7:秘術の戦場

 塔の上から、ひとりの男がロンドンの街を眺めている。秘術によって強化された視力がふたりの抵抗者をハッキリととらえていた。

「シャーロック・ホームズとジャック・ザ・リッパーが出会うというのも、面白い余興だね。実験以外に楽しみがふたつもあるなんて、この時代と場所を選んで良かったよ」

 サン・ジェルマン伯爵。秘術寺院の高位幹部にして自称最初の覚知者かくちしゃ。人類のあらゆる歴史を見てきたと豪語する稀代のペテン師。どこまでが真実かは不明だが、彼が覚知者リベレーターである以上、史実で語られる詐欺師という肩書きは事実ではないだろう。

「ジャックの記憶はおそらく彼の高弟こうていのうちのひとり。秘術研究に行きづまりが生じている今、彼の記憶を探し出すことは優先度の高い事項だ」

 独り言かと思われたサン・ジェルマンの言葉だが、背後の暗がりにうずくまる人影があった。

「それは寺院の機密なのでは? なぜ私に聞かせる?」

「キミたちの記憶、ああいや、キミのと言った方が適切だったかな? まぁ、キミが記憶を取り戻してくれると、我々としては好都合なんだ。彼の至った境地を垣間見ることができれば、少しは思い出す足しになるかと思ってね」

 暗がりの人影が鼻で笑った。

「寺院の幹部が取引したいと言うから来てみれば、実にくだらないことだったな。私は現行人類の秘術の発展になど興味は無い」

「それは残念だ。てっきりキミは自分のことを思い出したくて仕方がないと思っていたのだけどね」

「必要ない。名前を失おうと、記憶を失おうと、我が野望は止められない」

 サン・ジェルマンは肩をすくめた。

「それはそれとしてサン・ジェルマン。私の庭で勝手に実験など始めた落とし前をつけてもらおうか」

 暗がりから地味な男が姿を表す。どこにでもいるような、中肉中背の中年男性。手には複雑な紋様の彫られた剣を構えている。

「少しぐらい東京の人口が減ったところで機関が困ることなどないだろうに」

 手に一冊の本を構えながらサン・ジェルマンが振り返った。

「いくらキミが何人死のうと痛くもかゆくもないとはいえ、交渉役ネゴシエーターたったひとりで私をどうこうできると思われているのは不愉快だね」

 塔の上の強風がひとつに束ねられ、旋風を形作ってゆく。人知れず、覚知者リベレーター同士の超常の戦いが始まる。

「交渉が決裂すれば戦闘になるものだ。あまり私を見くびらないほうがいい」

 言うが早いか交渉役ネゴシエーターの左手から閃光が発せられ、強い光がサン・ジェルマンの目をくらませる。

「初手から小細工でそう言われてもね」

 一瞬とはいえ真っ白な視界の中、剣を振るう風切り音。正確に首を狙ってきていると、周囲の風を掌握しているサン・ジェルマンにはハッキリわかる。手にした本から紫色に輝く光球を発生させ、首に迫る剣を無視して交渉役ネゴシエーターへと放った。至近距離で炸裂したそれはこまかな輝きとなって両者に襲いかかる。だが、お互いに一歩も退かず、剣は首へと届いた。しかし、それは鉄骨にでも当たったかのように首で止まり、紫の破片はどちらにも突き刺さることなく弾かれて消える。

「その小細工に敗れるがいい」

 交渉役ネゴシエーターの剣は押し当てられたまま引かれ、同時に左手から燃えさかる鎖が顕現けんげん。本を持ったサン・ジェルマンの右手が絡め取られる。しかし、首から鮮血がほとばしることもなく、サン・ジェルマンの左手から光の衝撃が放たれた。交渉役ネゴシエーターの体ははじき飛ばされ宙に舞うが、炎の鎖によって中空で止まることになる。そこへ、周囲で渦巻いていた風が刃となって襲いかかった。常人であれば無数の刃に切り刻まれ、着地する頃にはミンチとなっていただろう、しかし無傷。

「チェインデスマッチというわけか。キミは魔術師だったはずだが、面白い趣向だね」

 サン・ジェルマンは鎖に繋がれた右腕から左手に本を持ち替え、相手の剣を注視した。

「お前は肉弾戦が嫌いだろう?」

 交渉役ネゴシエーターはそう言って鎖を引きながら刺突の構えで剣を繰り出す。サン・ジェルマンは器用に本を閉じ、盾として刃を止めた。

「嫌いだからといって不得手ふえてというわけでもないさ」

 ぎりぎりと引き合う短い炎の鎖。交渉役ネゴシエーターが素早く剣による突きを幾度も繰り出す。だが、サン・ジェルマンは言葉通りことごとく本で受けてみせた。止まらない刺突の嵐に対応しながら、おや、と声を漏らす。

「その剣、面白い遺物だね、当てる度に霊力を吸い取る魔剣か」

 不敵に笑う交渉役ネゴシエーターは速度を上げながら攻撃を続ける。サン・ジェルマンの言い当てた通り、刃は当たる度に彼の霊力を吸収していた。遺物で防御をしたところで、確実に消耗していく小細工だ。

「ならば、こんな舞台はどうだろう」

 サン・ジェルマンの言葉と同時に交渉役ネゴシエーターの足下が爆発する。衝撃によって二人の覚知者リベレーターは吹き飛ばされ、塔から空へ。鎖で繋がれたまま、自由落下の空中戦。足場が無いため剣の突きは腕の力だけのものとなり精彩を欠く。対してサン・ジェルマンは風の刃を操り交渉役ネゴシエーターの体に斬撃を見舞い続けた。

