月虹イングレイヴ

泉井夏風

1:ガス灯と煤煙と

 霧雨が降っていた。ひたひたと体が濡れていくが、ロンドン生まれのこの身には慣れたもの。白くけぶる視界のはしには虹色の輪をまとったガス灯。日も落ち始めたこの時間、ひとつ、またひとつ火が灯されていく。

「解放された気分はどうかね」

 となりに立つコートの男、その偉そうな話し方が耳障りだ。

「キミがこのロンドンで何をするのか楽しみだけどね、残念ながら私は明日の船でブリテン島を離れなければならない」

 相変わらず、こちらが無視しているというのに男は饒舌じょうぜつに話しかけてくる。今日限りで相手をしなくてよくなるのは喜ばしい。この手の自分が賢いと思っている男は好かない。

「寡黙だね。いいさ、また会う機会があれば、その時は語り合おう。人間嫌いさん」

 ようやく、男は対話をあきらめて去っていった。

 私が人間嫌いだなんて、勘違いをされたままというのは気分が悪いが、どうせ腹の内は見るまでもない。言葉を交わす価値もない男だ。私ほど人というものを愛している人間もそうそういないというのに、その程度の洞察もできないのだから。

 ――昔、師に尋ねたことがある。人間とは何かを。私よりも人を愛しているはずの師はこう答えた。「血と内臓と糞の詰まったずだ袋」だと。師の言うことだ、言葉通り受け取るべきではないが、その時初めて、私は彼に反感を抱いた。以来、反証に足る言葉を求めているが、未だ師を超えるにはいたっていない。己の未熟は重々承知。考えるよりも行動しよう。


 少年は、はっと我に返る。霧雨のロンドン、この記憶はなんだろうと首をかしげるが、今が国語の期末テストの最中だと思い出して再び問題に集中し始めた。

 彼の名前は葉山はやま拓矢たくや。高校一年生。奥手な性格で引っ込み思案、中性的な顔立ちと平均より低い身長が相まって、よく女子から可愛いと言われるのが悩みの、特別何かに秀でているわけでもない少年だ。

 今は期末試験の真っただ中。今日と、明日のテストを乗り切れば夏休みは目前。友達と遊びに行く予定に、わくわくとした心持ちでいる。そんな試験の最中に、不意に頭の中に浮かんだ知らない記憶。まるで他人の頭の中が、何かの拍子に飛び込んできたかのうような不条理さ。

 現代文の答案用紙を書き終え、本来なら間違えが無いか見直すべき時間、拓矢は思い出した記憶について考えていた。映画で観たシーンだろうか。いや、そんな映画の記憶はない。夢で見た可能性はありそうだが、それにしてはリアルで、いやにハッキリしている。霧雨で濡れた衣服が体温をじわじわと奪っていく感触まで、しっかりと思い出せる。あとは可能性があるとしたら前世の記憶……なんてものは、さすがに荒唐無稽すぎる。とはいえ、やけにしっくりくるものを感じた。

 学校のチャイムが鳴る。今日のテストはこれで終わりだ。明日を乗り切れば存分に遊べる。

「葉山! 明日の英語、出る範囲確認しようぜ」

 友人の沢村が拓矢に声をかけ、他にも数人、集まってくる。

「待って、ノート出すから」

 カバンから取り出した英語の学習ノート。それを開いた時に拓矢は強い違和感を覚えた。そうして襲う目眩めまい。目の前が暗くなり、ノートを取り落とす。頭がくらくらして、机に突っ伏すしかなくなった。

「どうした、大丈夫か?」

 落ちたノートを拾ってくれた沢村が心配そうに顔を覗きこむ。

「もしかして徹夜したのか?」

「うーん? ちゃんと寝たはずなんだけど、目眩めまいがする……」

 友人たちの心配する声が、徐々にはっきりとしたものになり、奇妙な目眩めまいは治まった。

「葉山くん、大丈夫?」

 女子生徒たちも気にして声をかける。拓矢が恋心を抱く木崎きざき叶実かなみもその中にいたため、彼はあわてて体を起こして無理やり笑顔を作った。

「もう平気! なんでもないから!」

 沢村が呆れた様子で拓矢の肩を小突く。

「今日は早く寝ろよ、明日のテスト受けられなくて補講とかなったら、遊び行けないだろ?」

 他のクラスメートたちも、ひと声かけてから去っていく。帰ろうぜ、と沢村は言い、拓矢はうなづいた。


 校舎を出れば嫌になるほどの暑さが降り注ぐ。セミの鳴き声に圧倒される。同じ夏でも、ロンドンではこんなに暑くなかったのに。そんな風に思った自分に驚く。拓矢はイギリスどころか海外に行ったことすらない。しかし、ロンドンにいた記憶が確かにそこに在る。テムズ川の臭気も、イーストエンドの物乞いたちの体臭も、煤煙で汚染された空気も、お気に入りのアイリッシュシチューの香りもすべて、ハッキリと思い出せる。

――お気に入りのシチュー?

