第20話 スタンピード


 ぱちりとまた空が瞬いた。初日に見たものよりもずっと明るい光が、南西方面で輝いて消える。

 心なしか周囲の温度が上がっているような気がする。錯覚かも知れない。だが確かなことが一つだけあった。近くにいる。近くにいる、近くにいる!


「ヨシュアさん、進んでください。急いで、なるべく遠くに、早く!」

「わ、わかった」

 

 急激に変化したリリエリの様子に気圧されながらも、ヨシュアはすぐに行動に移した。降りていたリリエリを背負い直し、即座に西を目指して駆ける。

 が、その足は幾ばくもないうちに静止した。


「どうしましたか、なにか、」

「……来ている」


 独り言にも似た、小さく短い言葉だった。それがリリエリに少しの冷静さをもたらした。


 リリエリが周囲に耳を澄ます。どくどくと耳元で鳴る鼓動の向こうに、生き物の蠢く気配がある。一、十、わからない。何かが沢山こちらに向かってきている。


「少し、良くないかもしれない」


 ヨシュアはぽんとリリエリを近くの大樹の根本に降ろした。そうしてバックパックを勝手に漁り、三本の杭を取り出した。

 男性の手のひら程度の長さを持つ黒い杭。魔物避けの結界を張るための道具だ。

 杭同士の距離が近ければ近いほど強い効力を発揮する。ヨシュアはそれを可能な限りの近さで設置した。……ちょうどリリエリ一人が入れる程度の面積に。


「これじゃ、ヨシュアさんが入れないじゃないですか!」

「魔物避けにも限界はあるだろう。俺はその中に入れない。……できる限りのことはする」


 ヨシュアはアダマンチアの剣を携えて、音の聞こえてくる方角を見た。だらりと力が抜けたような構えは、系統的な剣術を学んでこなかった人間のそれだ。


 がさがさと強い風の吹くに似た音が聞こえる。南西からだ。先程の強烈な光の方角。

 無関係とは思えない。何が起きている、どうすればいい。この状況を打破するための、最良はなんだ。

 リリエリは視線を目まぐるしく動かし、頭の中から答えを探した。だがそれが見つかるより早く、最初の一匹が姿を現した。


 蜘蛛だ。

 ここ数日幾度も見た大蜘蛛が、一心不乱に森の中を駆けている。まるで何かから逃げているみたいに。

 獲物が罠にかかるのを待ち続けるはずの蜘蛛が、どうして能動的に活動している?


 その個体は二人からずっと離れたところに現れて、そのまま何処ぞとも知れぬ方向に走っていった。

 それに続くように二匹、三匹、不明。黒い絨毯が敷かれていくに似た光景であった。十や二十じゃきかない数の蜘蛛が、あっという間に地面という地面を埋めていく。


 蜘蛛に攻撃の意思はないように見えた。ただし、リリエリたちのごく近傍を通る蜘蛛に限ってはその限りではない。

 自分たちを逃走の障害だと認識したのか、一匹の蜘蛛がヨシュアに向かって大顎を開いた。それが開始の合図となった。


 ぱっと青みがかった液体が散る。ヨシュアが大蜘蛛の頭部を叩き潰すたび、歯軋りのような断末魔を上げて蜘蛛が地に伏していく。

 一体一体はさして強い魔物ではない。だがこの数、この量では。


 リリエリはヨシュアの背を半ば呆然と眺めた。この状況を劇的に変える一手を探し出せなくてはいけないのに、頭の半分が錆びついたかのように動かない。


 火を点ける? リリエリの持つ点火器では、動き回る蜘蛛を燃やすことはできない。

 ナイフで応戦する? リリエリの力では足手まといになるのが目に見えている。


 他に何かないか、とリリエリはバックパックに手を伸ばした。その手がバックパックに届く前に、視界に赤いものが映り込んだ。


 ヨシュアの血だ。一匹の蜘蛛の牙が、彼の左足に深々と食らいついている。

 ヨシュアは声を上げることもせず、淡々とその蜘蛛を叩き落とし噛まれたばかりの左足で踏み潰した。不運なことに、この場においてはそれが下策であった。


「っ、粘液……!?」


 腹部を潰された蜘蛛がぐちゃりと水音を立てる。踏み抜いたヨシュアの左足には、べっとりと白い粘液が絡みついていた。


 あれは蜘蛛の糸を作り出すための原料だ。強靭な巣を形作るための、元となる物質。

 それがヨシュアの左足に纏わりついている。……何が起こるのかだなんて、考えずとも理解できた。


 ヨシュアの左足はもう、あの場所から動かすことができない。


 不意に動きを止められたヨシュアの身体ががくりと傾く。その隙にさらに一匹、ヨシュアの脇腹に牙を突き刺した。

 ヨシュアは不安定な体勢ながらも蜘蛛の長い脚を掴み上げ、引き千切りながら遠くに放り投げる。さらにそこに畳み掛けてきた大蜘蛛に、アダマンチアの剣を振り下ろし潰す。


 未だ劣勢ではない。だが動きを制限されたこの状況が長引けば、どうなるか。

 大蜘蛛に対抗する力を、リリエリは持たない。だが蜘蛛の巣であれば、既に弱点を知っている。リリエリにだって対処ができる。


 リリエリは咄嗟にバックパックに手を突っ込んだ。干した植物でも包帯でも何でも良かった、火が点きさえするのならば。

 そうしてある程度大きくなった火を、ヨシュアの足元に投げ入れればいい。そうすればヨシュアはまた動き出せる。そのはずだった。


 鈍く湿った音がリリエリの耳に届いた。同時、鮮やかな赤色がバックパックを漁るリリエリの手に線を描く。その行為は不要だと、言外に示しているかのように。


 ヨシュアは解放されていた。

 彼が自らその左足を断ち切ったためである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る