死別ブロマンスを書いて欲しいリターンズ

『浮き輪は1つだった』


 日本がまだ米国に勝ち目のない戦争を続けていたときのことだ。


 僕はまだその頃、10代で、赤紙を貰って沖縄行きの海軍の輸送船『玄海』で任務に就いていた。それまで僕は民間の輸送船に乗り込んでいたので、仕事は全く同じだったし、会社は空爆で船を失ったばかりだったので、僕が戦争に行っても誰も困らなかった。故郷に誰かを残しているでもない、天涯孤独の身の上だ。勝ち目が無いことは内地では誰もが知っていたが、自分もいよいよ戦地に赴くのかと思うと、日本人としての誉れだと本気で思っていた。


 呉で『玄海』に乗り込み、途中の港で荷物を積み込み、僕は機関士の仕事をこなした。沖縄にはもう米軍艦隊が迫っているという話だったが、船の上に戦場はない。たぶん、戦闘機の機銃掃射か突然の魚雷攻撃で死ぬだけだ。だからか、僕は仕事をこなすだけという心持ちができあがっていた。


 死地に赴く僕だったが、1つだけ喜ばしいことがあった。玄海の副艦長が同郷の幼なじみ、佐々木厳少尉だったことである。乗艦し、兵員の受け入れの際、僕はすぐに彼に気がついた。スタイリッシュな海軍の士官服に身を包み、精悍な顔つきに変わってはいたが、僕らのガキ大将のイワオの優しい目がそのままだったからだ。


 佐々木少尉もすぐに僕と気がついたようで、乗艦してしばらくしてから、僕のところに直接来てくれた。キャビンと機関区では動線そのものが区切られているので、普通は会うことはない。だから来てくれたのだと分かる。


「源四郞。まさかお前が俺の部下になるとはな」


「佐々木少尉、昔から僕はあなたの一の子分ですよ」


 僕は笑顔で答えたが、佐々木少尉は戸惑ったような顔を見せ、言った。


「昔のようにイワオ兄と言ってくれ」


「まさか。ここは艦内ですよ。無事、沖縄に着けて、非番になったらそう呼ばせていただきますよ」


「ああ。そうだな。それなら是が非でもたどり着かないとな」


 佐々木少尉は悲しげに笑った。


 今なら分かるのだが、このときはもう米軍が沖縄本島に上陸直前だった。士官である佐々木少尉は当然、そのことを知っていたのだ。


 機関区には昼も夜もない。24時間3交代で任務が続く。一刻も早く沖縄に物資を届けなければならない。毎日、暗い機関区で任務をこなし続けた。


 時折、佐々木少尉が僕に会いに来てくれた。そして士官にだけ配られるちょっとしたお菓子を僕にくれた。昔、駄菓子屋で貧しい僕に駄菓子を奢ってくれたときのことを思いだし、涙ぐんでしまった。


「おいおい、どうした。菓子くらいで」


「いえ――あの頃から変わらないんだなと思って」


「人間、そんなに変わるもんじゃないだろ。軍人になったって俺は俺だ。そうだ。もうお前も酒を飲めるだろう。上陸したら、酒を飲み交わそう」


「ええ――」


 僕は佐々木少尉の優しさに涙を零した。


 それから数時間後のことだ。突然の魚雷攻撃を受け、物資を載せている倉庫部分が浸水した。決死で水を防ごうと一同が努力したが、艦体の損傷は大きく、艦長は総員待避を指示した。一気に慌ただしさが増し、暗い喫水線下の世界から、僕は急に南国のきつい日差しに照らされる甲板へと駆け上がった。


 ボートがおろされている最中で、誰もがそのボートに乗ろうとしていた。ボートの数は十分にある。というのもそもそも乗組員の数が正規数に足りなかったからだが。それを知っているから、我も我もとはならない。


 しかし空に黒い影が現れ、事態は一変した。


 カモメ型といわれるガルウイングを持つ、米軍の新鋭機F4Uコルセアだ。それもただ1機だけ。もう日本に戦闘機はなく、沖縄の空は米軍機が支配していた。


 コルセアは機銃を一掃射し、玄海を襲った。


 戦闘機の機銃掃射というのは恐ろしいものである。12.7ミリのブローニング機関銃が6丁。それが秒あたり10発以上、降り注ぐのである。それは破壊の雨としか言いようがない惨劇をもたらす。


 玄海の甲板は一瞬にしてメチャクチャになり、炎が上がり、おろそうとしていたボートも粉砕された。


 僕はその地獄の中でどうしたのか、覚えていない。浸水がついに艦体のバランスを崩すまでに達し、玄海が大きく傾き、海に投げ出されたからだった。



 気がつくと僕は、佐々木少尉に抱きかかえられ、海の上を漂っていた。


 灼熱の南国の太陽が降り注ぐ中、僕と佐々木少尉だけが、玄海の藻屑と共に漂っていた。他の乗組員がどうなったのかは、まるで想像できないし、したくなかった。

 

