第3話
六歳の時からずっとハルノが追いかけてきたその人が、目の前にいる。
店を去り、遠くなっていく背中を呆然と見送りながら、ハルノは目を見開いた。
あの時依頼、テレビや雑誌の中でだけしか逢うことのできなかったハルノのヒーローの姿に、驚きを隠すことができない。
なぜならば、世界的ヒーローであるレディ・エリュテイアのプライベートは未だに多くの謎に包まれているということも理由の一つ。
レディ自体がSNSなどをやっておらず、プライベートをあまり公表しないということもあるが、レディの事務所がうまく隠しているのか、知名度ナンバーワンのヒーローである彼女の私生活は、ファンの間でもほとんど知られてはいなかった。
だからこそ、そんな彼女が、こんな下町の古書店にやってくるだなんて、ハルノは思ったこともなかったのだ。
──レディ、本を読むの好きなんだ。
彼女のインタビュー記事には全て目を通していると自負しているハルノも、やはりそれは知らない事実であった。
なにせ、レディは明るくて快活な性格をしているアウトドアな趣味を好む女性だとハルノは思っていたし、多くのファンや関係者もそうであろうことは間違いのないことであったからだ。
事務所から公開されている彼女のプロフィールでは、体を鍛えることやスポーツが好きなアクティブな人物であると明記されており、テレビに映る彼女は勇猛果敢でありながら、チャーミングな笑顔でVサインを飛ばしてみせる明るく元気なキャラクターであった。
彼女にそんな一面があるだなんて!
まるで幼い頃よく絵本を読んでいた自分のようではないかとハルノは心の中でそんな親近感を感じて胸がどきどきと高鳴った。
『お母さん! ファニーのほんだいじにするね! ありがとう!』
そう、幼い頃の自分のことを思い出した瞬間のことだった。
ハルノの頭の中に、そんな言葉と映像が浮かんだのは。
風船の舞うテーマパーク、笑っている両親、そして興奮しながらそんな両親の手を引く幼い頃のハルノ。
そして、自分の腕の中に大事そうに抱きしめられていた、一冊の絵本。
それはハルノの幼い頃の誕生日にあのテーマパークで買ってもらったものだ。
──あ。
ハルノは気づけば駆け出していた。
目指すのは一直線。
お店を出て、消えかけていた女性になんとか追いつくと、その腕を勢いよく掴む。
「──ッ待って!」
ハルノの声に反応して、まるでスローモーションみたいに、金髪を舞わせながら女性が振り向く。
その瞳がハルノの姿を認識して、サングラスの下で見開かれたのがハルノには見えた。
そこではっきりと確信する。
その澄んだ空の瞳が、自分の世界を作ったあの人と同じものであることを。
「さ……さっきの本、知り合いが、持っているかもしれません!」
まさか自分が持っているとは言いづらく、ハルノはぜいぜいと肩で息をしながら咄嗟にそう言った。
「多分、いや、絶対、言ったら譲ってくれると思います」
お下がりで申し訳ないんですが、と続けてハルノがレディの顔を見遣ると、店の店員が自分を追いかけてくるなんて思ってもよらなかったのか、彼女は驚いた表情を浮かべていた。
「だからその、手に入ったら、あなたに連絡します! 時間がかかるかもしれないけど、あの、えっと、だからそのっ!」
そう勢いよく言ったはいいものの、ハルノはそのあとの言葉がうまく続けられなかった。
レディはじっとサングラスの下の瞳でハルノを見下ろしていて、何を考えているかは伺いしれない。
ハルノは彼女に何かしてあげたいという思いで完全に先走った行動をしていたと気づいて、顔がカッと炎に炙ったかのように真っ赤になっていくのが自分でもわかった。
「あ……でも嫌だったらその、言っていただいて……」
レディの腕を掴んでいた手をハルノはそろりと離す。
きっとハルノの持っているその本を渡せば、彼女は喜んでくれるだなんて思っていたけれど、よくよく考えたら見知らぬ人間からそんなことを言われても困ってしまうだろう、気持ち悪いと思われてしまうかもしれない。
──言わなければよかったかな、でも、すごく悲しそうだった。私にも何かできないかなんて思ってしまったから……。
「い……いいんですか!?」
けれども、離れていくハルノの手を掴んだのは、レディ自身だった。
もう片方の手でつけていた自分のマスクをさっと下げると、興奮からか小さく唇を震わせ、頬をバラ色に紅潮させた顔がハルノの目に映る。
「お願いします! 本当に本当に、ずっと探してたんです……!」
レディは自身のバッグから素早くメモとペンを取り出して何かを記すと、それを丁寧にハルノに差し出す。
顔を隠す目的であろうサングラスが大きくずれてしまっているのに、レディは気づいてもいないようだった。
「どうかどうか、よろしくお願いします……!」
押し付けられるようにメモを受け取ったハルノは、そこに書かれていた文字を目にする。
そこにあったのは、一つの電話番号と、一つの名前。
──ヴィオラ・リングストン。
レディがハルノに渡したメモにはそう記されていた。
それはハルノの一番のヒーローの本当の名前。
「か、」
彼女のヒーローは名前まで美しいのだと、場違いにもそう思ってしまったことをハルノはよく覚えている。
