第8話
「ゲホッ、」
砂埃を吸い込んで、ハルノは大きく咳をする。
特殊隊服に身を包んだハルノは滑り落ちるように深い谷の奥へと進んでいく。
探索結果でレディの反応らしきものが出たそこは、自殺の名所と言われる場所で、普段、一般人は立ち入ることはほとんどない。
心霊スポットとしても有名で、ニュースにもなる場所だ。
そこには当然のごとく人の気配はない。
谷の間は背の高い木々が生い茂っており、足元は沼地のように不安定だ。
そこを一歩一歩警戒しながら一人歩いているハルノは、手元に抱える小型探査機の画面を見つめながら深く息を吸う。
──死ぬかも、しれない。
それは覚悟してのことだ。いや、実際にその覚悟ができているのかはハルノにもわからない。
わからないけれど、足を止めることはできなかった。
だって、気づいた時にはもう、その足は自然と動いていたのだ。
ハルノは手元の小型探査機の画面を注視する。
探知距離が短い分、精度は高いそれは戦闘部隊が近距離戦闘時に使うものだ。
座標を入力してレーダーでの探知をしようとするが、地場か何かが邪魔をしているのか、いまいちうまくいかない。
苛立ちながらも何度もそれを弄っていると、ハルノの胸元に入れたスマホが震えた。
画面には予想していた通り、ハルノの恩師の名前がある。
ハルノはこのあと言われるであろう言葉を予測して、数コール後に電話をとった。
「ハルノ? ハルノお前今どこにいる!?」
電話口の向こう側から、ダフネの焦った怒鳴り声が響き渡る。
やっぱりね、と自分の予想が間違いなく当たっていたことに、ハルノは思わず笑ってしまった。
いつもは落ち着いている恩師は「面倒くさい」と言いながら、手に負えない問題児たちの面倒を見てくれる最後の砦のようなものだった。
不良生徒、家庭に問題のある生徒、努力しても成績の延びない生徒。
ダフネは決まってそんな生徒たちの面倒をよく見ていた。
ハルノだってそうだ。
ほかの教師たちが呆れて失望の顔をする中、ダフネだけは「こっちはどうだ」と違う選択肢ややり方を一緒に考えてくれる。
そんなダフネを心から敬愛する生徒は、ハルノのほかにも少なくない。
「博士」
そんな恩師の声に、ハルノははっきりと返事をする。
「私、レディを助けにいきます」
ダフネは黙り込む。
だが、おそらく、ダフネにとってもそれは予想していた通りの答えだったのだろう。
「ハルノ、今すぐに来た道を戻りなさい。捜索隊の増援を待て。一人じゃできないことはお前もわかっているだろう」
だからこそ、すぐにそんな冷静な声がダフネの口からは返ってきた。
そして、その返答すらも、ハルノは予想していたことだ。
「あの人は、レディは私のヒーローなんです、あの人は。私を、二回も救ってくれた」
「やめろ」
吐き捨てるように、ダフネは強い口調で言った。
嫌悪感を露わにした、唸り声のような声だった。
「やめなさい、一人は危険だ。できるわけがない」
それでいて、ダフネの声音には親が幼子に言い聞かせるようなものも含まれていた。
なんとかしてハルノを諦めさせようという意思が伝わってくる。
そう、彼女はハルノを本当に心配しているのだということは、ハルノ自身にも痛いほどにわかっている。
──恐れているのだ。教え子を失うことを。
その昔、一度だけハルノは見たことがある。
開きっぱなしになっていた、ダフネの愛用の分厚い手帳。
その中の日付の欄に、名前が書いてあったのだ。
何人も何人も。
それは、ハルノも聞いたことがない名前ばかりだった。
誕生日だろうか、なんてハルノはその時に思ったものだ。
あの面倒くさがりな恩師にも、他人の誕生日を覚えようなんて気持ちがあったのかと感心したのだ。
けれども、違った。
授業の中で習う、過去の大きな事件。
怪物たちが町中を暴れ回り、多くの人々が犠牲になった。
そして、彼らを護るために戦った隊員たち。
その名前と、事件の日付を見て、ああ、とハルノは納得した。
あれは、全部死んだ日なのだ。
ダフネが、教えた子どもたちの。
「今度は、私が彼女を助けたいんです」
