第34話 返せええええ

 ずぶずぶ、ずぶずぶ、泥の中を歩いて階段まで戻る。

 その距離およそ200mほど。


 果てしなく遠く感じていたその距離も、マッド・スライムがいなくなってしまえばなんということもない。


「とりあえず、階段まで戻ってきました」


 適当にアイテムを実体化して、鎧についた泥を洗い流す。

 じょぼじょぼとポーションが鎧の上を流れ、きれいな黄金色が姿を表す。


■そ、それ……。1本で1万はするやつ……

■うわあ、8本は使ったぞ

■8万円分使ったのか

■回復ポーションの無駄遣い……

■こんなポーションの使い方するやつ、初めて見たよ


「だって、これしかなかったんですもの……」


 仕方ないじゃないか。ここには水道もシャワーもないのだ。

 女子中学生なんだよ。泥だらけのままでダンジョン配信をするわけにはいかない。

 見た目を気にするのは当たり前だ。


「よし、ぴっかぴかになりました。さて、上に戻りますか」


■え? 神王の長剣は?

■剣を取り戻さないの?


 私はダンジョンデバイスに217階層の景色を映し出す。

 どこまでも泥の海が広がっていた。


「みなさん、この光景を見てください。ここで戦ったらどうみても泥だらけになります。鎧の中に泥が入ります。武器もなければ作戦もない。私にいったい何ができましょうか」


■だって、ほら。お兄ちゃんに怒られちゃうよ

■剣を取り返そうよ


「よく考えてください。もう怒られることは確定事項です。私が無理に剣を取り返そうとして死んでしまったら、神王装備がまるごと失われるわけです。あと、死んじゃったらお兄ちゃんが悲しむし、結婚しようとしているお兄ちゃんも、結婚が延期になるでしょう。何もいいことはないのです」


■まあ、もっともではある

■死んだら終わりだしな


「何事も、安全第一です。それに私の剣を奪っていったあのモンスター。どう見たって一般モンスターですよ。階層主じゃありません」


■奪われたんじゃなくて、ハルナっちの失敗な

■あれはハルナっちの失態

■どう考えてもハルナっちが悪い


「と、とにかく……、そもそもが階層主に遭遇しても、私なんかじゃ絶対に倒せません。次はたぶん220階層とかですよね。そしてきっと、ドラゴンくらいに大きいはずです。だから、いったん上へ戻って……」


 ダンジョンデバイスには私の顔がアップで映っている。

 黄金の兜を被った状態。その横には謎の物体が2つ。上からぶら下がるように……。

 顔の両脇には毛むくじゃらの2本の腕が伸びてきていた。


「なんでしょう、これ……」


■ハルナっち、上!

■マッド・エイプがいるぞ!


 私が視線を上げると同時だった。

 すぽっと私の兜が引き抜かれる。

 肩まで伸びたセミロングがふわっと持ち上がり、重力に従って垂れる。

 口を開けて唖然としてしまった。

 

 今いる場所は島のようになっており、階段を囲むように石が積まれている。

 階段の周りは石壁になっており、そこに器用に足の指を引っ掛けて逆さにぶら下がっているマッド・エイプがいた。


 私の頭上、およそ30cmくらい上。

 黄金に輝く神王の兜を手にし、口を横いっぱいに伸ばしながら、そこには2本の牙が覗いている。

 やつの目はまるで私をあざ笑うかのよう。


■兜が取られた!

■神王の長剣に続いて、兜まで!!