そんな彼女は真っ赤な顔のハルノに負けないくらい頬を赤くして、サングラスをかけていてもわかるくらい泣きそうな、必死な表情をしている。
「必ず、お渡しします。絶対、絶対に」
震える手で、ハルノはそのメモを受け取った。
それがこの世で一番大切なものみたいに、胸元で握りしめる。
「ありがとう、本当に……ありがとう!」
ハルノの手をぎゅっと握り、ヴィオラは何度もお礼を言った。
その姿はまるでヒーローとは思えない。
怪物たちと戦って華々しく活躍する姿でも、テレビの中でにこやかにウインクしてみせる姿でもない。
英雄としてのレディ・エリュテイアではなく、ヴィオラ・リングストンという普通の、何ら変わりない一人のありふれた女性だった。
けれども握られた手はとても熱い。
レディ・エリュテイアのそんな一面を見ても、ハルノの心の中は高揚した気持ちのままだった。
いや、確かに、意外な一面ではあった。
テレビの中で見るスーパーヒーローが、私生活ではこんな姿を見せるのかという驚きもあった。
けれども、伝わってくる体温は、まぎれもなく、幼い頃ハルノの頭を撫でてくれたそれと何ら変わりがない。
それが、何よりも嬉しかった。
「……あの、」
──私のことを覚えていますか。
ハルノはそう言いかけて、そして口を閉ざした。
あなたに憧れてヒーローを目指している。すごく大好き、応援している。
本当は、そう伝えたかった。
あの時に伝えられなかった感謝の言葉を、ここで彼女に伝えられたらと思ったのだ。
だって、レディはハルノにとって最高のヒーローなのだから。
けれども、ハルノは躊躇う。
十年以上も前のことだ。覚えているわけがない。
それに、せっかく自身の身分を隠して外出しているというのに、そんなことを突然言われて、戸惑うだろう、困るだろう。
ハルノは彼女を困らせたいわけではないのだ。
「……その本が、本当にお好きなんですね」
だから、ハルノの口から出たのは考えていたものとは全く違う言葉だった。
曖昧に微笑むハルノの言葉を聞いたヴィオラはバッグの中から再び絵本を取り出すと、表紙を指先でなぞってみせる。
「この本に、すごく慰められたんです」
「え……?」
「変ですよね。もう子どもじゃないのに」
驚いた声を出すハルノに、ヴィオラは照れたように小さく笑った。
「きっかけは……なんだったかな」
風が吹いて、ヴィオラの長い金色の髪が揺れる。
ヴィオラは空を見上げて、ぽつりぽつりと話始めた。
「……少し曖昧だけど、随分と昔、誰かがこの本を大事そうに抱きしめてるのを見て、アタシも読みたくなったのは覚えてるんです」
ハルノもヴィオラに釣られるように空を見上げる。
午前中は曇りがかっていた空が、今は澄んで、晴れ渡っている。
そう、目の前の彼女の瞳と同じ色、雲一つない、晴天に。
「その人が、ファニーはきらきらして、強くて、諦めないんだって言ってたから」
いいなあ、って思ったんです。
そうヴィオラは続けた。
「……うん。アタシもそうなりたいなって、そうなれるよう、そう思われるように頑張りたいなって。だから知ろうと思った、ファニーのことを、どんな人なんだろう? どんなに頑張ったんだろう? って」
ヴィオラは視線を再び絵本へと戻す。
何度も何度も読んだのであろう、擦り切れて、色あせているその絵本を。
「それで、私もこの本を読んで……驚いたの」
ヴィオラは目線をあげてハルノを見つめる。
それはどこか悪戯っぽい笑みで、まるでこの後のハルノの反応を待っているかのように見受けられた。
「──頑張らないってファニーは言ったんです。頑張らないけど……」
一つ一つの言葉を噛みしめるように、自分自身に言い聞かせるようにヴィオラは続ける。
「自分のできる範囲で、できるだけのことに全力を尽くすよって、そう言うの」
「“だって、私は万能でも完璧でもないんだから”って」
絵本の主人公の言葉を、これほどまでに楽しそうに話す人がいただろうかなんて、ハルノは思った。
けれども、子どものの読む夢物語をまるで、本当に夢のように語るヴィオラは、テレビで見るインタビューよりもよほど楽しそうに見えた。
「ああ、それってすごく当たり前のことだなってすごくストンと胸の中にその言葉が落ちてきたんです。
……アタシも、全然強い人間じゃないから」
「え……」
ハルノは思わずそんな驚いた声を出してしまい、慌てて口を閉じる。
だって、目の前でその発言をしたのは、世界で一番勇敢な人だと思っていた女性だったから。
「みんなそんなことを言ったら失望するし、冗談だって笑うんです。でも……アタシは、周りにそう見えるように、振る舞っているだけ」
けれどもヴィオラは、ハルノの顔を見て苦笑しただけだった。
まるでハルノのその反応も含めて全部、わかっていたと言わんばかりに。
「そん、な……」
そんなことはない、とハルノは言おうとして何も言えなくなった。
ハルノが追いかけてきたヒーローがそんな人なわけがないと、自信を持って言い返そうとして黙り込む。
だって、今の目の前の彼女は『レディ・エリュテイア』ではない。
ヴィオラ・リングストンなのだ。
「アタシはいつも迷ってて、嫌になることもあって、泣きたくなるし、全部投げ出したくなることだってありました」
──美しく、優しく、そして誰よりも勇敢な最強のヒーロー! レディ・エリュテイア!
