかり頭から抜けたまま、拓矢は学校へとたどり着く。教室にはいつもの顔ぶれ。

「具合良くなったか?」

 やはり沢村は良い友人だ。開口一番に心配の言葉が出てくるあたり、本気で拓矢のことを気にかけているのだろう。

「うん、なんでもなかったみたいだよ」

 だから、心配をかけまいと白昼夢のことも指輪のことも話さなかった。友人との日常の会話をしている間は、よけいなことを考えずに本来の自分らしくいられる気がしたから。

 結局、昨日はテスト勉強を何もしなかったが、普段の成績は特別良いわけでも悪いものでもない。あまり気負わずに問題用紙が配られるのを待つ。始めの合図と共に目を走らせた国語のテキストに違和感。試験問題に使われるにしては、やけにくだけた文章だった。設問も小学校のテストかと思うほどに簡単だ。やっぱりまだ夢の中なのか、そんなことを思いつつ、念のためしっかりと解答欄を埋めていく。

 見直しをして、少しひやりとした。答案用紙に自分の名前を書き忘れていた。テキストに違和感があったせいで、最初に名前を書かずに解きはじめてしまったようだ。気付けたことに、ほっとしながら名前を書こうとしてペンが止まる。はて、自分の名前はなんだっただろう。名前なんて無意識にでも書けるものであるはずが、つづりがわからず混乱する。つづり、アルファベットの配列。

――アルファベット?

 どうして自分は英語で名前を書こうとしたのだろう。少年は自問自答し、すぐに、あることに気付いて世界が裏返ったような感覚を味わうことになる。

 彼が今解いていたテストは国語ではなく英語の科目のものだ。テキストは英文で、設問は英文法を問うものだ。英語はどちらかといえば苦手な科目のはず。それが、どういうわけか日本語とまったく同じ要領で読み書きができる。問題テキストは英語で、設問は日本語。ふたつの言語が混ざっていることにすら気付かないほど、両方を自然に読むことができてしまった。名前が書けない理由も今ならわかる。自分の中の英語を理解できる部分、つまり前世の自分の名前が思い出せなかったからだ。

 理解が追いついてこないまま、葉山拓矢と漢字で記名し、自分が自分であることを再確認する。彼はこの時初めて、自分が本当は誰なのかという、普通に生きていれば浮かぶこともないであろう疑問に震えた。真夏だというのにうすら寒い思いがして鳥肌が立つ。不意に鳴り響く学校のチャイムが自分を日常に引き戻してくれる救世主のように感じられた。

 その後のリスニングテストもやはり容易に聞き取ることができた。強いて言えば、百年以上昔のイギリス英語と現代のアメリカ英語の違いが気になったが、その気付きが今自分の置かれている状況の理解に繋がった。つまりヴィクトリア朝ロンドンの誰かの記憶は拓矢にしっかり馴染んでおり、知識を伴っているということ。シティの裏道を知っているのと同じように、使っていた言語も理解している。前世の記憶という仮説が、拓矢の中で信じるに足るものに変わった瞬間だった。

 前世というものを受け入れたからだろうか、新たな記憶を思い出す。


 私は上機嫌だった。なぜなら、ずだ袋の中に確かな美しい輝きを感じたからだ。人間は記憶だけの存在ではない。その体にもしっかりと魂を宿している。昔から言われていることであり、わかっていたことではあるが、実際にその輝きをこの目で確かめることができた喜びは思っていた以上に大きい。だが、まだ師の至った領域へはたどり着けていない。もう少し、体験が必要だ。

 手にまとわり付くしつこい汚れを桶の水で洗いながら、次の算段をつける。この街は少々窮屈だ。警察ヤードなど蹴散らしてもかまわないのだが、目覚めたばかりで派手に動いて敵に目を付けられるのもよろしくない。洗った手の匂いを嗅ぐ。鉄錆のような臭さが取れないが、他人に気付かれなければ充分だ。手を布で拭き、香水瓶の棚に手を伸ばす。どれを使おうか。


 学校のチャイムが拓矢の意識を日常へと帰してくれた。心臓がバクバクと激しく動いている。脳裏に浮かぶ血の匂い、警察を蹴散らすという言葉、ずだ袋の中身。その意味するところを連想していった結果、思い出したくないことまで思い出す。人を殺して腹を裂いた、その光景が、手の感触が、死の匂いが、断片的に脳裏に浮かんでは消えていく。しでかしたことへの恐ろしさと共に、拓矢は自分のこめかみからあごにかけて、ダラダラと汗が流れていくのを感じていた。

「葉山くん、大丈夫?」

 かけられた声の主に視線を向ければ、彼がひそかに想いを寄せる木崎が心配そうな表情を浮かべていた。大丈夫と答えようとした少年の心に湧き上がったのは、木崎さんの体の中も見てみたいという、おぞましい欲求だった。

 また確認したい、魂の輝きを。くもりなき純粋な気持ちで人間というものを愛しているからこそ、その輝きが見たいのだ。結果、相手が死んでしまっても、その相手に定められた死の刻限が来たというだけのこと。誰が殺したのかは関係がない。死とはそういうものだ。

 前世の自分が拓矢にささやく。それに対して嫌だと心の中で叫んだ。自分で自分の気持ちを強く強く否定したことで、ようやく体が自由に動くようになった。しかし、力が抜け、昨日のように机に突っ伏してしまう。

「葉山!」

 視界が黒に染まる中で沢村が自分を呼ぶ声が聞こえた。そうだ、僕は葉山拓矢だ、ロンドンの殺人鬼じゃない。力いっぱい叫びたかったが、荒い呼吸で精一杯の喉は声を発しなかった。動けそうにない拓矢を沢村と、もうひとり友人が肩を貸して立たせる。そうして、あわてて保健室へと運んでいった。

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