 何が起こったのか、一瞬で判断ができなかった。

 遅れて、兜を盗まれたのだと気がつく。

 目を大きく見開いて、猿のようなモンスターに手を伸ばした。

 マッド・エイプは私から離れるように壁を登る。


「キキキキイイイイィィィッ!」


 獣のような叫び声を出しながら、マッド・エイプは石壁を天井付近まで登った。


「か、返せえええぇぇぇっ! 私の、私の兜おおおおぉぉぉぉ!!」


 正確にはお兄ちゃんの兜だ。神王の兜の市場価格は12億円。

 剣に続いて、兜まで奪われたら、本当に洒落にならない。


 マッド・エイプの背中にはまだ剣が刺さったままだった。

 その状態で、私を挑発するように、神王の兜を頭からすっぽりと被った。


「キキ? キキキ?」


 まるで『これ、似合う?』とでも言いたげな口調。

 兜をかぶった状態で、首をくねくねと傾げている。


「あなたなんかには、似合いません!」


 私は叫びながら、マッド・エイプを追いかけるが、器用に石壁を伝ってあっちこっちと飛び跳ねるように逃げていく。


 とても捕まえられそうにない。


 ところが、マッド・エイプは私との距離を一定に保っていた。

 私が捕まえられそうに思うくらいに微妙な距離で、こちらが手を伸ばした所、逆に私に向かって飛んできた。

 私の背中をぽんっと踏み台にして、反対側の地面に降り立つ。ちょうど階段がある前あたり。


「くそっ。返すんですよ!」


 私は勢いをつけて、両腕を広げながらマッド・エイプに飛びかかった。右手には自撮り棒と一緒にデバイスを装着していたから、視聴者が見ている映像はぶれぶれだっただろう。


「よし!」


 マッド・エイプを捕まえたと思ったが、真上にすり抜けるように逃げられてしまった。勢い余った私はそのまま泥の海の直前まで体を乗り出してしまう。


「あわわ」


 危うく泥の中に落ちそうになって堪えていたところに、後ろから強い力で押されてしまった。

 どっぶーんと泥の中にダイブ。

 泥が勢いよく噴き上げる。


「キキキキキィィィ!!」


 嬉しそうな声を上げるマッド・エイプ。

 私は泥の中に突き落とされてしまった。


 身体の前半分が泥だらけ。髪もどろどろ。

 かろうじてかばったデバイスにも泥が跳ね、カメラのレンズは完全に塞がってしまったようだ。画面は半分くらいしか見えない。その画面に視聴者のコメントが流れる。


■ハルナっち、泥に落ちた?

■画面に何も映ってないぞ

■レンズに泥がついた? 何も見えない


 私は泥の中で、体を起こしながらマッド・エイプを睨みつける。


「やってくれましたね……」


「キキ、キキ、キキキィィ!」


 マッド・エイプは両手両足を嬉しそうに踊らせている。

 悔しいけれど、勝ち目がない。


 おそらくは私よりもずっと強くて、機動力も高い。

 カメラのレンズも汚れてしまい、視聴者も状況がわからなくなってしまっている。

 ここはいったん引くしかないと判断した。


「とりあえず、階段をあがって、そこで体勢を立て直そうと思います。兜を取られたのは悔しいですけれど、作戦を立てなければ……」

 

■逃げるの?

■まあ、勝てそうにないし仕方ないか

■立て直すのが最善策かも

■上の階層までは追ってこれないしな

■さすが、ハルナっち。ダンジョンの特性をうまく利用するのね。

■褒めてる? それしか策がないだけじゃ?


 画面が汚れているので視聴者のコメントも一部しか読めない。


「悔しいですが、上へ逃げます……。あいつは上に来れないので……」


 私は泥の海から島の上へ上がり、そのまま階段を登るつもりだった。

 ところが……。


「ウエヘニゲル?」


「マッド・エイプが喋った!?」


 マッド・エイプが人間の言葉を喋ったのだ。


■人間の言葉がわからないフリをしていた?

■まずい、知性があるタイプかも

■言葉がわからないフリをして、こっちの言葉を聞いていたんだ

■ハルナっち、早く階段を登ったほうがいい!

■急がないと手遅れに……


 私は階段へ向けて走ろうとした。

 だが、それより早くマッド・エイプは前に立ちふさがった。


 そのまま、後ろ歩きで階段を数歩登る。

 5段ほどあがり、私のことを見下ろしてきた。まるで、ここを通さないぞと言わんばかりに口を大きく横に開き、『さあ、どうするんだ』といった表情を浮かべる。


 黄金の兜を被った、憎たらしい猿のモンスター。私に勝ち目はなさそうに思える。


「どうしましょう。先に、マッド・エイプに階段の入口に立たれてしまいました……」

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