第三章
第1話 異変
その日は朝から雨が降っていた。
乾いた地域に位置する都市エルナトに雨が降るのは珍しい。そのため、エルナトに所属する冒険者は雨天用の装備を特別に誂えることをしない。リリエリもそんな冒険者の一人だ。
雨の日は視界も足場も悪いし、臭いだってわからなくなる。沛然と石畳を打つ雨の中では、ただ都市の中を歩くことすら負担だ。
この天気で依頼をこなすのは難しい、とリリエリは判断した。ヨシュアと組み始めてから、リリエリの懐事情はだいぶ温かくなった。もはや悪天候を押してまで壁外に出なくても良いのだ。余裕があるって素晴らしい。ギルド一階ロビーに据え付けられたベンチに座りながら、リリエリはしみじみと順境を噛み締めた。
依頼を受けないことを決めたリリエリが、それでもギルドに滞在しているのには理由があった。今日は元々活動するつもりだったため、朝の七時にギルドに集合する約束をヨシュアと交わしていたのだ。今日を休暇とする旨を伝えるべく、リリエリはギルドの端でヨシュアの到来を待っていた。
ギルドには自由に使える伝言板が設置されているので、実は言伝のためだけに人を待つ必要はない。ただ、もう数分待てば約束の七時になる。だったらちょっとだけ待っていようかなという気まぐれをリリエリが起こした。それだけの話だった。
エルナトギルドはいつも以上に閑散として、広いロビーにはどこか寒々しさがある。ここエルナトは比較的穏やかな土地で、喫緊の依頼はほとんどない。だから雨の中でも活動しようとする冒険者は多くないのだ。
そんな長閑な都市だからこそ、右足が不自由なリリエリでもなんとかやってこれていたというわけだが。裏を返せば、高額な依頼もほとんどない。ヨシュアという桁外れの武力を要する今では、この長閑さは一つの制限になっていた。
こんな依頼を受けたいとか、あるいはこういう依頼は嫌だとか。そういった依頼の選り好みを、ヨシュアは一切口にしない。リリエリが選んだ依頼に対して、いいんじゃないかと一言言って、それで終わりだ。
リリエリはがっつり依頼の好みがあるので、自分の意見が通る現状に助かってはいるのだが、本当はヨシュアも強い魔物と戦いたいという気持ちを持っているのかもしれない。そうであるなら、エルナトを出て別のギルドに所属する選択肢だって見えてくる。
「エルナトの外、かぁ……」
暇を持て余したリリエリは、窓の向こうの雨音を聞きながらぼんやりと取り留めのないことを考えた。
幼少期からずっとエルナトで暮らしていたリリエリにとって、外の世界は憧れであった。長らく活動し、また親友もいるエルナトに愛着があるのは事実だ。でもいつかは広い世界に飛び出したいと思っていた。そうして今は亡き自分の父親のように、この目で未知を拓く冒険をするのだ。
リリエリの夢だった。不自由な右足すらも突き動かす彼女の原動力。いつかいつかと思いながら、そのくせ心の奥底では無理だと決め込んでいた、輝かしい永遠の憧れ。
ヨシュアの力を借りれば、リリエリは夢を叶えることができる。
彼は快諾するだろう。わかったの一言でどこへだってリリエリを連れて行ってくれる。
あとは、リリエリがそれを良しとするかどうか。問題はそれだけだ。
「ヨシュアさんには、やりたいことはないのかな……」
ごーんと唐突に鐘の音が鳴った。ギルドの中央に取り付けられた柱時計が、七時を知らせた音であった。
ヨシュアはまだ来ていなかったが、リリエリはさして焦らなかった。ヨシュアは朝に弱いため、時折ほんの少しだけ遅刻することがあるのだ。大抵は十分程も待てば姿を見せる。きっと今日もそうだ、崩れた天気の下では目覚めだって悪くなる。
リリエリは待った。夜勤のギルド職員が眠そうに目を擦りながら退勤していく背中を見送った。
リリエリは待った。ギルドマスターたるルダンが、質の良いジャケットを羽織る要人を会議室に迎え入れるところを、遠くから見ていた。
リリエリは待った。雨は未だに降り続いている。今日はもう降り止むことはないだろう。
リリエリは待った。九時を回っても、ヨシュアが姿を現すことはなかった。
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近々本作の改題を予定しています。内容に変更はありません。よろしくお願いいたします。
12/2追記 改題しました。
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