第9話


 泥の道が続いていて、進むにつれて光も届かなくなっていく。

 ヘルメットにつけた懐中電灯でやっとこさ前を認識できるようなもの。

 何時間歩いたかも、それくらい進んだのかもわからない。

 任務に必要な最低限の装備で飛び出してきたハルノには、あまりにも過酷であった。

「は、はあっ、はあ、はあっ」

 息を荒げながら、ハルノは額の汗を袖で拭う。

 どこまでこの道が続いているかはわからない。

 もう片方の手にもった探査機であちこち探してみるものの、少し反応があると思ったらすぐに消えてしまう、の連続。

 それが誤作動なのかなんなのかも、わからない。

 けれども、一縷の望みをかけてハルノは進み続けていた。

 幸い、道中で怪物は出てこず、現れるのは蝙蝠ばかり。

 こんなところで怪物が出てきたら自分は一瞬で死んでしまうだろうな、なんて自嘲気味に思いながらもハルノが何度押したかもわからない探査機のスイッチを押すと、「反応アリ」の表示が出てくる。

 しかも、それは今までにないほどの強い反応だ。

 ハルノは辺りを見回すけれども、暗いそこでは何も見えない。 

「レディ! レディ! どこかにいるの!? いるなら返事を──ッ」

 思わず力を振り絞り、大声を出してその名前を呼ぶハルノであったが、一歩踏み出したと同時に、沼地のような地面が崩れ、ハルノはその場から勢いよく転がり落ちた。

 そしてたくさんの土埃とともに、流されていく。

 声も出せずに目をぎゅっとつぶって、ハルノがその流れに身を任せていると、土砂が流れる音が途絶えた。

 ハルノはゆっくりと目を開く。

 全身が泥にまみれて、ぐちゃぐちゃだった。けれども、うまく受け身が取れたのか、怪我はほとんどない。

 よろよろとゆっくりハルノが立ち上がると、そこは地下深くの開けた場所だと気づいた。

 ハルノが今まで探査機でチェックしていた場所よりもさらに深い層のようであったが、そこには地下だと言うのに、なぜか真っ白な光が差し込んでいる。

 目の前には、こんな場所であるはずのない霧がうっすらと立ち込めていた。

 ハルノが持っていた小型の探知機は、先ほどの土砂に紛れてどこかに行ってしまったが、それでも背負っているリュックは無事なようで、それを背負い直しながらハルノはどこか異様なその場所をゆっくりと進んでいく。


 ──不可解な霧が出ている理由おそらく、どこかの怪物がこれを出しているのだ。


 油断はできないと、ハルノが全身の神経をとがらせていると、そんな霧がゆっくりと晴れていく。

 視界が見えるようになって、辺りを見回すハルノは驚いて立ち止まる。

 その場所には地面の奥深くにあるとは思えない、綺麗に彫られた石の柱が左右にずらりと並んでいた。

 まるで、古代の神殿のように。


 途端、鼻にむせ返るほどに血の匂いハルノに襲い掛かってきた。


「……ッ」


 よく見えるようになった周囲を見回し、思わず悲鳴を上げそうになるのをハルノはなんとか堪える。

 その場で生理的な吐き気が押し寄せて、膝をつきそうになるのをぐっと我慢し、口元を手で押さえる。


 ハルノの足元にあったのは、一人の男の頭だった。

 その頭は半分に割れて、脳の断面図が見えており、見開いた方目が虚空を見つめている。

 ハルノにはその顔に見覚えがあった。

 レディとともにこの大型任務に同行した、ベテランのヒーローの一人だ。

 レディには及ばずとも、実力のあるヒーローで、そう簡単にやられるような人ではない。

 口元を押さえたまま、ハルノはゆっくりと、警戒しながら辺りを見回す。

 