「おい、本当に大丈夫か? ぼーっとして」

 立ち止まってしまっていた。少し先まで行っていた沢村が心配そうに戻って来る。

「なんか変かも」

「変って……また目眩めまいか?」

「いや、なんか、知らない記憶が……」

「なんて?」

「ん、その、自分じゃない誰かの記憶を……思い出しちゃったような、ロンドンにいたことがあるような……」

 自分で言っていて意味不明な物言いに感じる。その言葉は尻すぼみになり、すべては言い終わらずに口の中で消えた。

「前世の記憶でも思い出したのか?」

 沢村は良い友人だ。深刻な表情の拓矢を元気付けようと、あえて茶化した様子で笑い、背中を軽く叩く。それがわかったから、拓矢も曖昧な笑みを浮かべ、そうかもと、おどけて答えた。

「本当に、今日はさっさと寝ろよ」

 そこからは、努めて記憶のことは考えないように、ゲームや漫画の話をしながら駅まで歩いた。沢村と帰りが一緒なのはここまでだ。じゃあと別れて拓矢は違う路線のホームに向かう。


 混雑した、都会の駅の人の波。ホームの人混みを泳ぐように進み、タイミングよく来てくれた電車に流れ込む。ドア付近の手すりを確保できたのを幸いに、体重をあずけて少年は物思いに沈んだ。考えれば考えるほど真実味を帯びる前世の記憶という仮説。

 ウェストミンスターからイーストエンドまで、実際に住んで歩き回ったことがなければ知り得ないような小さな路地すら覚えている。それもヴィクトリア朝時代の、ガス灯が道を照らしていた頃のロンドンの記憶だ。蒸気機関車が走る煤だらけの地下鉄なんて、今日の今日まで知りもしなかった。

 拓矢は前世というものを、ひとまず有ると仮定して、自分のものではない記憶を探る。前世の自分は何者なのか、思い出そうとすればするほど、頭が重く、わずかに痛む。名前ぐらいわかりそうなものだというのに、思い出されるのは空気の悪いロンドンの街並みばかり。蒸気機関特有の石炭を燃やす匂いが鼻をつく。

「えっ」

 気が付けば、拓矢が乗っているのは新品の木造車両だった。東京の電車ではない。これは思い出した記憶にあるメトロポリタン鉄道。ロンドンの汽車の客室だ。石炭の燃える匂いが確かに感じられる。今度こそ夢を見ているのだろうか。他の乗客は全員、まるで映画の登場人物のように昔の服を着た西洋人。自分は学校の制服。夏服なのでワイシャツだ。映画のセットの中に割り込んだような異物そのもの。だというのに、誰も拓矢に注目しない。気が強い方ではない少年は、心拍数を上げながら、おそるおそる周囲を見渡す。その結果わかったのは、この列車がロンドンの地下鉄だということ。どこかに書いてあるわけではない、知っているのだ。東京の山手線に乗ったことがあるのと同じで、メトロポリタン鉄道に乗ったことがあるというだけ。ここは、この列車は、まぎれもなく記憶にある時代のロンドンを走っている。

「なんだ、夢か」

 声に出してつぶやいてみる。現代の日本の高校生が制服のままヴィクトリア朝ロンドンの地下鉄に乗っていて、他の乗客がそれを気にもとめないこの状況。ようやく夢らしい不条理さを見せてくれたことに、かえって安心することができた。肌寒さを感じながら、携帯電話で写真でも撮ろうとカバンを覗くと、きらりと見慣れない金属が輝くのが見えた。カバンの奥にあった真鍮しんちゅう製の指輪を手に取り、顔の前までつまみ上げて睨みつけるように眺める。複雑な、見たこともないような紋様が刻まれている。覚えのない持ち物だ。誰かの手を離れて拓矢のカバンに転がりこんだのだろうか。そう考えた方が自然だが、どうにも記憶と関係があるような気がしてならない。存在自体が不自然さをまとった指輪なのだ。

 不意に、周囲が明るくなった。見渡せばそこは、いつも通学で使っている東京の電車。ロンドンの汽車ではない。夢から覚めたのだろうか、それにしては、手には変わらず金色の指輪がある。なら、まだ夢の中なのだろう。気楽にそう判断し、いつもの駅で降り、暑い中、家まで歩いて帰った。

 マンションの鍵を開け、共働きの両親がまだ帰宅していない勝手知ったる我が家にあがり、自分の部屋へ。リモコンでクーラーをつけ、カバンを椅子に置いてベッドに腰掛けた。

「本当に夢……?」

 確認のため声に出してみたが、特に何かが起こるわけでもなく、ポケットに入れていた指輪も変わらずそこにあった。仮にこれが夢ではなく現実だとすると、前世の記憶らしきものが部分的によみがえり、電車の中で白昼夢を見て、謎の指輪を手にしていることになる。単に自分でも気付いていないだけで疲労が溜まっていて妙な夢を見ただけ、指輪は偶然転がりこんだだけ。そう考えることもできなくはないが、ただ事ではない何かが自分の身に起きているような直感がある。

「わけわかんない」

 頭は混乱し、とてもじゃないが明日のテスト勉強などする気にはなれない。ロンドンの記憶も、今ある以上には思い出せる様子もなく、なんとも中途半端なところに投げ出された気分だ。そのまま、何をするでもなく横になっているうちに母親が帰宅し、父親が帰宅し、夕飯、風呂、特別なことは起こらないまま夜になる。そうして、ベッドの上で指輪をいじりながらロンドンの風景を思い出しているうちに眠りについた。

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