第4話 切っ先の行方は未だ知れず


「依頼にあったヤドクヒメウサギの毒を納品します。明日の依頼を受注してしまっていいですか? あと、この後ギルドの書庫に出入りしたいんですけど」

「ちょ、ちょっと待ってリリエリ」


 エルナトギルド受付嬢のマドに、リリエリは依頼通りの納品物を依頼通りの量渡した。依頼は確かに完了したはずだが、マドはそれで終わりにはしなかった。


「最近のリリエリ、なんか変だよ。昔からオーバーワーク思考ではあったけど、ここ数日は尋常じゃない。大雨の中壁外に出るし、帰ってきたと思ったら数時間単位で書庫にこもるし、目の下に隈もできてる。それに、相方はどうしたの?」

「ヨシュアさんは療養中でして、その分ちょっとお金が入り用で。今まで楽をさせて貰っていたので、今度は私が頑張ろうかと」

「…………嘘、というより、本当のことを言ってない感じだ」


 マドの目がすっと細くなった。リリエリは何でもないような顔をしていたかったが、その目に気圧されてつい顔を背けてしまった。大正解だと言っているに等しい行為であった。


「それ、僕にも言えないやつ?」


 リリエリは返答に悩んで、ついぞ何も言えなかった。ヨシュアの話を何処までしていいものか分からなかったからだ。


 かつてリデルが語った噂の中には、"邪龍憑き"は秘密裏に処刑されたのだとする話があった。レダはヨシュアを王都ウルノールから逃がす必要があったと言っていた。

 エルナトのような田舎における"邪龍憑き"はあくまでも噂にすぎない。でも、もしかしたら、邪龍ヒュドラの発生地であった西方では扱いが異なるのではないだろうか。


 もし、リリエリの考えが合っているのなら、ヨシュアの、"邪龍憑き"の話を安易に広めるわけにはいかない。

 リリエリはマドを信頼していた。だからこそ、もしもの事態には絶対に巻き込みたくなかった。


 口を閉ざしたリリエリを、マドはじっと眺めた。そうして数秒かけて、リリエリが口を割る気がないということを受け入れた。


「はぁ、ああ、わかったよ。聞かないよ、聞かないけどさぁ。書庫の方、手伝うからね。何調べてるか知らないけど、僕なら絶対役に立てるよ」

「い、いや、でも」

「詳しく話さなくていい。いくつかワードをくれれば、関連した本をいくらでも引っ張ってきてあける。僕のすることはそれだけ」

「……私は、マドにだって、迷惑をかけたくないんです」

「目元に隈をこさえてる人間に拒否権はないねー」


 マドは笑った。出来の悪いジョークに笑うような、日常を思わせる笑顔だった。

 気を使ってくれているのだ。何も話せないリリエリが、これ以上何も気負わないように。


「ありがとう、ありがとうございます、マド」

「お礼なんていいよ。早く解決するといいね」


 ちょっとだけ照れくさそうにしながら、マドは納品された数本の瓶と引き換えに木製の鍵をリリエリに手渡した。エルナトギルド地下一階、書庫の鍵であった。



□ ■ □



 ヨシュアが倒れて六日が経過した。

 

 その間にリリエリは六件の依頼をこなし、八種類の薬物を調達し、十一種類の薬草を採集し、三十冊の本を読んだ。


 成果はない。

 リリエリは手に持っていた薬の小瓶をポイと乱暴に床に放った。これが調達した八つ目の薬だった。薄墨色をした飲み薬で、本来は十倍に薄めて使うような劇薬である。

 ヨシュアだから大丈夫だろうと原液のまま無理やり口に流し込んだ。効能が確かならば血流を促進させて覚醒を促すものだそうだが、ヨシュアはピクリとも動かなかった。


「これでも駄目かぁ……。高かったんだけどな」


 読み漁った本の中にも役に立つ情報はなかった。邪龍に呪われた人の助け方、なんてピンポイントな本があるとはさらさら思っちゃいなかったが、一切のヒントもないとは思わなかった。

 マドの助けがあってもこれだ。恐らくエルナトに答えはないのだろう。


 雨は未だに止まない。

 水分も栄養も摂らず、ヨシュアは滾々と眠り続けている。やつれてはいるが、死にそうには見えない。呪いが命を繋ぎ止めているのだろう。


 まだ、まだ時間はあるはず。

 雨のせいで時間はかかるが、今干している薬草はかなり効き目が強いものだ。明日開かれる南方の商人の市では、普段手に入らないような珍しいものを扱っているかもしれない。レダへの手紙はとっくに王都に届いた頃だ、もう目を通してくれていてもおかしくない。