 真っ白な地面に、まるで子どもが絵具を零したような真っ赤なマーブル模様があちらこちらに広がっている。

 けれども、それが絵具ではなく、人間の血であることは明白だった。

 そのマーブル模様の上に、まるで供えられているかのように、一人、また一人と、ぐちゃぐちゃになって、捻じられ、細切れになった人間の身体の部位が置かれているからだ。


 どれもこれも、皆、任務に行った者たちのそれだというのがハルノにはすぐにわかった。


「~~~ッ!」


 ──やっぱり、ここだったんだ。


 胃が逆流するような味がするのを、ハルノは無理矢理飲みこむ。

 現場に出ていれば、このようなことは珍しくもなんともない。

 けれども、新人のハルノにとっては、これほどまでに衝撃的で残虐な現場を見るのは初めてのこと。

 口の中に胃液が押し寄せてくるのを飲み下せたのは、一番探したい人が見つかっていないという目的のためだ。


 ──レディは、レディはどこ!?


 肉塊にされた彼らが怪物にやられたことは間違いない。

 寄生された様子はないし、その犯人である怪物はまだどこかで生きているだろう。

 せめてレディの遺体だけでも見つかれば、と心の底で念じるハルノは、ぴちゃぴちゃと赤いマーブル模様を踏みつけながら前に進んでいく。


 どこまでも続いていくかのような真っ白な場所のずっと向こう。

 クレーターのできた地面の上、岩山のような大きな黒い影が動くのが、ハルノには見えた。


「……レディ?」


 思わず恐る恐る声をかけてしまったのは、ハルノがそうであってほしいと願った気持ちの表れでもあった。

 ハルノの声に反応するように、岩山はずるりと動いて、崩れていく。

 一歩、また一歩と、夢遊病の患者のようにおもむろに近づいたハルノは、その姿を目の当たりにして、呆然とした。



 ──そこにいたのはハルノの大好きなヒーローではない。



 “それ”は全長何十メートルあるかもわからない、ムカデのような身体を持っていた。


 その大きく長い尾のような胴体には無数の足がついていて、短いものから、それだけで何メートルもある長いものもあり、その一つ一つがまるで意思を持っているかのようにガリガリと音を立てて地面を引っかき、蠢いている。

