9:幻視(ヴィジョン)

 先生と出会った翌日。鶴田は職場での軽い仕事を終え、早めの帰路についていた。あれから自分なりに考えをめぐらせ、秘術の練習をし、エドワード・バダムの記憶を整理するなどしていたが、いかんせん知識が足りない。もう一度先生に会って、まだ伝えていないこととやらを聞かなければ。そんなことを思いながら、暑さに顔をしかめて雑踏を歩いていると、裏路地からの悲鳴を聞いた気がした。思わず足を止める。額に汗がつたう。

 人を救うために弁護士になった身だ。人並み以上の正義感はある。とはいえ、以前の鶴田なら、もう少し迷っただろう。だが、今は違う。秘術という超常の力を試す機会かもしれない。その思いが彼の足を裏路地へと向けさせた。もしかすると、刑事であるエドワード・バダムの記憶も影響していたかもしれない。

 裏路地に入ってすぐに、悲鳴の主は見つかった。大学生だろうか、流行りの涼しそうな服を着た女性が、砂をはらいながら立ち上がろうとしていた。

「大丈夫ですか?」

「あ、いえ、転んだだけなんです、恥ずかしい……」

 焦った様子で立ち上がる女性。足元に視線を走らせれば、水道管だろうか、壁から少し張り出している部分がある。あそこにつまずいたのだろう。本当に、ただ転んだだけのようだ。

「怪我はありませんか?」

 一応、確認しておこうと声をかけたその時、周囲の風景が溶けるように下へと流れ落ち、変貌をとげた。せまい室内。むせ返るほどの血の匂いと、焼け焦げた匂い。散乱した衣類に火が着き燃えている。だが、火災よりも目を離せないものがある。それは、ベッドに横たわった――死体だ。

「ひっ!」

 先ほどの転んでいた女性もここにいる。おそらく、この光景は先生の言っていた幻視ヴィジョンだが、昨日の自分のようにこの女性も巻きこまれたのだろう。しかし、そんなことよりも死体だ。腹を裂かれ、内臓を引きずり出され、顔の削られた女性の死体。本来なら一見して身元などわかるわけのないその死者を、エドワード・バダムは知っていた。

「メアリー・ジェーン・ケリー……」

 切り裂きジャック事件、五人目の被害者だ。身元が知られるのはまだ先だが、鶴田にはこのあとの刑事の記憶がよみがえっていた。また後手に回ってしまった。この娼婦には聞き込みを行った記憶がある。事件を防げなかったことへの後悔の念が広がり、鶴田ではなく、エドワード・バダムとしてジャックへの怒りに駆られた。

「ジャック・ザ・リッパー、必ず捕まえてやる!」

 そんな宣言とほぼ同時に、周囲は東京の裏路地へと戻った。

「な、なんですか今の! なんなんですか今の!」

 混乱する女性に鶴田は近寄り、生真面目な声をかける。

「恐ろしい思いをしましたね、お嬢さん。大丈夫です、我々が必ずや犯人を捕まえてみせます」

 その言葉に女性は混乱しながらも多少、不安がやわらいだのだろう。ひとつ息を吐いて、信頼の眼差しを鶴田に向けた。

「警察の人だったんですね」

 はい、と答えそうになったところで鶴田の意志が勝つ。警察官を詐称した場合の法律の知識が、エドワード・バダムの記憶に流されていた自分に冷水を浴びせたのだ。

「あ、いえ、弁護士なので、ええと、犯人をというのは言葉のあやです」

「あ、弁護士さんなんですね!」

 女性は鶴田のジャケットの胸元に輝くひまわりのバッジを見てさらに安心したようだ。職場で依頼者に会っていたので付けていたが、考え事のせいではずし忘れていた。

「ひとまず、この裏路地を出て、人のいる所に行きましょう」

 歩くようにうながすと、女性はうなづいてついてきた。雑踏に戻り、緊張がほぐれていく。さっきの幻視ヴィジョンはおそらく、エドワード・バダムの記憶と関連して発生したのだろう。となると、この女性を巻きこんでしまったのは自分だ。鶴田はそう考え、申し訳ないことをしたと内心謝っておく。実際に口に出しても困惑させるだけだろう。

