8:人類解放戦線
今読み終わった分で借りていた本は一通り片付けた。眼鏡をかけ直して時計を見れば、まだ図書館の閉館には時間がある。重くなってきた腰を上げて、ついでに夕飯を調達しようと出かける準備を整えた。今日は牛丼あたりにしようか、などと思う。自炊でもすれば、ひまな時間をつぶせて財布にも優しいのだろうが、どうやら向いていなかったらしい。キッチンには使用回数が少ないピカピカの調理器具が並んでいる。
図書館には徒歩で向かう。東京都心で三十分歩くと言うと、健康のためですかと聞かれるが、駅やバス停との位置関係が悪く、交通機関を使っても三十分かかるのだから仕方がない。もっとも、このささやかな運動が健康維持に役立っているのは間違いない。
そんなわけで、鶴田は住宅街を歩いていた。静かな午後。都心といっても大抵の人は働きに出ている。驚くほど物音がしないものだ。それが、気付けばいつの間にか、ざわざわと騒がしい人混みに紛れこんでいた。突然のことに驚きとまどう。よくよく見れば、人混みを構成するのは百年は昔の服装をした西洋人ばかり。会話も英語のようで、英会話能力が錆びついてしまった鶴田には断片的なことしか理解できなかった。
どうやら、女性が殺されていたらしい。するとこの人混みは野次馬か。腹を裂かれた死体だったらしい。周囲を見渡せば、ここは明らかに日本ではない。ヨーロッパ風の古い家が立ち並び、空気がとても悪い。夢でも見ているのだろうかと自分の頬をつねってみれば、しっかりと痛い。小説の中に飛び込んだような事態を前にただ呆然と立ちつくすしかなかった。
しばらくそうしていたが、人混みの向こう側に目立つ色の服が見えて興味をひかれた。緑色のジャージの日本人に見える若者。どう考えても、この舞台設定に合わない。そう思った直後に、鶴田は東京の住宅街に立っていた。キツネにつままれたような気分とはこのことか。さっきの光景はなんだったのだろうと考えながら歩いていると、ぽつりぽつりと記憶が浮かんできた。見知らぬ記憶を思い出したのだ。
自分は十九世紀のロンドンで働くスコットランドヤードの刑事だ。名前はエドワード・バダム。二十七歳。巡査部長に昇格し、ホワイトチャペルに異動したばかり。治安の悪いイーストエンドの中でも特に悪所だが、その分、警察としての職務を遂行するにはもってこいだろう。正義感の強い、真面目な刑事。知り合いは皆、そう言って称えてくれる。アニー・チャップマンのかわいそうな遺体を見て燃え上がったのは義憤。異常な犯罪者をこれ以上のさばらせておくわけにはいかない。必ず捕らえ、法で裁かなくてはならない。
「なんだ、この記憶は……」
思わず声に出してつぶやき、
「メアリー・アン・ニコルズ……メアリー・ジェーン・ケリー」
連想して口をついて出たふたりのメアリーの名前に猛烈な既視感を覚える。しばらく三人のイギリス人女性の名前を繰り返しつぶやいていたが、不意に思い出して膝を手で打った。
「ジャック・ザ・リッパーだ」
切り裂きジャックを題材にした本は何冊か読んだことがある。エドワード・バダムという刑事の名前までは覚えていなかったが、今しがた思い出した謎の記憶がすべてを補完した。
「そうか、これは前世の記憶というやつか」
自分で言っていておかしく感じるが、輪廻転生を題材にした本も多く読んできたため、なんとなく、すとんと
「違うよ」
自室でひとりさみしく本を読む日々のせいで独り言の癖がついていたが、それに応える声があるとは、驚きのあまり体がビクリと震える。
「ああ、すまないね、急に声をかけてしまって」
いつのまにかベンチのとなりに座っていたのは、大学生ぐらいのくせっ毛の女性だった。
「な、ちが、え」
気が動転してしどろもどろ。