 女の上半身がついているが、その背中には蜻蛉のような透明で薄く模様の入った羽長い羽根がこれまたびっしりとその背中を覆い、地面に垂れていた。

 長く豊かな金の髪の毛がその胸元や目元を隠している様子は、一見すると普通の人間に見える。

 けれどもだらりと垂れている長く伸びた両腕からは、獣のように無数の毛が生え、その毛の中から、真っ黒で巨大な鉤爪が生えていた。

 額の辺りからは地面に垂れるほどの長い触角が生えて、それが時折ぶるぶると震えている。


 “それ”の両目は閉じられていて、その表情からは何も読み取れない。

 けれどもその顔は、あのレディ・エリュテイアそのもの。


 ──いや、それは、おぞましい、ただの怪物だった。


「レディ……? レディ、でしょ……? レディ・エリュテイア……!?」

 ハルノは叫ぶように怪物に呼びかける。

 寄生型の怪物に身体ごと乗っ取られているのであれば、言葉が通じるかもわからない。

 けれども、そう呼びかけずにはいられなかった。

「き……聞こえているなら返事をして! あなたを助けに来た! 私の声が聞こえる!?」

 怪物はハルノの声を聞いて反応するかのように、無数の足が生えた尾を動かす。

 カサカサカサ、と音を立てて、ハルノの方へと身体が向けられるが、怪物の瞳は開かない。


 そして、物凄い勢いで尾が地面に叩きつけられた。


「うわぁッ!?」

 一瞬で地面が大きく抉れ、その衝撃でハルノは吹き飛ばされる。

 咄嗟に受け身をとって地面に転がるハルノの視界の向こうで、ゆっくりと怪物の尾が揺らめくのが見えた。


 殺される。


 本能的にハルノにはわかった。

 もはやあれに人の理性はなく、まごうことない怪物であると、咄嗟に理解する。

 ハルノはポケットの中を探り、手のひら大の鉄の塊があるのを確認した。


 それは、対怪物用の爆発装置。


 もし、レディを発見し、怪物に寄生されていたとしたら使うようにと、隊員に配られたそれ。

 それは怪物の心臓付近に密着させ、取り外した遠隔のスイッチを押すことで怪物もろとも爆発させることができるというものだ。

 どんなに巨大で、強い怪物でも、弱点はある。

 心臓というのはどんな怪物でも致命的な弱点だ。それは変わらない。


 ハルノは、砂埃の向こう側で蠢く大きな影をじっと見つめる。


 ──あれは、完全に寄生されている。


 過去の事例でも、怪物に寄生されていて救出できたのは六割が限度であるとハルノは知っていた。

 けれど、目の前のあれはどうだろう。

 見たところ、六割どころか、ほぼ完全に同化が進んでいるように見えた。


 私に、できるの? レディを、救うことが。


 ハルノは拳を握りしめる。

 目の前の怪物は、ハルノを敵であると認識している。

 すんすん、と怪物は鼻を鳴らして匂いを察知すると、床に垂れさがっていた羽根を持ち上げた。

 ブブブブブ、と小刻みに振動を立てて、無数の羽根を威嚇するかのように鳴らす。

 額辺りの触角が大きく震え、まるで鉄骨のような鋭い鉤爪が地面に食い込んだ。


「ア゛……アアァ゛、ァ゛! ゥ゛ウウッ!」


 怪物は大きな咆哮を上げて、再び尾をハルノに向けて叩きつける。

 すごい速さだが、大きなそれがどこに倒れてくるかの進路はわかりやすい。

 身体を動かすのにまだ慣れていない、そういわんばかりの動きであった。

 ハルノは素早く身を起こすと、右方向に素早く走る。

 数秒後、ハルノがいた場所にクレーターができた、その様子をちらりと見て、ハルノは背筋が凍り付いた。

 あんなもの一撃でも受けたらミンチになってしまうだろう。

 ところどころに落ちていた人々の遺体を思い出す。


 ──あれは、怪物になったレディにやられたんだ。


 信じていた仲間である最強のヒーローが最悪の怪物になってしまった彼らの恐怖はいかほどであったろう。

 どんな風に、そしてなぜレディが怪物と同化をしてしまったのかはハルノにはわからない。

 その時の状況を知るのは、レディと、そして散らばった彼らだけだ。

 奥歯を噛みしめながらハルノは走り続ける。

 このまま走っていてもどうにもならないことは心底理解しているが、ここからどうするかなんて考えてもいなかった。


 逃げる? それとも、レディを、殺す?

 できるの? 私に。


 帰り道は土砂でほとんど塞がれており、下から上るのはほぼ不可能といえるほど損壊していた。

 そもそも、あの怪物を振り切って逃げることが可能なのかと言われたらそれはハルノにもわからない。

 加えて、世界最高峰の身体能力を持つレディを取り込んだ怪物なら、その身体能力がどれほどなのか計り知れない。

「くっ……ッ!」

 腕につけていた通信機は電波が届かない。

 あまりにも深い階層すぎるのだろう。だれもここには来た事がないに違いない。

 ぶおん、と空を切る音がして、ハルノのすぐ後ろの地面が潰れ、その衝撃でハルノは前へと転がる。

「はぁっ、はあっ!」

 すぐさま身体を起こして周囲を確認するが怪物の姿が見えない。

 ハルノは辺りを見回しながら体勢を立て直す。


 ──どこ? どこにいった?