「気がついたか、源四郞」


 佐々木少尉の腕の中で僕は意識を取り戻した。


「イワオ兄ちゃん……」


「自分で――掴まれるか?」


 僕らを海の上に漂わせていたのは、救命浮き輪ただ1つだった。


 僕は浮き輪を掴み、身体を弛緩させて浮力を稼ぐ。同じように佐々木少尉も身体を弛緩させ、浮く。浮き輪1つでは少しでも浮力を稼ぐ必要があるからだ。船員のイロハである。


 僕の目に入るのは南国の真っ青な空だけになった。


「源四郞が無事で良かった……」


 佐々木少尉の安堵した声が聞こえた。


「イワオ兄ちゃんが僕を助けてくれたんだね」


「偶然だ。偶然、俺の隣を漂っていたのがお前だった。だが、お前で良かった。俺は後悔せずに済んだ」


 どんな顔をしているのだろう。見たいと思っても、それは許されない。少しのバランスが崩れるだけで海水が顔にかかり、呼吸を妨げるからだ。


「救助、来るかなあ」


「来るさ。他の船もこの航路を使っているんだからな」


 そうだった。無数の輸送船が沖縄に向かっているところなのだ。


「じゃあ、しばらくこのまま待とうか」


「そうだな」


 しばらく会話が途絶えた。その後、口火を切ったのは佐々木少尉の方だった。


「覚えているか? 隣町の連中と戦争したの」


「もちろん。兄ちゃんの長い髪が馬鹿にされてさ。佐々木小次郎みたいで格好良かったのに」


 その頃の佐々木少尉は長い髪を後ろでまとめて、風になびかせていた。佐々木小次郎だと自分でも言ってチャンバラごっこをしたものだった。今は海軍士官なのでその長髪も切って、短髪なのだが、今でも僕の中ではイワオ兄ちゃんは長い髪だ。


「お前はずっと後ろで石を投げてたな」


「臆病だから」


「でもコントロールは良かった。逃げる奴もいたもんな」


「イワオ兄ちゃんの方がすごかったさ。棍棒で大立ち回り、格好良かったな」


「あのあと、なんか食った気がするな」


「あんころ餅を兄ちゃんがみんなに買ってくれたよ」


「あざ作って怒られたな」


「うん。めっちゃ怒られた」


「いろいろやったな。新勝寺まで歩いて行って、初詣したっけ」


「まるまる一晩、歩いたね」


「アレは楽しかったな……お祭りみたいなすごい人出で……」


「兄ちゃんの憧れの人と偶然会ったんだよね」


「言ってくれるな――苦い思い出だ」


「お似合いだったのに」


「そうだな。そうだったかもな」


 もちろんその彼女とその後、どうなったかなど僕は知らない。


「お前は女、できたか」


「船の上じゃ、出会いなんかないよ」


「そうだな――俺も、帰ったら見合いのはずだったんだが……」


「そりゃ楽しみだね。兄ちゃんならきっとべっぴんさんのお相手だ。なんたって海軍の少尉様なんだから」


「はは。そんなにいいもんかね――そうだな。女も、知りたかったな」


「帰ろうよ。きっと、帰れるよ」


 イヤな予感がした。


「源四郞――俺、もう眠くなってきたよ」


 そして声が小さくなった。


「眠ったら、眠ったらダメだ!」


 こんな状態で眠ったら、溺れてしまう。しかし佐々木少尉の言葉が本当の意味での眠るでは無いことに、僕はそのとき初めて気がついた。


 僕の周りの――いや、佐々木少尉の周りの海水が赤く染まっていたことに。


 おそらく機銃掃射を受けたときに破片か何かで負傷していたのだ。その負傷をおして、僕を抱きかかえ、意識が戻るまで浮かばせてくれていたのだ。


「兄ちゃん――」


「眠い――眠いよ源四郞――もう、俺、寝るな……」


 それきり佐々木少尉はしゃべらなくなった。僕は救命浮き輪を手放し、海の中に沈んでいく佐々木少尉の身体を掴み、抱きかかえ、なんとか浮上し、再び救命浮き輪を手にした。


「兄ちゃん!」


 佐々木少尉はもう事切れていた。


「――兄ちゃん」


 顔を見る。穏やかな死に顔だった。


 全身からぶわっと、何か熱いものが浮かび上がり、僕の目は涙に覆われて何も見えなくなってしまった。


 浮き輪は1つ。佐々木少尉の遺体を離せば、生き残る確率は飛躍的に上がるだろう。しかし僕は、決して佐々木少尉の身体を離そうとは思わなかった。僕の腕の中で、イワオ兄ちゃんは眠っている。


 日本本土まで戻って、兄ちゃんの家族に遺体の一部でも返してあげなければ、僕は死んでも死にきれないと思った。


 ずっと、兄ちゃんの遺体を抱きしめつつ、救命浮き輪で命をつないだ。


 夜が来た。


 月明かりのきれいな夜だった。


 だが、西の空に嵐の雲が見えて、波が荒くなってきた。


 そしてポツポツと雨が降り始め、もう僕もここで終わりだな、と思った。




 気がつくと僕は米軍の輸送船に救助されていた。佐々木少尉の遺体も一緒だった。佐々木少尉の遺体は死体袋の中に入れられていた。これからどうなるか分からない。僕は遺体の黒髪を一房切り取り、ポケットに収めた。


 それから僕は終戦まで米軍の捕虜として過ごし、10月には内地に復帰した。


 内地に復帰して最初に僕は、僕の親族が誰もいない田舎に向かった。


 イワオ兄ちゃんの遺髪を親族に手渡すためだ。


 買い出しのためにぎゅうぎゅうになった総武線の客車の中、僕は故郷に思いを馳せた。


 そして思い出す。


 イワオ兄ちゃんが買ってくれたあんころ餅の味を。


 兄ちゃん。僕は、兄ちゃんのお陰で今も生きています。


 時折、辺り一面焼け野原の、総武線からの車窓を眺めながら、僕はイワオ兄ちゃんの遺髪が入った袋を優しく握りしめたのだった。

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