「さっきの火事の部屋と、その……死体って、なんだったんですか? まぼろし?」

「そうです。幻です。本当の出来事じゃないので忘れてください。……ショッキングな光景だったと思いますが」

「え、でも弁護士さん、犯人を捕まえるって言ってませんでした?」

 困ったな、と鶴田は眼鏡を直すふりをしながら表情を隠した。

「あやしい」

「え? 何がですか?」

「ごまかそうとしてますよね、私、そういうの見抜くの得意なんです。さっきの、ただの幻じゃなくて、超常現象なんじゃないですか?」

 好奇心は猫を殺す、昨日の先生の言葉を思い出した。ここはある程度はっきりと言っておいた方がいいかもしれない。

「もし、超常現象だとしたら、どうします?」

 女性の瞳にわくわくとしたものが浮かぶ。

「やっぱり超常現象なんだ! すごい! 調べます! 徹底的に調べて卒論に書きます!」

 どうやら言うべき言葉を間違って選んでしまったようだ。

「その、私もまだ詳しいわけではないのですが、きっと危険なことなので、やめておいた方がいいですよ」

「危険なんですか?」

「はい」

 先生は、本を読むより簡単に人間を消してしまう敵との命がけの戦いについて言及していた。きっと危険なはずだ。

「こわーい! 守ってください弁護士さん!」

「ええっ? どうしてそうなるんですか、関わらないようにすれば安全……ですよ」

 確信が持てない。

「今、なんで言いよどんだんですか? 安全だって言い切れないって顔してますよ!」

 その勘の鋭さで、危険に近寄らないようにしてほしい、というのが本音だが、もはや何を言ってもヤブヘビだろう。

「わかりました、できるだけ善処しますが、四六時中一緒にいるわけにもいかないでしょう。むしろ一緒にいない方が巻き込まれなくて済むと思うんですが」

「あー、そういう見方もできるか」

 納得の色を見せ始めた女性に、もう一押しなんと言おうか逡巡しゅんじゅんしていると、予想外の言葉が続けられた。

「私、昔から変なものよく見るんですよ。子供の頃、お姉ちゃんがいたはずなのに、中学生ぐらいの時に急にいなくなって、家族もお姉ちゃんの友達も、誰もお姉ちゃんのこと知らないって」

 本を読むより簡単に人間を消してしまうとは、そういうことなのだろうか。

「そのうち私自身お姉ちゃんの名前を思い出せなくなってることに気付いて、それで、お姉ちゃんのことを調べようとオカルトな噂のある所にあちこち行ってるんです。さっきの裏路地もそうです」

 龍脈、レイラインと先生は呼んでいたが、今の鶴田にはその流れがうっすらとわかる。確かに先ほど幻視ヴィジョンが起きた場所は複数の龍脈の交点だ。霊的な何かが起きやすい場所なのかもしれない。

「あんなハッキリした超常現象は初めてで、しかも弁護士さんも一緒に見てました。ようやく、真相に近付いてきた感じがします!」

 つまり、この大学生は危険に自ら首を突っこむ気でいるわけだ。だからといって巻きこむわけにはいかない。だが、もし、自分と同じ抵抗者なら先生に会わせた方がいいかもしれない。