 右を見ても左を見ても、あの巨体は見つからない。

 はっとハルノは気づく。

 青ざめながら天井を見上げると同時に、物凄い質量のものが、重力に任せて勢いよく落ちてきたのだ。

「う、あ゛ァッ」

 咄嗟に、少しだけ身体をずらしたのが功を奏した。

 怪物の手はハルノの頭や胴体ではなく、膝から下を押しつぶしたのだ。

 みるみるうちに広がっていく赤い血だまりに、ハルノは痛みに堪えきれず絶叫する。

「ア゛、ァアッ、ぐ、ぅッ」

 ハルノは身体に力が入らなくなって、その場に勢いよく倒れこんだ。

 怪物が落ちてきた衝撃でハルノの背負っていたリュックのヒモも引きちぎれて、中に入っていた非常食や水、救命用ロープといった必需品がその場に散らばる。

「ギ、グルゥ! ガアア、ぁう、ぐう!」

 怪物はハルノを仕留められなかったことに苛立っているのか、雄たけびを上げてハルノを見下ろしている。

 ハルノの視界にどさり、と何かが落ちた。


 ──それは、出発するときにハルノが思わず入れておいた一冊の絵本。


 この世で一番焦がれた人と交わした、大切な約束。


「っァ、ァ、だ、め……そ、れは……ッ」


 ──あの人のものだ。


 必死に手を伸ばしてハルノはそれを取り戻そうとする。

 けれども、ハルノの手が届かないところにそれは落ちていた。

 痛みで視界がくらくらして、息をするのも辛いほど。

 だというのに、襲ってこない衝撃に、ハルノは不思議に思い、恐る恐る怪物の方を見た。


 ──怪物は、ハルノのリュックから零れ落ちたその本をじっと見つめたままぴたりと動きをとめていた。


 見境なくあたりを攻撃し、蠢いていた無数の足や長い身体も、まるで石になってしまったかのように微動だにしない。

 ただ、そのおぞましい怪物の視線は、ハルノの鞄から零れ落ちた一冊の絵本に向けられていたのだ。


「あ、ァ……? う、ぅ、ァ、ェゥ、ア゛……!?」


 それはまるで赤ん坊の声に似ていた。

 言葉にならないけれども意思表示をしたくて必死な、産まれたばかりの生き物のような、そんな声。

 ずるり、ずるり、と怪物は身体を這いずって、少しずつ絵本の元へと近づいていく。

 血まみれのハルノには一瞥もせず、絵本に覆いかぶさるように顔を近づけると、ゆっくりと長い鉤爪の生えた手を伸ばす。

「え……」

 呆然とそれを見ていることしかできないハルノは思わずそんな小さな声を漏らした。

 びりびりに、跡形もなく引き裂かれるだろうと思っていたのだ。


 けれども、怪物はそれをしなかった。


「う゛、ぅー……ぁ゛ぅ、ううッ」

 カリカリ、カリカリ。

 怪物は大きな鉤爪の一本で本の表紙をそっと触っていた。

 いや、それはまるで、その絵本を読もうと、ページを捲ろうとしているようであった。

「ぁ、ぁあ゛ぅ、ゥ!」

 視線をじっと絵本だけに向けたまま、うわ言のような唸り声を出して、怪物は必死にその絵本を開こうとする。

 けれども、人よりもずっと大きな怪物の腕では、古びた絵本を捲ることなど到底できやしない。

 当然のようにビリ、と音を立てて、鋭い爪が本の表紙に亀裂を入れる。

「ア、ァ……ぁ゛う? う、ぅ゛……?」

 怪物はきょとんとした表情を浮かべたあと、何が起こったかわからないというように首を傾げる。

「う……ぅ゛……ァ?」

 けれども、自分の手で絵本を破ってしまったのに気づいたのか、目を大きく見開き、身体全体をぶるぶると大きく震わせる。

 

「ァ、ァう゛、あ、ァア、ァア゛、ァアあ゛ぅ゛ッ! う゛えええ、ぇ、う゛ッ」


 そして、怪物は身体をのけ反らせて泣き出したのだ。

 お気に入りのおもちゃが壊れてしまった子どものように、怪物の目から大粒の涙が零れ落ちて、地面を、そして古びた絵本を濡らしていく。


「……っ」

 ハルノはまるで人間のように泣きわめく怪物の瞳を見て、硬直した。 


『心配しないで』


 だって、見開かれた怪物の瞳は、まるで晴れ渡った空のような澄んだ青だったのだ。

 それはハルノのヒーローである彼女のものと、同じ色。


 ──これは、おぞましい、怪物?