「はじめまして、先生と呼んでくれ、私のことは。かなり歳の差はあるけれどね、そういう役職名なんだ」
二十歳前後とは思えないしゃべり方をする女性、自称先生は鶴田の混乱をよそに話し続ける。
「輪廻転生も死後の世界も存在しない。あるのはただ地球の記憶、アカシックレコードだけだよ」
「宗教の勧誘なら遠慮させてもらいたいな」
「ははは、勧誘には違いないけれどね、その手のアレじゃないんだ。まっとうな知的好奇心があるなら、話を聞いてくれるとうれしい。さっき、見知らぬ場所に迷い込んで、自分ではない誰かの記憶を思い出しただろう?」
自分の頭の中だけのことだと思っていた体験を言い当てられ、ドキリとする。
「知的好奇心か、知りたくないと言えば嘘になる。これは一体?」
「いいね、実にいい。好奇心は猫を殺すと言うけれどね、探究心を無くしたら終わりだよ。少なくとも私はそうだ」
つかみどころのない、ふた回り近く年下の女性に底知れぬものを感じて、鶴田は選択を間違えたかもしれないと内心しぶい顔をした。
「話を戻そうか。地球の記憶には、地上で起きた出来事や、生きた人間の記憶が文字通りすべて記録されている。レイライン、龍脈と呼ばれる霊力の流れが人間の脳神経のように繋がり、保持しているんだ、記憶をね」
オカルト雑誌に書かれていそうな話。うさんくさいが鶴田はひまをしていたところだ。奇妙な話を最後まで聞くことにした。
「ただね、地球の記憶は人間の記憶と同じで曖昧だ。あやふやなところもあれば間違っているところもある。あとから上書きされてしまうことも多い」
覚えがあるだろうと顔をのぞかれ、まあ、と適当な返事をする。
「夢を見るだろう、人間は、夜寝ている時の。記憶の整理のために起きる事象らしい、あれは。同じことが地球の記憶でも起こる。我々はそれを
アカシックレコード、レイライン、ヴィジョン。スピリチュアル系のオカルトで好まれる単語だ。そんな乾いた感想が浮かぶ。
「そうして、人に関する記憶が夢となって地上に出た時、それは魂と結びつく。それが過去の誰かの記憶を思い出す原因だよ。生まれ変わりじゃない、記憶がコピーされたようなものだ」
「はぁ、そうですか」
「ははは、なるほど、実践無くしては
最後まで聞くのはつらいかもしれない。鶴田がそんなことを思っていると、自分の頭の中に声が響いた。
「たとえば、これは念話だ。テレパシーというやつだね」
目の前の若い娘は口を閉じたままだし、明らかに耳から入ってきた音ではない。
「こんなこともできるよ」
先生を名乗る女性が片手を軽く上げると、足元の影が細長く伸び、まるで鎖のような形状に変化、そのまま地面から抜け出して目の前をのぼり、頭上の木の枝を打った。木の枝は折れ、すぐ近くに落ちてくる。影は元通りだ。
「これは秘術。アカシックレコードから記憶を得た者は、地球の記憶との霊力の繋がりを得て、限定的な
鶴田は困惑しながらも、何かタネがある詐術のはずだと周囲を見渡す。
「なかなか疑り深いね、いい姿勢だ。だけど、自分が同じようなことをできたら、どうする?」
「どうするも何も、それだって、私が自分でやったと思わせるんだろう?」
「実にいい。世界を疑ってかかるための資質に満ちているよ。そうだね、キミの魂の色は……やぁ、おそろいだ、私と。キミは影を操れるはずだ」
動かしてみるといい。そう言って足元の自分たちの影を指差した。何を馬鹿な、今日読んだ異能力バトル小説じゃあるまいし。そう思いながらも、毒を喰らわば皿まで、茶番に付き合うことにした。
鶴田は自分自身の影をじっと見る。影とは何か。光が
「なん、だ、これは……」