強情だと、ハルノもわかる。
自分がダフネの立場であれば、絶対に止めようとすることだって、わかる。
ハルノの名前が、ダフネの手帳に新たに刻まれるかもしれない。
その名前を書くときの、恩師の気持ちを考えるとハルノの心は酷く苦しくなる。
「……やめろ、戻りなさい、お前がやらなくていいんだ」
電話口のダフネの声が、泣きそうなものになっているようにハルノには聞こえた。
──お前がやらなくていい。
その言葉は、救いだ。
けれども同時に、ハルノ以外の誰かがその役目を負うのだと、暗にダフネは言っている。
それはハルノが名前も知らない人なのだろう。
そして、その人がハルノの代わりに、ダフネの手帳に刻まれるのかもしれない。
その意味も全部含めて、ダフネは言っているのだ。
「……ありがとうございます、ダフネ博士。私のことを、気にかけてくれて」
ハルノは、電話越しに穏やかな笑みを浮かべる。
見えるわけもないその相手に、優しく語りかける。
「ダフネ博士は、私にとって恩師で、大先輩で、相談相手で──」
そんな言葉、今まで一度もダフネに言ったことなんてなかった。
だって、そんなことを言った暁には、ダフネはいつものように黒い髪をガシガシと乱暴に掻きながら「ホームシックか? それともママが恋しくなったのか?」なんてニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら言うに決まっているとハルノは知っているからだ。
「……素晴らしい、先生でした」
照れくさい気持ちを堪えながらハルノが続けると、消え入りそうなほど小さな声でダフネはその名前を呼んだ。
もうそれはもはや、懇願のようなもの。
けれども、ハルノはその言葉をきくわけにはいかなかった。
「でも、違うんです。博士」
例え、恩師の忠告に背いてでも。
例え、その手帳に載る名前が自分だとしても。
例え、ハルノがやらなくていいことだとしても──
「私は、私にできる範囲で、できるだけのことに全力を尽くしたいんです」
それはダフネも知らない、二人だけの、ヴィオラとハルノの約束。
あの空みたいに蒼い瞳を、ハルノはずっと追いかけてきた。
「私が、やりたいんです」
そして、今も追いかけ続けている。
ダフネの返事も聞かずに、ハルノは電話を切って、それをリュックにしまい込み、再び歩き出す。
目の前の道は、先ほどよりもずっと悪い。
この先に何が待っているのか、自分がどうなるのか、ハルノには何もわからない。
でも、きっと碌なことにはならない、なんてハルノは自嘲気味に笑う。
けれども、その足が止まることはない。
背負うリュックを、ハルノは握りしめて、背負い直す。
──もし、あの人に逢えたら。
言う言葉を、ハルノは決めていた。
だって、そのことばかり考えている。
死ぬかもしれないっていうのに、どうなるかわからないというのに、ハルノの頭にはそれだけなのだ。
「……レディ」
ふうふう、と荒い息を吐きながら足を進めているうちに頭に浮かんでいた名前を、ハルノは無意識に口に出していた。
あの人はハルノを見たら青い瞳を大きく見開いて、笑ってくれるだろうか。怒るだろうか。
その表情をハルノは何度も何度も考えてしまう。
いや、レディはきっと覚えていないだろう。
「……ヴィオラ」
──幼い頃に言えなかった、あの時の「ありがとう」を、ハルノは今度こそちゃんと彼女に、レディ・エリュテイアに、そしてヴィオラ・リングストンに届けたいと思っている。
昔のハルノだったらそれが精いっぱいだったろう。それで満足していたはずだった。
けれども、今はもう一つある。
どうしても、なんとしてでも伝えたいことが、ハルノの中にはある。
「私、」
彼女が覚えてくれなくていい、忘れられても、構わない。
でも、どうしても伝えたかった。
「ハルノって言うんだ」
そんな蒼い空を追いかけ続けているその鳥の、名前を。
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