 ハルノは先ほどそう自分が思ったことを問いかけ直す。

 絵本を前にして泣きわめくこの生き物を、その一言でまとめてしまうのは違うと、ハルノは思ったのだ。

 ぽろぽろと大粒の雫を流しながら、“怪物”はぐしぐしと顔を擦り、でも涙を止めることはできず、癇癪を押さえきれないように地面を引っかく。

 そうすると巨大な亀裂ができて、ハルノのいる場所までぐわりと地面が揺れた。


「ま、」


 ハルノは、震える手を“怪物”に向かって、伸ばす。


「まって……」

 ハルノが着ている防具には止血する作用もある。

 ハルノは咄嗟にポッケの中から鎮痛剤と止血剤の入った注射器を取り出して自身にそれを打ち込む。

 ずるずると、這いずるようにして、ハルノは必死に身体を動かした。

 足から流れる血で、ハルノが這っていく道には血の跡が残る。

 酷く痛むが、今すぐに死ぬ致命傷ではない。


 少なくとも、そう自身には言い聞かせる。


 ──痛みをかみ殺しながら、ハルノが向かったのは“怪物”の元だった。


 ハルノが近づいてくるのに気づかない様子の“怪物”が泣きわめきながら尾を地面に叩きつけて大きな穴を空ける。

 それでもハルノは進むことをやめなかった。

 くらくらとする頭と、重い身体をひきずって、絵本に手を伸ばす。

「その手じゃ、めくれないよね」

 ハルノは震える手を伸ばして、怪物の目の前にある本の表紙の土埃をさっと払う。

 幸い、切れているのは本の一部分だけのようで、三分の一ほどに亀裂が入っているが、読むのは問題なさそうであった。

 ハルノはふうふうと荒い息を漏らしながら、“怪物”によく見えるように本を開いてみせる。

「大丈夫、大丈夫だよ……」

 そして、ゆっくりと身体を起こすと、ぐちゃぐちゃになった膝の上にその絵本を置いた。

「ァ……う、ぅ?」

 “怪物”はハルノを攻撃しなかった。

 それどころか、涙を止めて目を見開き、絵本とハルノのことをじっと見つめて、すっとその顔を近づける。


「ファ……ファニーは驚きました。洞窟の中にはたくさんの宝と、見たこともないたくさんの本が、山のようにあふれていたのです」


 まるで図書館の読み聞かせのように、ハルノは“怪物”に向けて絵本を読む。

 ふうふう、と荒い息を吐きながら、震える手でページを捲る。

 薬はまだ効かない、今すぐに楽になりたい。


 いたい、いたい、いたい、くるしい、いたい、もういやだ、いやだ、いやだ。


 全部全部、絵本の中のセリフに、変える。


 目の前の彼女が、その物語を理解できるように、わかってくれるように。


「好きなものをすきなだけ持っていきなさい、妖精の王様は言いました」


「ファニーは笑って、埋もれていた宝の中から、本を一冊だけ取りました。これをもらっていくね、と」


「王様は驚きました。どうしてそんなものを? お前はここにたどり着いて、私の難題を叶えてみせたのだ。好きなものを好きなだけ、持っていくがいい」


 ファニーの血まみれの膝の上の絵本には、輝かしい宝の山の中、一人の少女と、一人の妖精の姿が描かれている。

 少女は笑みを浮かべていた。

 妖精はその笑みを浮かべて、不思議そうに、そして不審そうに首を傾げている。


 妖精はきっと、理解ができないのだ。彼女、ファニーのことが。