「事情はわかりました。ところで、自分のものではない、誰かの記憶を思い出したことはありませんか?」

「え、なにそれ、興味深すぎる」

「余計なことを言いました。無いのなら、これ以上関わるべきではありません、さようなら」

 さっさと離れてしまおう。人混みの中を、影を利用して駆け抜けようとしたその時、再び幻視ヴィジョンに巻きこまれた。


「最悪のタイミングじゃないか」

 ここはロンドンのイーストエンド。汚染された大気が鼻に刺激をもたらす。

「何ここ! 日本じゃない! どこー? ていうか寒い!」

 しっかりと、女性を巻きこんでしまっている。

「私も詳しい説明ができるわけではないが、ここは十九世紀のロンドンだ」

「タイムスリップしたの?」

「いや、歴史的事件が再現される現象らしい」

 すごいという言葉を何度もいいながら、女性は周囲を見回す。鶴田はジャケットを脱いで渡しながら名乗る。

「キミ、名前は? 私は鶴田。さっきも言ったが弁護士だ。ここではなんの意味もない肩書だが」

「私、真坂まさか美季みき、大学生です! 昔のロンドンを体験できるなんてすごいことですよ! 上着ありがとうございます!」

 興奮する真坂とは対象的に、鶴田は困り果てていた。中途半端な知識を持った状態で幻視ヴィジョンの中に放りこまれてしまったのだ、何をどうすればこれが終わるのかわからない。真坂を無事に帰さなければという責任も感じている。

 今いる場所はバダム刑事の記憶によればあまり治安が良くない。路地を抜けて人通りの多い場所へ、そしてもっと安全な地区へ行こう。そう決めて真坂に声をかけながら歩き出す。

「ひとまず安全な場所を探そう。現代日本とは治安の良さが比べ物にならない」

「はーい」

 細い路地を歩いていると、その先の大通りに緑色の服を着た人物が見えた。昨日の幻視ヴィジョンで見かけたのと同じジャージではないだろうか。現代日本人がいるのなら、それは抵抗者かもしれない。

「真坂くん! 手がかりを見つけた! 急いでくれ!」

 そう言って返事も待たずに駆け出す。体が軽い。龍脈からの霊力が身体能力を底上げしてくれているのを感じる。力を振るう解放感が心地よい。

 そんな、喜びにも似た感情はすぐにかき消される。路地を抜けたところで、左から走ってきた小柄な人物と衝突してしまったのだ。かなり速度が出ていたが、痛みは無く、よろけることもない。きっと、これも秘術の恩恵だろう。だからこそ、ぶつかった相手が心配だ。しかし、その相手は突き飛ばされることもなく謝罪を口にした。

「ご、ごめんなさい!」

「あ、ああ、すまない、こちらも焦っていて……」

 反射的に謝罪を返すが、ようやく気が付いた。ぶつかった少年は、日本の学生としか思えない服装をしている。

「キミは……?」

 困惑する鶴田、ぶつかった少年も驚いた顔をしている。そして、遅れて走ってくる真坂。

「置いてかないでよぉ、もぉっ!」

 秘術の恩恵の無い普通の女性である真坂は息が上がっている。

「すまない、ジャージを着た人物を見つけたもので、何か話が聞けないかと思ったんだ」

 言い終わる前に少年が口を開く。

「緑のジャージの人! 僕も追いかけてたんです!」

「見たところ、キミも幻視ヴィジョンに巻き込まれた抵抗者なのかな?」

 少年は首をかしげる。

「ヴィジョン……? ていこうしゃ……?」

「む、キミも事情をよく知らない状態か。とはいえ、今の速度でぶつかっても無事ということは秘術の守りがあるのだろう」

 少年はますます困惑した様子で眉根を寄せる。

「ひじゅつ……? あの、もしかして、おふたりも前世の記憶があるんですか?」

 なるほど、この少年は先生と出会っていないらしい。

「そうだ、と言いたいが、これは前世の記憶というわけではないらしい。知っている範囲で説明してあげたいところだが、ジャージの人物を追おう。昨日の幻視ヴィジョンでも見かけたということは、少なくとも私より事情を知っているに違いない」

「わかりました! あっちに向かったと思います!」

 鶴田は再び駆け出そうとしたが、不意に腕を引かれる。

「待って! 陸上の選手みたいな速さで走られたらついていけないですよ!」

 真坂が必死な表情で訴えかける。

「守ってくれるって約束したじゃないですか!」

「たしかに、そうだった、すまない気がはやってしまって」

 幸い、ジャージの人物はのんびり歩いているように見えた。少しの早足程度でも追いつけるだろう。

「僕、先に行ってます!」

 そう言って少年は行ってしまった。

「真坂さん、できるだけ早足で追いかける」

「わ、わかりました!」

 事情を飲み込めていない顔だが、真坂は置いていかれてはかなわないと何度もうなづいた。そうして、ふたりは歩き出す。ホワイトチャペルの方角へ。

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