第3話 一で駄目なら千を


 微動だにしないヨシュアの姿を前に、リリエリの体は嫌に冷静に動いた。これまでの経験で染み付いた動きが、リリエリを上から操っているかのような感覚であった。


 まずは今この瞬間の安全確認。リリエリは部屋全体に視線をやった。質素なベッドに小さなサイドテーブルが一つあるだけの部屋だった。この場所自体には危険はなさそうだ。

 次に命の、そして怪我の有無。リリエリはすぐに駆け寄ってヨシュアの首元に手を当てた。やや低いものの体温はあり、指先にも拍動が伝わってくる。生きている。見たところ怪我もなさそうだ。


 リリエリは少しの安堵を胸中に抱いた。それと同時に、大きな懸念が頭に渦巻いた。

 死んでいない。怪我もしていない。……じゃあ、なんで彼は起きあがらないんだ?


「ヨシュアさん、大丈夫ですか。起きられますか」


 伏せったままのヨシュアの肩を、リリエリは強めに揺さぶった。見た目よりもずっと軽いヨシュアの身体は大げさに左右に揺れ動いたが、起き上がる様子は見られない。

 ヨシュアは死なない。どんな酷い怪我をしたってたちどころに治ってしまう。首が折れたって胸を貫いたって顔面を殴打したって、なんだって。でも今、目の前のヨシュアは倒れたままだ。怪我なんて、治すべきところなんてもうないのに。


「ヨシュアさん、ねぇ、起きてください。何があったんですか」


 リリエリの声には明らかな焦りが浮かんでいた。このまま彼が目を覚まさなかったらどうする? あの時のように、何か別のものへと変わり始めたらどうする?


「落ち着け、まだ大丈夫、大丈夫、そのはず、」


 リリエリは幾度か自分の頬を叩いた。ヨシュアの周囲に腐敗やそれに準じる変化は見られない。だから、今はあの時とは違うのだ。


 自分に出来ることは、と考えて、リリエリはふらりと立ち上がった。今すぐにこの状況をレダに伝えなければいけない。

 それから、……それ以外に何ができる? リリエリでは、ヨシュアを持ち上げてベッドに寝かせることすらできないのに。


 倒れ伏して動かないヨシュアの上に、せめてもとリリエリは一枚の毛布をかけた。そうして半ば逃げ出すような心地で薄暗い部屋を飛び出した。

 具体的な解決策なんて一つも浮んでいなかった。それでも、何でもいいから行動をしないと、根付いた植物のようにこの場所から動けなくなってしまいそうだった。



□ ■ □



 遠く離れた人間と連絡を取り合うのは難しい。人間の移動は言わずもがな、書面であっても都市間の輸送には時間がかかるのが常である。

 レダに宛てた手紙は、日に二度だけある郵便物の集荷にギリギリ滑り込むような形で発送された。王都ウルノールに届くのは早くとも三日後だろう。多忙な宮廷魔術師であるレダがそれに目を通すのは、きっとずっと後になる。


 簡素な手紙が自分の手を離れてようやく、リリエリは落ち着いて事態に向き合うことができた。


 今起こっているのは、恐らく、邪龍の呪いに関連する事象だ。

 ヨシュアが自室で倒れている時点で既に異常事態だが、その上一向に目覚めないときた。あり得ない出来事だ、彼の性質を考えれば。

 だが、それは現実に起きている。呪いの悪化を疑うのも至極自然なことだろう。


 施療院に駆け込むことはできない。"邪龍憑き"という存在を衆目に晒しうる行為はリスクが大きすぎる。そもそもヨシュアが自身で治せないものを施療院で治せるとは思えない。


 何が起きているのかもわからない今、事態を好転させることなんて不可能に思えた。だがリリエリは、それを良しとして現状に甘んじることができる人間ではなかった。


「……ギルドの書庫に、何かヒントがあるかも。強い気付け薬でも、ヨシュアさんになら使える。ありふれた薬草でも、量を使えばあるいは」


 僅かな望みだとしても、まだ出来ることはある。

 俺にできることは全部やりたいと、かつてヨシュアは言っていた。それなのにリリエリがこのまま何もしないでいたら、あまりに一方的な関係じゃないか。まるでヨシュアを、利用しているみたいな。


 ――そんな関係は、望んでいない。


 リリエリは杖を握る手に力を込めた。俺にできることは全部やりたいとヨシュアは言った。リリエリだって同じ気持ちだ。

 

 現状を解決するとびきりの特効薬なんてわからない。わからないなら試せばいい。一で駄目なら十を、十で駄目なら百を、百で駄目なら千を。

 

「……なんだ。私の得意分野だ」


 雨は未だに降り続いている。空は暗く重い雨雲に満ちていて、小さなリリエリなんてあっという間に押し潰してしまえそうに見えた。

 でもそんなものは足を止める理由には足りない。


 堅実、実直、忍耐。

 自分を構成する一番の武器を支えにして、リリエリは次の一歩を踏み出した。

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