「じゃあ、私は──」


 ハルノはページを捲った。

 ぶるぶると手が震える。

 寒くて寒くて、仕方がない。


 ハルノは食い入るように絵本を見つめる“怪物”の頭に手を伸ばす。

 長い触角の生えた頭をそっと撫でると、怪物の青い瞳がハルノに向けられた。


「あなたと、お友達になりたい」


 ──まるで晴れた空みたいな、青い瞳が。


 途端、大きな爆発音がハルノの背後から響き渡る。

 がらがらと、岩や壁が崩れ落ちる音がして、たくさんの人々の声がその場に響き渡った。

「探知先はこっちだ! すごく大きな反応だぞ」

「気をつけろ、すぐにでも──」

「見つけたぞ化け物め! 総員、臨戦態勢をとれ!」

 ハルノがはっとして顔を上げると、そこには見慣れた隊服の人々の姿がこちらに駆け寄ってくる様子があった。

「え……」

 そしてハルノはそんな彼らを見て、青ざめた。

 なぜならば、やってくる人々が皆武器を携えてこちらに向けてきているからだ。

 対怪物用兵器が人間に向けられればひとたまりもない。

 避難しようと動こうとしても、血まみれの足では動くこともできなかった。


「撃て! 殺せ!」


 何発もの乾いた音が響き、消炎の匂いが立ち込める。

 ハルノが判断するよりも、声をあげるよりもずっと早く、こちらに向けて武器を構えた彼らの数多の銃弾がこちらに向かってくる。


 おわった、とハルノは咄嗟に目を瞑った。


 彼らはハルノに気づいていないかもしれない、気づいていないかもしれない。

 どちらにせよ、ハルノともども目の前のこの巨大な“怪物”を始末しようとしていることは確かだった。

 ここで爆発とともに消えゆくのだ、とハルノが歯を食いしばりながらそれに備えようとしていたときだった。

「う゛、ァアぅ゛アア゛!」

 つんざくような声をあげたのは、ハルノの傍にいた“怪物”だった。

 “怪物”は長い尾を振りかざすと、向かってくる銃弾をすべて跳ね飛ばす。

 そして、そのすべてを排除するかのように、尾を伸ばすと、彼らの元に向けて叩きつけた。


 ぐちゃ


 ハルノに見えている限り、数人がそれによってつぶれて、粉々の肉塊になった。

 悲鳴すらあげる間もない、それは一瞬のできごと。

「あ……そ、な……」

 がたがたとハルノは身体を大きく震わせる。


 ──ほんの一瞬で気づいた中に、ハルノの見知った顔がいた。知っている名前がいた。


 挨拶を交わし、食事をとり、共に授業を受け、試験をくぐった、人々がいた。

 けれども、それらは一瞬で、ハルノの横にいる“怪物”が無常に叩き潰したのだ。

 あまりにも一瞬のできごとに、ハルノは呆然とする。

 けれども、そんな震えるハルノの身体に、そっと何かが触れた。


 それは、“怪物”の大きな鉤爪だった。


 ハルノを傷つけるのではなく、寄り添うかのようにハルノを引き寄せる。

 ハルノはゆっくりと上を見た。

 

 “怪物”はうなり声をあげて、威嚇するように前をじっと見ていたが、ハルノの視線に気づいて、彼女のほうへと向いた。

 そしてふわりと、微笑んだのだ。


 ──まるで「大丈夫よ」と言わんばかりに。


 あのテーマパークで見た、ハルノが見惚れたヒーローと同じ顔で。

 

