第2話 眼下、暗い部屋、床の上


 何か変だ、とリリエリは思った。

 ヨシュアが二時間も遅れたことは、今までに一度だってなかった。たまたま今日がその初めての日だということもあるだろうが、先ほどからずっと胸騒ぎがしていた。鬱陶しい雨のせいでナイーブになっているだけなのかもしれない。


 ヨシュアの家は知っている。このままここにいても状況は好転しないだろうと、リリエリは席を立った。久しぶりに伸ばされた脚に、血が巡っていく心地がした。

 

 ただ寝坊しているだけならいいのだ。珍しいですねなんて言って笑って、それで終わりだ。

 どうせ今日は休みの日。ヨシュアの住まう街区には、確か最近新しいパン屋が出来たはずだ。折角の機会だ、寄って帰るのも悪くないだろう。

 そんなありふれた日々の一幕を考えながら、リリエリはギルドを出た。根拠のない不安を引き摺るのは無駄な行為だと、幾度か自分に言い聞かせる必要があった。



□ ■ □



「ヨシュアさん。おはようございます。リリエリです」


 ドアノッカーの音が、人通りのない住宅街に控えめに響いた。ざあざあと降る雨に若干の肌寒さを覚えながら、リリエリは目の前の扉が開かれるのを待った。


 ヨシュアは未だギルドから提供された借家に住んでいる。これがレダの計らいであると知ったのはつい最近の事だった。エルナトのギルドマスターであるルダンとレダはどうも旧知の仲らしく、ヨシュアの行方はルダンを通してレダに伝わっていたらしい。なるべくエルナトから出すなという指示によってこの家がヨシュアにあてがわれた、という流れのようだ。


 リリエリがヨシュアを見つけたあの日から、ヨシュアはずっとここに住んでいる。もう短いとは言えない付き合いだ、リリエリだって何度かこの家を訪ねたことがあって、だからこの扉が開かれる様子を容易に想像することができた。とても眠そうな顔をしたヨシュアが、大変申し訳なさそうに顔を出す様子を。


 雨の音ばかりが聞こえていた。リリエリの想像とは裏腹に、少し色の落ちた木の扉は微動だにせず、その向こう側の生活音一つすらも通してはくれない。


「ヨシュアさん。起きていますか?」


 扉の向こうはただただ無音であった。先ほどよりも声を張ってみたが、何かが変わる気配はない。帰るべきか、家の中まで入るべきか。リリエリはさほど悩まなかった。扉の鍵が、開いていたのだ。

 開いているなら入ってしまえ、とリリエリはさっさと扉を開けた。だってもう十分な時間待ったし。この不法侵入は彼の寝坊と相殺してもらう算段であった。


 あえて大きな音を立てながら家の中を進む。この家は二階建てだが、リリエリが入ったことがあるのは一階部分までだ。相変わらず物のないダイニングに、使われた形跡のないキッチン。リビングとしての利用が想定されている空間には、ぽつんと一脚の椅子が置かれていた。

 探すまでもなくヨシュアの姿はない。二階にいるか、あるいは外出しているか。玄関に彼が良く使う履物が置かれたままだったから、後者の線は薄いと思うが。


 二階に続く階段は玄関の横にある。ここから先はリリエリの知らない空間だ。プライベート感が強く、上にあがるのはとても気が引ける。流石にそろそろ起きてくれないかなと、リリエリはもう一度だけ大きな声で彼の名前を呼んだ。返事は返ってこなかった。


「二階に上がりますよ。嫌なら早めに止めてくださいね」


 リリエリはことさらゆっくりと階段を上った。こんなに声を張り上げても物音一つしないとは、やっぱり彼は外出しているのかもしれない。

 かつ、と杖を突く音が静かな廊下に響いた。結局止める声は聞けないまま、リリエリは階段を上り切ってしまった。短い廊下の先には一つ、しっかりと閉め切られたドアがある。なんの装飾もないシンプルなドアだが、あの先が寝室だろうことは容易に想像がついた。


「ヨシュアさん、リリエリです。こんなところまで来てしまってすみません。でも、約束の時間になっても姿が見えなかったので」


 木のドアを叩く手の甲が少し痛い。リリエリは一呼吸分だけヨシュアの返事を待って、それ以上は待てなくなってすぐに目の前のドアを開けた。この家で見ていない場所は、もうあとこの部屋だけだ。この部屋を見て、ああなんだやっぱり外出してたんだと、今すぐにそう思いたかった。


 リリエリは努めて見ないふりをしていた。こんなにも名前を呼んでいるのに返事が返ってこない、別の可能性に。


 きぃと小さな軋みを上げつつも、ドアはあまりにもあっさりと開いた。小さな部屋の中、すぐにリリエリの目に入るものがあった。それは人の形をしていて、まるで這いずって部屋を出ようとする途中で息絶えたかのような姿をしていた。


 しっかりとカーテンが引かれた部屋は、天気も相まって薄暗い。それでも見間違えるはずがなかった。だってリリエリは幾度もその背中を見てきたのだ。


 リリエリの眼前。暗く狭い部屋の中央。カーペットの一つも敷かれていない硬い板張りの上。ヨシュアが倒れて動かない。

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