雑誌にはいつも、そんな文言とともに、彼女の笑みを浮かべた写真が載っていた。
今、この世界に彼女に憧れてヒーローを目指す人たちがどれほどいるかどうか、ハルノには計り知れない。
そしてハルノも、そんな彼女に憧れてこの道に足を踏み入れた一人なのだ。
華やかで、逞しくて、明るくて、そんな輝かしい道を歩んでいる人。
ハルノを含めたほかの人々には、レディのそんな光の側面しか見たことがない。
そんな彼女が一心に背負う期待、羨望、嫉妬、それのどれも、ハルノは想像すらつかない。
「でも、そんなときはいつも、この本を読み返してきたんです。何度も何度も。そうすると、またできる限りやってみようって思えるから」
ヴィオラは絵本を抱きしめた。
「──だからこの本は、私の御守りみたいなものなんです」
まるで我が子を抱きしめる母親のように、幼子が大事な玩具を隠すように。
ハルノにはそのどちらにも見えた。
ハルノは何を言おうか迷って、しばらく黙り込んでから、身体の横で自分の拳をぎゅっと握りしめる。
そして、まっすぐにヴィオラを見つめる。
「私は、ヴィ……ヴィオラさんのこと、何も知りません。なので、これは全部憶測です。でも、でも……」
ハルノが追いかけてきたその人が、ハルノの想像もつかないほどの苦しみに耐えながらここまでやってきたことを『弱さ』だというのは絶対に違うと思ったのだ。
たとえそれが、本人の言葉でも。
「あなたはきっと、すごく優しくて、まっすぐな人です」
それを、彼女自身に少しでも、理解してほしかった。
「……人に、勇気を与えられる人です」
そんなハルノの言葉を、ヴィオラはじっと聞いていた。
そして、困ったような顔で、小さく首を傾げる。
「そう、かな」
「そうです! だって、めげそうになっても、それでもまた立ち上がってる。そんなの、みんなができるわけじゃない」
「……」
ヴィオラは何かを言おうとして、そして黙り込んだ。
何かを思い出しているような、伝えることがあってそれを迷っているような、そんな表情。
「あなたの行動と勇気で、救われている人はきっとたくさんいます」
「アタシに……?」
「はい」
ハルノは力強く頷く。
そして、深く息を吸って、笑って見せる。
ヴィオラの目の前に立つ自分が、かつて彼女の行動と勇気で救われた張本人であるということは言わなかった。
「私も今、すごく迷っていたことがあったんです。ずっと追いかけていた夢を、どうするかっていう……きっと、ヴィオラさんの悩みとは、かけ離れているだろうけれど……」
そしてこれは、二回目だ。
ハルノはそう思った。
一回目は、幼い頃、レディに命を救ってもらったあの日。
「でも、あなたの言葉で、決めることができました」
そして今、彼女の言葉に、ハルノはまた救われた。
きっと、それをレディ自身は、意図しているわけではないだろうけれど。
「──だって、それが“自分のできる範囲で、できるだけのことに全力を尽くす”ってことなんだって、私にも、わかったから」
二回も、レディはハルノを、救ってくれたのだ。
「……私に勇気をくれて、ありがとうございます。ヴィオラさん」
ハルノは心を込めてそう言った。
少しでも感謝の気持ちが、彼女に伝わるように。
ハルノの言葉に驚いたようにヴィオラは目を見開く。
「……ありがとう」
そして、少ししてからヴィオラは照れくさそうな表情をして、小さく笑みを浮かべた。
それに釣られるようにハルノも笑みを深くする。
けれども、その時、ブーブーとスマホのバイブ音が二人の間に響きわたった。
それはヴィオラのスマホからで、彼女はポケットの中から自分のスマホを取り出した。
そしてその画面を見て、真剣な表情に切り替えると、ぱっと素早く顔をあげた。
「っごめんなさい。私、もう行かなきゃ」
「あ、はい! すみません、お時間取らせてしまって……」
「そんなことない! 本当にありがとう、連絡、待ってます!」
ヴィオラはとびきりの笑顔をハルノに見せると、速足でその場を去っていった。
そんな彼女の笑顔に見惚れながらも、あっと言う間に見えなくなったその背中を見送ると、ハルノは店のレジに戻り、懐からスマホを取り出した。
もう片方の手で、開きっぱなしだった雑誌の、彼女のヒーローの金色の髪を撫でながらコールをする。
三コール目で出てきた相手に対して、ハルノは大きく息を吸ってから口を開く。
「ダフネ博士、決めました。私──」
ハルノ・アヤムラが特別対応スカウトで捜査部隊に所属となったのは、そのすぐ後のことであった。
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