 リリエリは立ち上がった。寝不足の身体が少し傾いで、リリエリは咄嗟に壁に手をついた。

 カタリと何かが倒れる音がした。足元にアダマンチアの剣が落ちている。


 邪龍化を止める方法。

 リリエリは浮かんだもう一つの候補を、そっと元の位置に戻した。


 まだ時間はある。

 リリエリは何度も自分に言い聞かせた。何の根拠もない薄っぺらな励ましでも、リリエリが動くためには必要なものだった。



□ ■ □



 七日目、早朝。

 変化は唐突に訪れた。


 いつものようにリリエリは階段を上った。ヨシュアが寝ている二階へと、もう幾度となく上った階段だ。

 目をつぶってても歩けるくらいに慣れたはずの道だが、何故だか今日は杖が引っかかる。まるで傾斜が変わったかのような、妙な心地であった。


 今日は雨が止んでいる。朝は市場に顔を出し、昼のうちに壁外に出よう。本での調査を諦めたため、少しは時間に余裕があるはずだ。


 リリエリは今日の予定を頭に浮かべながら寝室へと続く木のドアを開けた。いつもより少し重たいドアの先には、ただ眠り続けるヨシュアがいる。はずであった。


 ヨシュアはいた。ただし、人の形を保ってはいなかった。


 ヨシュアが寝ていたはずの場所に、黒い霧が立ち込めている。霧の中、辛うじて見えるヨシュアの輪郭は僅かに揺らいでいた。

 霧は部屋の中心に留まっており広がる様子はなかった。だが、霧が少しでも触れたであろう周囲の家具や壁には誤魔化しようのない影響が出ていた。


 雨粒が石を穿つように緩やかに、しかし確実に進行している。

 汚れのようにも見えるその黒ずみは、腐敗だ。


 もう大丈夫じゃない。

 リリエリはぐっと心臓を鷲掴まれたような気分になった。逃げ続けていた結論を、直視する時が来たのだ。


 対処法はわかっている。リリエリは霧を避けながら部屋の隅に立てかけられている剣を手に取った。

 重い剣だ、リリエリの筋力では持ち上げるだけで精一杯なほどに。だから、頭部に振り下ろすだけで済む。


 刃の無い切っ先を、ヨシュアの面影を残す頭部にひたりと当てる。後は振り上げて、降ろすだけ。簡単なことだ。簡単なことなのに。


 それなのに、どうして腕が動かないのだろう。


 ぎし、と軋む音がした。早く対処しないと床が抜けてしまう。ヨシュアの意識はないし、ここにレダはいない。間に合わなくなる前に、リリエリが何とかしないといけない。


 リリエリは全てを振り切る覚悟を持って剣を振り上げた。それでも、どうあってもその先が続かないのだ。


 周囲を腐らせつつあっても、どんなに人の形から離れようとも。

 リリエリにとって目の前にいるのは、人間であり相棒のヨシュアなのだから。


「やがて来るその時に、その手が鈍らないように、」


 かつてレダから言われた言葉を繰り返す。剣の重みに耐えかねた両腕が震えている。ヨシュアを覆っている霧が時折リリエリを掠め、その度に火を翳されたような熱を抱いた。


 いつの間にか呼吸は荒く、耳元で心臓が鳴っている。振り下ろせ、振り下ろせと自分の理性が喚き立てる中、


「大丈夫ですよ」


 声が聞こえた。

 温かく柔らかな、陽光に似た声だった。


 背後から差し伸ばされた手が、リリエリの小さな手から無骨な剣をそっと取り上げる。

 振り向き仰いだリリエリの目に、たおやかで優しげな女性が映り込んだ。彼女はリリエリと目を合わせ、にこりと穏やかに微笑んで、


「この咎は、私が背負います」


 音もなく剣を振り下ろした。


 壁に降りかかる鮮血がリリエリの視界の端に映る。目の前の出来事から目を背けているだけだと、リリエリ自身でも気づくことができなかった。


 視界の外で衣擦れの音がして、次いでその音が床に落ちる。女性が身につけていた黒のベールを、ヨシュアの頭に、頭があった場所に被せた音であった。


 にわかに薄らいでいく霧の中、穏やかなままの声が聞こえた。


「始めまして、リリエリ様。私、ステラと申します」

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