今までの常識が、四十年近く生きてきた世界が、裏返ったような思いがした。同時に、エキサイトした。なにやら確信のようなものがあり、ためしに細く変形させていた影を手の形に変えてみる。それを先ほど落ちた枝へと伸ばす。木肌のざらついた感触。この影の手は触覚がある。思いもよらぬ出来事に鳥肌が立った。影の手を地面から起こす。にゅっと立ち上がる実体の無い黒い影の手。自由に動かせる奇怪な影を目の前に近付け、自分本来の手で触れてみる。まるで右手と左手を合わせたような感覚。つまり、影の手はまるきり自分の手である。鶴田は自分に起きている出来事を頭で消化しきれず、天を仰いだ。
「百聞は一見にしかず。こんなふうにね、秘術の扱い方や、世界の真実を教えるから先生なんだ、私たちは」
「私たち……たち、ということは他にもいるのか?」
「いるとも。過去の誰かの記憶に飲まれ、完全に成り代わられてしまった者は
鶴田は先程までとは打って変わって真剣に聞き入る。
「
「戦い……」
「
「秘術の強さに差があるということか?」
「その通りだよ、飲み込みが早くて助かるね。私たち抵抗者は彼らからすれば、半覚醒者だそうだ。現在の自分にしがみつくのをやめて、過去の記憶に身を委ねれば、完全な力を扱えるらしい」
先生は鶴田の表情をちらりと見た。彼は真剣に聞き入っている。
「私は私だ。冗談ではないよ、過去の誰かにこの体を明け渡すなんて。だけどね、彼らにとって記憶の乗り物でしかないんだ、肉体というものは。体を乗り換え続けて永遠に生きるつもりらしい」
「質問だ」
「いいとも、何でも聞いてほしい。キミの疑問に答えるために今ここにいるんだ、私は」
「今の言い方だと、過去の誰かの記憶を思い出してしまった私は、その誰かに乗っ取られてしまう可能性があるのか?」
「自分が自分であるという意志が尽きれば。自分を自分たらしめている日常との繋がりを失えば。私たちは簡単にあっち側に行ってしまう。つまり答えはイエスだよ。可能性なんて生温いものじゃない。確定事項だ、抗うのをやめれば」
絶句してしまう。自分が自分ではなくなる。それは死とは違うのだろうか。なんだか、より恐ろしいことのように鶴田には思えた。
「さて、ここいらで一度勧誘しておこう。抵抗者の組織がある。人類解放戦線という仰々しい名前なのだけれどね。特に義務やノルマのようなものは無い。先生などの役職に就かなければね」
「メリットは?」
「
「……デメリットは?」
「今言った通り、私たち先生から、お願いをされる。人々の日常を守るため、命がけで戦ってほしいとね」
鶴田は考えこむ。先生が言っていることすべてが真実とは限らない。嘘をついて悪事に加担させようとしているかもしれないし、断ってもかまわないと言いながら、実際は強制的に捨て駒にされる可能性だってある。
「今ここで決断しなければならないということなんてないよ。まだまだあるしね、伝えていないことも。情報が揃ってから、よく考えて自分の意志で決めてほしい」
「そうさせてもらおう」
疲れた息を吐く。今聞いた話を実感として消化するには時間がかかりそうだ。
「疲れているようだね、今日はこのぐらいにしておこうか。また会いに来るよ。なかなかいそがしい身なんだ、先生というのは」
先生が立ち上がる。
「連絡先は?」
「いらないよ、キミの魂の色は覚えた。レイラインで繋がっている限り、いつでも念話で声をかけられる。
そう言って、くせっ毛の娘は静かに去っていった。鶴田は混乱した頭を抱えながら、図書館で本を返却し、新たに借りることなく帰宅する。世の中のすべてを知るなど不可能とは思っていたが、どうやら想像以上に知らないことは多そうだ。
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