第21話 腐食


 ヨシュアの左足は脛からぶつりと途切れていた。

 アダマンチアの剣を使ったのだろうが、あの剣には刃がない。半ば潰すようにして強引に押し切ったのだ。その証拠に、切り口があんなにも汚い。


 ギリギリの中で回っていたリリエリの頭は一瞬にしてぐしゃぐしゃにかき乱された。もう火は要らない。では何が要る? どうすれば自分はヨシュアの助けになることができる?


 纏まらない思考を余所に、蜘蛛の大移動は今もなお続いている。片足となったヨシュアは、それでも二人に近づいてくる蜘蛛を払うために剣を振るった。

 彼が大きく立ち回るたびに、火の粉のように血飛沫が舞う。蜘蛛の死骸が積み上がっていく。


 しかしそれも長くは続かなかった。

 ヨシュアの取り逃がした蜘蛛の一匹がリリエリに向かって脚を伸ばす。大蜘蛛が魔物避けに触れた瞬間、それは電気を流されたかのように弾け飛んだ。

 リリエリに怪我はない。だが、蜘蛛を弾き飛ばした衝撃で魔物避けの杭の一つがぐらりと揺らいでいる。


 このまま何もしなければ、魔物避けが壊れてしまうだろう。もって二、三発と言ったところか。

 リリエリが生身のままこの狂乱に放り込まれたら、万全のヨシュアであっても守り切るのは不可能だ。ましてや片足のないヨシュアであれば。


 さらに一匹、頭上から降り落ちた蜘蛛がリリエリに襲いかかる。それはあわや結界に触れる寸前に横合いから現れたヨシュアに剣を突き刺された。

 多少の焦燥があったのかも知れない。ヨシュアが剣を突き刺したのは、蜘蛛の腹。小さな水音とともに粘液がヨシュアの左腕を覆った。

 幸い動きに支障はなさそうだ。だが、もう剣を手放すことはできない。


 戦う背中ばかりを見ていたリリエリは、この時ようやくヨシュアの顔をはっきりと見ることができた。いつもと変わらない、曇りの日を憂いるような表情。その顔に、はっきりと疲労の色が見て取れる。


「ヨシュアさん!」


 きっとこの声は届かなかった。ヨシュアは背後から突撃してくる蜘蛛を右手の甲で打ち倒し、そのまま剣でとどめをさした。

 その奥から二匹目、三匹目。赤い色が飛び散った、気がする。リリエリに余裕はなかった。蜘蛛がもう一匹こちらに気づいている。向かってくる!


「くそ、あっちへ行け!」


 リリエリは咄嗟にナイフを投擲した。目らしき部位を破壊された蜘蛛はギシギシと軋んだ声を上げ、次の瞬間にはヨシュアに頭を潰されていた。


 少しでいい、蜘蛛の動きを鈍らせることが出来ればヨシュアの攻撃が間に合う。

 ナイフを投げてしまったのは失敗だったが、それでもまだ打つ手はある。リリエリはバックパックから鍋を取り出し、麻紐をきつく結びつけた。


 これで自分も戦える。微力でも、不格好でも、ほんの僅かにでも役に立てれば。

 リリエリは怯えきった意志をどうにか奮い立たせて前を見た。見てしまった。


「…………あ、」


 ヨシュアの身体がぐらりと傾ぐ。不自然なその動きの原因はすぐにわかった。彼の残った右足が、蜘蛛の粘液によって地面に縫い止められていた。


 傾いだ勢いのまま、ヨシュアが地面に倒れ伏す。……ヨシュアが倒れている? 現実をうまく直視できなかった。ただ、このままではすべて失ってしまうと、そう直感したリリエリは咄嗟に彼の元へ駆け寄ろうと、


「動くな」


 リリエリの身体が止まった。言葉の意味を理解したというよりは、ただの反射に近い動きだった。

 ヨシュアの目が、リリエリを見ていた。


「そこを出るな」


 リリエリには彼の言っていることがうまく理解できなかった。出るな、ってなんだろう。だってこのままだとヨシュアは死ぬし、自分も死ぬ。


「必ず助ける」


 蜘蛛の死骸の上を越えて、もう一匹の蜘蛛が魔物避けに突っ込んでくる。結界によって弾かれ後退した蜘蛛に、リリエリは思い切り鍋をぶち当てた。脚を数本折ったようだが、蜘蛛はまだ生きている。


「リリエリ」


 杭はもう抜けてしまいそうだ。どうせ死ぬならヨシュアだけでもここから逃がすべきだと思った。彼は死なないから。彼がこれ以上痛い思いをする必要がないように。


「リリ、エリ」


 蜘蛛の注目をヨシュアから逸らす方法。蜘蛛の敵意を一身に集める、その方法。

 これは賭けだ。リリエリが二人ほど入れそうなほどに大きいバックパックの中には、壁外で過ごすために必要な道具がありったけ詰められている。……例えば、強い匂いがでるものなど。

 この中にある何か一つでも、蜘蛛の注意を惹くものがあれば。


「私を置いて逃げてください。ヨシュアさん」


 大蜘蛛が牙をリリエリに向ける。それは結界に阻まれたが、同時にヒビの入る音が響き渡った。杭の一本が壊れたようだ。魔物避けはもう、機能しない。


 リリエリはバックパックを体の前で構えた。盾の代わりに、そしてバックパックの破壊を促すために。

 ぎぎ、と錆びた蝶番を抉じ開けるような音がする。結界によって弾かれた先、脚が四本しかない蜘蛛が、ようやく会えたとばかりにリリエリに向けて脚を伸ばす。

 リリエリは自分の父親のことを考えた。これで自分も、冒険者として胸を張れるだろうか。


「――必ず、助ける」


 ずるり、と蜘蛛が融けた。


 リリエリを威嚇していた大蜘蛛も、既に死んでいった蜘蛛の死骸たちも、周囲の木も葉も、地面さえもがぐずぐずに融けていく。

 熱された氷みたいに、火のついた蝋よろしく、――腐りきった果実のように。


 ヨシュアを中心に、世界の全てが腐敗していく。


 

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