 地面に激突する前に、舌打ちをした交渉役ネゴシエーターは炎の鎖を爆破して、その衝撃でサン・ジェルマンから離れる。塔の壁に左手と左足を吸い付かせ、そこに留まった。空気のクッションによりひとつはずんでから地面に降り立ったサン・ジェルマンがそれを見上げる。

「まだ続けるつもりかな?」

「やめる理由が無かろう」

 交渉役ネゴシエーターが剣で宙に文字を刻むと、何も知らずにサン・ジェルマンの周囲を歩いていた通行人たちが途端に表情を失い彼に殺到する。手を伸ばし、触れた者から次々に爆発していった。爆炎に次ぐ爆炎。それは辺り一帯が無人になるまで途切れることなくサン・ジェルマンを襲い続ける。最後のひとりが爆発した時には塔の壁から交渉役ネゴシエーターは消えていた。

「本当に小細工が好きだね、今度はかくれんぼかな?」

 爆破により抉れた地面に立つサン・ジェルマンは、それでも無傷。石畳だった周囲の瓦礫を浮遊させ、自身の周りを旋回させる。建物の影から何かが射出された。それは影でできた矢。浮遊する瓦礫が盾となり、同時に別の瓦礫が矢の射出元へと飛んでいく。砲弾のように壁を破壊する瓦礫によって隠れ場所の建物は崩れ去った。しかし、そこに交渉役ネゴシエーターの姿は無く、別の死角から影の矢が飛来する。そんな攻防が何度続いただろうか、サン・ジェルマンの操る瓦礫はほとんど無くなり、周囲の建物は壊滅、交渉役ネゴシエーターが隠れられる場所もなくなった。

「次は何をしてくれるのだろうね」

 言葉が終わらぬうちにサン・ジェルマンの影から漆黒の腕が伸び、足をつかむ。同時に瓦礫の裏に伏せていた交渉役ネゴシエーターが剣を構えて突進してきた。

「小細工が尽きるには早いだろう」

 走る交渉役ネゴシエーターの足下から火柱が立ちのぼる。ぎりぎりでかわし、なおもサン・ジェルマンに肉薄しようとするところへ紫の光弾が飛んでいく。足をつかまれようと、そもそも移動する気の無いサン・ジェルマンに意味はない。だが、果たして相手は無策で突撃しているのだろうか。否、サン・ジェルマンは徐々に徐々に影の中に引きずりこまれている。

「第三ラウンドは私の領域だ」

 攻撃をかわすため旋回するように接近する交渉役ネゴシエーターは、そう言葉を発すると充分な距離からサン・ジェルマンに飛びかかった。

「少しは楽しめそうだね」

 刃を本で受けながら、サン・ジェルマンは微笑んだ。二人の影が重なると、影への沈みこみは急速に進み、二人とも地面に飲まれていく。後には廃墟と化した街並みが残されていた。


 上下もわからない暗闇の中。浮遊感が三半規管を狂わせる。ここは秘術によって創られた影の空間。サン・ジェルマンから敵の姿は視認できない。唐突に背中に衝撃が走る。二回、三回と異なる方向から一方的な攻撃が続いたところで、四度目の攻撃はサン・ジェルマンの手元で圧縮された闇が盾となって受け止められる。

えてきたよ、キミの優位は失われた、ここからどうやって私を倒すつもりだい?」

 あらゆる方向から笑い声が響き渡る。

耄碌もうろくしたか、サン・ジェルマン。お前はもう負けている、ここからどうやって出るつもりだ?」

「どうって、耄碌もうろくしたのはキミの方だろう。私は自由だ、行きたい時に行きたい場所へ行く。この秘術はすでに解析済みだ」

 暗闇の中でサン・ジェルマンが腕を振る。拳に光を纏わせているが、影だけで構成された空間でそれは何も照らし出さない。だが、その拳は何かを打ち砕いだ。ガラスのように闇に亀裂が入る。バラバラと音もなく崩れ落ちる闇の破片。二人が立っていたのは元の破壊された広場だった。交渉役ネゴシエーターはすぐ近く。剣を構えて冷静に言葉を発した。

「現行人類の時代になってから、失伝したあれを使ったのは初めてのはずだが」

「進歩が無いねキミは。言っただろう、解析したと」

「あの短い時間でか、どうやら寺院はただ秘術で遊んでいただけではないようだな」

「キミとは時々こうして遊ぶのが良さそうだ。失われた秘術をもっと見せてくれるのなら、実験よりも喜んでこちらに時間を割こうじゃないか」

 お互いが次にどう動くのか、二人の覚知者リベレーター膠着こうちゃく状態に陥る。

「断る。私の知識を分けてやる義理はない」

「そう言わずに秘術の発展に協力してほしいものだ。機関の目的と寺院の目的は共存できる、そうだろう?」

「本気で言ってるわけではないだろう、このペテン師が」

「心外だね、少なくとも私はキミの目的を邪魔するつもりはないというのに」

「だったら私の庭での悪戯をすぐにやめろ」

「いいとも、研究に協力してくれるのであれば」

「話にならないな、第四ラウンドといこう」

「悪い話ではないと思うのだけどね。まぁいい、そういうことなら、失伝した秘術を使いたくなるよう私も努力しようじゃないか」

 サン・ジェルマンの右手に光の剣が現れる。左手の本から光弾を放つと同時に駆け出した。交渉役ネゴシエーターも影の矢を放ちつつ横へと走り出す。覚知者リベレーター同士の戦いはまだまだ続くらしい。

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