春のすみれ

 ちちち、とどこかで鳥の声がしたのを見てハルノは目を開いた。

 少し眠ってしまっていたらしいと、腕を上にあげて伸びをする。

 身体を起こしたハルノがいるのは、花畑であった。

 小さな白い花が一面に咲き乱れ、見る者の目を楽しませる。

 けれど唯一、普通の花畑と異なるのは、それが密閉された建物内部にあるということ。

 ハルノは天井を見上げると、そこには無機質な白い空が広がっている。


 青く澄んだ空はどこにも見えない。


 わかってはいるのに、それを見るたびに心が落胆するのには未だに慣れることはなかった。


 ずり、ずり、と引きずるような音を立てながら、ゆっくりと何かが近づいてくる音がして、ハルノはそちらに顔を向けた。

「ヴィオラ」

 そして、ハルノはその音の主へと声をかける。

「今日はね、あの本の続きを読もうと思って、持って来たよ」

 ヴィオラ、と呼ばれた生き物は、ハルノの声を聞いてピンッと触角を動かす。

 そして無数の足を蠢かせ、長い身体をくねらせながら素早くハルノに近づく。

「ぁ、ぅ!」

 そして、まるで蛇がとぐろを巻くようにぐるりとハルノの周りをその身体で囲んだヴィオラは、最後、座り込んだハルノの腿の上にころりと頭を乗せた。

 じっと、何かを期待するかのようにハルノのことを見上げるヴィオラに、ハルノは微笑んでそっとその髪に手を置く。

「……いい子、読んであげるね」

 ハルノがもう片方の手で本を開いて、ヴィオラの長い髪を撫でてあげれば、ヴィオラは嬉しそうすりすりとハルノの腹部に顔を摺り寄せる。

 その様子を見てから、ハルノは汚れて、表面をテープで張り付けた絵本に記された文字を読み上げていく。


「あなたと、お友達になりたい」


「ファニーは妖精の王様にそう言いました。王様は驚いて言葉を失います。今まで、そんな言葉を彼にかけてくれた相手なんていませんでした」


「妖精の王様は言いました。なぜそんなことをしてくれるんだい? と、不思議でたまらなかったのです」


「ファニーは答えました」


「だって、あなたは寂しそうな目をしている。きっと、今まで辛いことや悲しいことがたくさんあっても、一人で抱えてきたんでしょう? 誰にもそれを言う相手がいなかったんでしょう?」


「私はあなたの、いつ見ても悲しそうな顔のあなたの、笑顔が見たいと思ったんだ」


「だって、友達の笑顔は、たくさんあったほうがいいじゃないか!」


「ずっと一人で大切なものを護っていたあなたはとても勇敢で、立派で、そんなあなたのことを知りたいと思う。だから、お願い、私の手を取って──」


「そして、友達になってくれない?」


 そこまで読んだところで、ハルノは自身の膝の上に目を向けた。

 膝から下のない、ハルノの足の上。

 そこには、ハルノの読み聞かせを聞いて眠そうに目を細めるヴィオラの姿がある。

「……ヴィオラ」

 ハルノの呼び声を聞いて、ヴィオラはぱちぱちと瞬きをする。

 名前に反応した、というよりも、ハルノが何か呼びかけたのに気づいたから顔を上げた様子だった。

 そして頭を撫でていたハルノの手を、鉤爪のついた大きな手でそっと握り、ぺろぺろと舐める。

「……私のこと、覚えている?」

 ハルノの問いかけに、ヴィオラは小さく首を傾げ、背中の羽根がぶるぶると震えて羽音を立たせる。

 その問いの意味など理解していなそうな様子に、ハルノは寂しげな表情を浮かべた。

「ギュ……ゥ……」

 けれども、不安そうにすんすんと鼻を鳴らすヴィオラの姿を見て、慌てて笑みを作る。

「ううん、大丈夫、気にしないで……気にしなくていいから……」

 ハルノはそんなヴィオラを抱きしめた。

 きょとんとするヴィオラはその意味がわかっていなさそうに眼をぱちくりとさせたあと、ふにゃふにゃと力なく笑った。

 そして安心したようにハルノに寄り添うと、その細い肩のあたりをあぐあぐと甘噛みする。


「アヤムラ・ハルノ。時間だ。S-999Xを連れてこい」

 

 そんな二人の時間に冷たい声を挟んだのは、白衣を着た数人の研究員だった。

 ハルノが顔をあげて返事をしようとするのとは対照的に、ヴィオラは素早くそちらに目線を動かして、ギロリと近づいてくる彼らを強く睨みつける。

「ギィ、グ、が、ぁうッ!」

 ハルノの手を強引に掴もうとする研究員に向けて、ヴィオラは歯をむき出しにして威嚇する。

 何枚も重なった羽根を大きく震わせて、振動を放つ。

 ぶわりと周りの空気が一気に上がっていくのをハルノは感じた。

 今すぐにでも、彼女は彼らに襲い掛かり、一瞬で彼らを物言わぬ肉の塊へと変えてしまえる。

 目を吊り上げて、その鉤爪のついた巨大な腕でハルノを抱きしめながら研究員たちへ唸り声を出すヴィオラに、慌ててハルノは声を出した。

「だめ! だめだめ。やめて、ね? 私の言うこときいて? おねがい、おねがい、おねがい!」

 ハルノはヴィオラの頭をぎゅっと抱きしめる。

 そして、そっとその額の触角の生えているあたりにキスを落とした。

 背中に生えている羽根の根本の辺りを優しく摩り「いいこ、いいこ」と何度も何度も声をかける。

「ギ……」

 そうするとヴィオラはしゅるしゅると威嚇行為を解いて、研究員たちにはもはや興味などないとばかりにハルノに顔を摺り寄せる。

 ハルノは落ち着いたヴィオラの頭を撫でてやりながら、近くにあった銀色の車椅子を自分の近づけようとする。

 けれども、その様子に気づいたヴィオラは、まるでそんなもの必要ないというように、長い尾を伸ばすと、それを中庭を密封する壁へと勢いよく投げ飛ばす。

 ガシャンッと酷い音がして、壁にクレーターを作りながら車椅子は粉々に砕け散った。

 そんな様子を研究員たちが怯えたように見る中、ヴィオラはどこか得意げな表情を浮かべて、ハルノを抱き上げた。

「グ、ギュウッ、グゥ! ギ、ギぅ、ァ!」

 ハルノを大事そうに両手で抱き上げたヴィオラは、顔をハルノに近づける。

 ぺろぺろとハルノの額を、瞼を、頬を舐めて、無数の足の生える胴体であり尾を大きく揺らめかせた。

 そして、ハルノを抱きしめたまま、ずり、ずりとヴィオラは歩き始める。

 ハルノの意思をわかっているかのように、研究員たちが出てきた部屋の奥に進んでいく。


「……大丈夫、大丈夫だよ」


 まるでハルノのことしか見えていないかのように、嬉しそうに、幸せそうに、彼女を抱きしめながら進むヴィオラを、ハルノは抱きしめた。

 ハルノのヒーローを安心させるように、寂しくないように。


「私を、信じて」




 ──それがハルノにとっての救いであると、言い聞かせて。




『エマージェンシー・コール・レス』 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

私を救ってくれた憧れのヒーローが世界の敵になったため、今度は私が彼女を助けにいこうと思います。 もこもこ毛玉カーニバル! @fwfwkdmfes

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