第2話
僕と吉乃が出会ったのは秋が冬に変わろうとしている暗い夜だった。吉乃のことは昔から知っていた。学生時代から同じ学校だったからだ。彼女は昔から綺麗で、よく目立っていた。高嶺の花、と言おうか。簡単に近寄れないような雰囲気とは裏腹に、よくおかしなことを話す子だった。僕は密かに、そんな彼女を当時から気に入っていた。大人になり、再び彼女と出会ったがすぐには付き合えずにいた。それは昔から知っていたからだろうか、最初はなんだかむず痒いような不思議な気持ちだった。彼女を女性として強く意識したのは、あの秋の夜だったんだ。彼女の話す声が、笑った顔が、彼女を包み込む空気さえすべてが愛しかった。少し背が高い彼女の歩く姿を見て、今隣にいるのは自分なんだと嬉しくなった。僕は彼女に夢中だった。やがて付き合うようになり、3年が過ぎた。2人ともこんなに長く付き合うのは初めてだった。よく喧嘩もした。僕が魔が差したこともあったな。喧嘩をした腹いせに、他の女性とお茶をして、吉乃には気付かれないようにしたつもりだったのに、女性の勘てのはすごいもんだ。見事にバレて大喧嘩になった。初めて泣きじゃくる彼女の顔を見て、僕はなんてことをしてしまったんだろうと思った。自分でも気付かないほど、彼女のことを深く愛していたみたいだ。「もう付き合えない」そう言われた時は頭が真っ白になった。いい加減な自分に涙が溢れた。
23歳の夏。必死になって彼女を引き留めた。毎日家まで通った。ようやく許しをもらえたのは3ヶ月を過ぎたころだった。「まだ許してないんですからね。」膨れた顔の彼女はやはり可愛かった。「ああ、知ってる。どうしたら機嫌がなおる?なんだってするよ。」蝉が鳴く路地は暑さで蒸し返していた。「かき氷が食べたい。」唐突に吉乃が言った。「わかった、あそこの喫茶に入ろう。」僕たちは涼むことにした。「いちご練乳のかき氷で。」「僕はアイスコーヒーを。」ようやく涼めた店内で、吉乃は疲れた顔をしていた。彼女は暑さに弱い。額には汗が滲んでいた。「大丈夫?今日は暑すぎる。」気遣う僕を横目にすました顔だ。「実はちょっと気分が悪いの。」言われてみると、少し顔色が悪い。「夏バテかも。氷食べて冷やさないとな。」「お待たせしました。」ピンク色の大きなかき氷が運ばれてきた。練乳がついた氷を一口食べた吉乃はなんだか苦い顔だ。「どおした?」「気分が悪くて。」吉乃は顔色が悪かった。「夏バテしたのか?かき氷食べたいって言ってたのに。食べれそうにない?」そう言いながら一口つまむ。「美味しいのに。」僕はアイスコーヒーとかき氷を交互に食べながら彼女と向き合った。「ねぇ、ごめん。今日は帰りたい。」よほど体調が悪いのだろう。どこか様子もおかしい。「わかった。送っていくよ。歩けるか?」「うん、歩けるわ。」急いで店を出た。「平気か?」歩きながら彼女を見ると急いでいるようだった。「吐きそう。」「ちょっと待って、なにか吐くものないか」慌てて周りを見たが、彼女はそそくさと路地裏にいき我慢ができずに吐いていた。「ごめん。」ひどく苦しそうだ。「びっくりした、大丈夫か?病院へ行こう。」頑なに家に帰ると言った彼女を尊重して家まで送り届けた。帰り道、なにか食あたりでもおこしたのか、他所ごとを考えながら呑気に歩いていた自分に呆れ返る。翌日僕は彼女の口から妊娠したと聞き、不安と同じくらいの喜びを味わうことになる。
僕はというと、職が安定せず工場勤務に変わってからまだ数ヶ月しか経っていない頃だった。
刻は13時を少し回ったころ、僕は吉乃の家にいた。嫁入り前の娘を妊娠させたと、自ら出向いた。彼女に父親はいなく、遠くに住む母親が事を聞きつけ話にやってきた。
「彼女と結婚したいと思っています。まだ職が変わって間もないですが、一生かけて吉乃さんと子供を守っていくつもりです。」考えたセリフではないが、自然と言葉が溢れた。吉乃の母親は都会で商売をしている小綺麗な人で、歳のわりに若く見えた。「この子は私の一人娘です。たった一人の。今は祖母に預けていますが、来年こっちへ来させようとしてたのよ。」真っ直ぐ清鷹を見た。「お母さん!」吉乃がたまらず声をあげる。「私のわがままでこの子を祖母に預けましたから。成人してからどうのこうのと言うつもりはありません。吉乃、産みたいなら出来る限りの支援はするつもりだけど」視線を再び清鷹に向け冷静な声で話した。「この方は職が安定していないでしょ。苦労するわよ。子供を育てるのはお金がかかるの。あなたたちが思ってる以上にね。」内心、こうなるんじゃないかとは思っていた。自分でも一番不安だったことだ。「それは分かってる。まだ二人とも未熟だけど、最初から完璧なことなんて求めてない。この子のために絶対に頑張るから、2人で何度も話し合ったの。」吉乃は頼み入るように話した。「僕は」清鷹は緊張した声で続けた。「正直不安です。本音を言うと。」吉乃がびっくりした顔で僕を見た。「不安じゃないというのは嘘になる。だけど、吉乃さんだからこそ結婚して子供を育てたいと決意できたんです。苦労させてしまっても、二人で頑張りたいんです。」母は観念した表情で好きになさい、と一言残して部屋を出た。「気にしないで、お母さんはああゆうひとだから。」吉乃が泣きながら訴えた。「大丈夫だよ。俺こそごめん。ちゃんと話せなくて。」完璧に認めてもらえるとは思っていなかったが、いざとなるとしっかり話せなかった心残りもある。でも子供のためにもそんなことは言ってられないと僕はもう腹を括っていた。
1ヶ月が過ぎたころ、吉乃の体調が急激に悪化した。毎日床に伏せるようになり、つわりが酷いのだろうと僕は疑わなかった。
「残念ですが、今回は諦めてください。」医者にそうはっきりと言われ、吉乃は泣きじゃくった。僕はなにもできずに、ただ現実を受け入れるしかなかった。
僕たちの思い出は、決して綺麗なだけじゃなかった。今となっては現実だったのか時々分からなくなる。吉乃、君は確かにあのとき僕の目の前にいたよね。そうじゃないとまるで自分が消え入るようなんだ。なぁ、答えてくれよ。
10月の蝉 @une116
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