「お題企画『靴下のあと』」
今はもう、戦争で焼けてしまってないのだが、昔、四谷に古道具屋があった。
その古道具屋で買った革の靴下の――正確には足袋の話をしよう。洋装に慣れた若者には分からないだろうから、靴下と記した。
その古道具屋を私が昔から知っていたかというとそうでもないし、その店に入ったのは足袋を買ったときだけだ。
私は当時、会社に勤めながら、仕事を終えると寝る時間を惜しんで演劇に注力する若者だった。そして私が属していた劇団は全て役者が男で、女は女形が演じる、今ではほとんど見かけない劇団だった。宝塚という劇団が昨今、人気を博しているが、その逆だ。
私は劇団の中で、女形を演じていた。自分で言うのも何だが、化粧さえしてしまえば顔立ちは女、それも美女で通る顔だったからである。女を演じるのも嫌いではなく――女形にはまっていると自分でも思っていた。
しかし男である以上、服などで体形を誤魔化すのにも限界があった。中でも特に悩んだのは脚だった。脚のカタチは男と女で全く違うのである。
たとえロングスカートを履いたとしても、やはり男の脚をしているし、稽古を重ねて舞台の上に立ち、お客さんからは女形として十分通用すると本気で応援の言葉をかけられても、納得できなかった。
どうすれば女のような脚になるのか、悩みながら歩いていてふと行き着いたのが件の古道具屋だった。私は吸い込まれるように店に入り、いつの間にか古道具の数々をじっくりと眺め始めていた。箪笥や仏像、大きな唐風の陶器、南国の仮面、真っ黒な呪い人形――単なる古いものから不思議な印象を与える異国のものまで、数多の古道具が所狭しと置かれていた。
店の奥に、主人らしき男がいた。
年齢は、よく分からない。20代にも見えたし、50代と言ってもおかしくない、そんな年齢不詳の男だ。
「――なにかお気に召したものでもありましたか」
主人は私に聞いた。私は首を横に振った。
「左様ですか――しかしこの店には何をどこに置いているのか、主人の私ですら分からなくなるくらいの種類をご用意しております。もしかしたらあなた様がお求めになりたいものもあるかもしれません。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
そして主人は目を細め、恭しく礼をした。
しかし私は気味が悪くなって、さっさとこの店から出ようと決めた。狭い通路を歩き、表の通りが見えるところまできて、私の視界に何か白いものが映り、目に留まった。それがその足袋だ。箪笥の一段が引き出されていて、その中にあった。
「歌舞伎の有名な女形が履いていたという長足袋です」
いつの間にか主人が真後ろに立っていた。私はぞっとした。
「そんなものが?」
「この長足袋に目が留まったのも何かの縁でしょう。お安くしておきますよ」
「い、いや――別に……」
そう言いかけたが、私の頭の中で何かが鐘を鳴らしていた。それが何を意味するか分からない。しかし、この長足袋が私の人生にとって重要なものだと、知らせていた。
「幾らだ?」
「5円で、いかがでしょうか」
当時、初任給が50円ほどの時代である。高価に感じたが、私の財布の中には10円ほどもあった。だからというわけではないが、主人に勧められるがままに、その長足袋を購入した。
その長足袋を履いて稽古に臨むと、かつての主人である歌舞伎の女形の魂が乗り移っているのか、驚くほど足運びが女性らしくなり、また、脚のカタチまでも女性に見えるようになった。それは舞台監督や共演者も認めるところだった。
私はいい買い物をしたと悦に浸り、稽古を続け、ついに舞台の初日を迎えるに到った。
しかし私はその舞台を全うすることができなかった。
連日の仕事と激しい稽古のためか、脚に激痛が走り、吊ってしまい、途中降板を余儀なくされたのである。私は一体何が起きたのかと、舞台袖で長足袋を脱ぎ、激痛が走るふくらはぎを確認した。
するとふくらはぎには何か、強い力で握られたかのような跡がついていた。私は似たようなものを写真で見たことがあった。これは首を手で絞めたときに残る――縊溝とよく似ていた。
途方もなく恐ろしくなり、私は長足袋を壁へ投げつけた。
何が起きたのかと劇団の仲間が駆けつけたが、私は涙するばかりだった。
仲間にいろいろと物知りな男がおり、その男がいうことには、この脚足袋は通常の鹿革で作られたものではないということだった。もっと薄く、豚のような――もっと薄いような――その男は分かっているのに言いたくない様子だった。
私は言われずとも分かってしまった。
それは人の皮で作られた長足袋だったのだ。
その有名な女形が何を考えてこの長足袋を作らせたのかは分からない。しかし、名を馳せたのはこの長足袋の力があったからだろうということは容易に予想が付いた。
調べてみると女形は舞台から事故で落ち、そのときの怪我が元で亡くなったということだった。
私がその長足袋を履くことはもう2度と無かった。
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