 ぐちゃり、と何かがまた潰れる音がする。


 ぱたた、とハルノの顔に落ちてきたのは真っ赤な雨で、頭上から首から上がなくなった人間の身体がハルノのすぐ近くに落ちてきた。

 動かなくなったそれを怪物は瞬時に長い尾で何度も叩き潰す。

「ゥゥう゛、ァ、がァッ! ギュ、グ、ガルルッ!」

 許さないと言わんばかりに、“怪物”はそれを粉々になるまで尾でぐちゃぐちゃにする。

 勇敢にも向かってくるほかの人々の顔に噛みついて、鉤爪で腹を引き裂く。

 撃ち込まれた銃弾は、“怪物”の肌を少しも傷つけることなく、その怒りを煽るだけ。


 怪物の胸の中、もう一方の手でハルノは抱きしめられていた。


 まるで壊さぬように、潰さぬように、その手がそっと触れられている。

 目の前で、やまぬ血の雨が降り注ぐそんな中で。


「まって……まって、おねがいっ! まって! やめて!」


 ハルノが半狂乱になりながら“怪物”に声をかける。

 それと同時にポケットの中に入れていた爆弾を握りしめた。

 怪物の心臓はすぐ近くにある。これをそこにとりつけて、スイッチを押せば、すぐに終わる。


 けれども、ハルノはそれを取り出して、“怪物”の胸につけることができない。

 震える手を伸ばそうとして、手から爆弾が滑り落ちて床にころころと転がっていく。

 ハルノはそれに再び手を伸ばそうとするけれど、ハルノの手の届くずっと向こう側に転がっていたそれには、どうしても手が届かない。


「グアゥ゛ぅぅッ!」


 目を充血させて敵対者を攻撃する“怪物”はハルノを護るように覆いかぶさると、向かってくる彼らを何度でも鋭い爪で引き裂いて、尾や腕で押しつぶす。


 エリート中のエリートであろう彼らがまるで綿菓子を引き裂くかのように一人、また一人とぐちゃぐちゃの肉塊に変わっていく。

 悲鳴が響き渡る中、獰猛な唸り声は止まらず、容赦なく蹂躙する。

 誰も“怪物”に傷一つつけることはできやしない。


 あまりにも圧倒的な力量差、それはもはや一方的な虐殺であった。


「やめて、やめてよ……レディ、やめてよ……」

 見ていられなくて、ハルノは下を向いて嗚咽を漏らしながら、膝の上の血まみれの絵本を抱きしめる。

 

 その音が止んだとき、ハルノの頬にあたたかな何かが触れた。


「キュ、ぅ……? う、ぅ゛?」

 ハルノがゆっくりと顔をあげると、“怪物”はどこか心配そうな声を出して、ハルノに顔を近づけていた。

 その鉤爪は誰の者かもわからない血でべっとりと汚れている。

 この“怪物”を倒すため、人々を護るために立ち向かった、誰かの血が。


「ヴィオ、ラ……?」


 ハルノが怪物の名前を呼ぶ。

 怪物はその単語を理解しているのかいないのか、首を傾げた。

 けれども、ハルノがこちらを向いたのが嬉しいと言わんばかりに、長い尾を小さく振って、にっこりと笑う。


「ギぅ」


 そしてハルノの顔についた誰かの血を、長い舌でぺろりと舐めとった。



 ようやく現場に増援や救助隊がやってきた時、彼らが見た現場はあまりにも凄まじいものであった。

 

 辺り一面に飛び散った、誰のものかもわからないほど肉の破片となって散らばっているのは、先行隊のヒーローたちの身体だったもの。


 そして、血の匂いが充満して、真っ赤な絨毯が敷かれたようなその場所の真ん中には一匹の大きな怪物と、一人の女の姿があった。


 ムカデのような姿をした大きな怪物は、抱きしめるかのように、目を閉じ、とぐろを巻いて女を包み込んでいた。


 ──まるで、それが怪物にとっての救いであるかのように。













『五月八日 二十四時十七分 怪物S-999X 元ヒーローであるレディ・エリュテイアを捕獲。

怪物との融合により、意思疎通は困難、近づくと見境なしに攻撃行動へと移る。

対象は探索の一人ハルノ・アヤムラを人質としていたが、現在行動は落ち着いている。

現時点でS-999Xを殺害できる方法が存在しない状態のため、やむおえない一時手段として重要隔離室への収容を決定。

人質引き離そうとすると攻撃態勢に移行するため、人質ごと対象を隔離施設に移送する。

人質の呼びかけにしか反応せず、その限り無害化に成功


 以後は研究所の最深重要隔離室に対象を収容する。

 S-999Xを殺害できる兵器の開発を開発部隊にて早急に進めるとともに、怪物自体の研究のための有益な実験サンプルとする。』

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